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2012年2月20日 (月)

いつか、霜柱を踏み走り、氷を割って遊べる世の中に

2012年2月19日(日) お納骨でお寺に集まられたご家族ご親族。子どもがが4人いました。境内で、元気いっぱい走り回っています。
立春を過ぎたとはいえ、まだまだ寒い日が続きます。土の地面が多いお寺には、霜柱がビッシリ立っています。子どもたちは、霜柱や、溜め池に張った氷に大興奮です。現代の子には珍しいのですね。ビニール袋に霜柱や氷を集めて、はしゃいでいます。

20日(月) 朝早く起きた長女と共に、境内の掃除をしました。
西蓮寺玄関向かって左手に、五右衛門風呂が置いてあるのをご存じですか? (全体さび付いていますが、あれ、五右衛門風呂なんですよ。私が4歳のときまで入ってました。住職に抱っこされながらお風呂に入っている記憶が残っています)
水の入った五右衛門風呂に、厚めの氷が張ってました。両手で抱えなければ持ち上げられないほど大きくて厚い氷を娘に見せました。
「おお!!」 娘は大興奮です。
「これで遊んでいいよ。割ってもいいんだよ」
「ほんと!?」 “割ってもいい”の一言に、娘は大喜びです。考えてみれば、壊してもいいんだよなんて言われて与えられる遊び道具なんて、ないですよね。手袋をしているとはいえ、寒い中、夢中で氷で遊んでいます。楽しそうに遊んでいる娘を視野に入れながら、私は掃き掃除をしていました。


霜柱や氷に夢中の子どもたち。とても楽しそうです。
こんな、なんてことない遊びが、許されない子どもたちがいます。福島の子どもたちです。
外で遊ぶこと自体が許されていないのですから、霜柱や氷遊びだけの話ではありませんが、屋外で子どもが遊べない環境って、なんだろう?と思います。そんな環境を作ってしまったのです。私たちは。
原発推進or反対の話をするとき、電力量の問題が出るけれど(原発を無くしたら電力量が足りなくなるとか、節電すればいいとか)、そこの話ではないと思うのです。
子どもたちが外で遊べない環境。いちいちガイガーカウンターで数値を調べてから遊ぶ(遊ばない)環境。原発は、そのような環境を作り出す。それでいいのですか? そういう話だと、私は思っています。
今、「子どもたちが」云々言いましたが、けっして「子どもたちのために」というつもりはありません。原発を享受してきた私に、そんなことを言う資格もありません。「子どもたちのために」と本気で思った人の結晶が、原発であったかもしれません。結果、現実の惨状を生み出してしまったわけですが。
「○○のため」は、危ういです。自己正当化の隠れ蓑ですから。「子どもの代まで考えると原発は必要」? まだそんな話か…。子どもの代などと悠長なことを言ってられない状態にあるのに。
それに、「○○のため」は、そこからあぶれる、そこに当てはまらない人を生み出す。すべての人のためになることなんて、ありえない。原発推進でも反対でも、子どものため・家族のため・地域のため・仲間のためでも、自己正当化によって(自分は正しいと思って主張することの背景に)踏みにじられる多くの人々が存在することを抱えなければいけない。
原発反対を主張するということは、現場で働く人たち、部品を作る工場で働く人たちの仕事を奪うことになる。子どものためと言いながら、親が職を失ってしまう子どもたちを生み出すことも事実。
何を主張しても、どこに向かって歩もうと、すべての人々にとって丸く収まることはない。でも、それが、関係を生きているということの持つ姿。
「絆」がすばらしいことと思われている現状に、警鐘を鳴らしたことがある。「絆」という漢字は、馬や牛の足を結ぶ紐から成っているという。私たちの生活でいえば、しがらみであり、他人の目を気にする 私のこころ。「絆」とは、手と手を取り合って、みんな仲良くというイメージではなく、お互いを気にしながら生きて行くことを表す。
「絆」をいらないと言っているのではない。みんなが丸く収まる、みんなが幸せになるというイメージで「絆」を求めるのではなく、こっちに立てばあっちが沈み、これを選べばあれを失う、そのようなつながりを生きているものとして、「絆」を感じたい。それが、絆を生きるということ、関係を生きるということ、縁を生きるということ。
つまり、笑顔の背景に、涙する人が必ずいるということ。自分の主張によって、傷つく人がいるということ。そういう真実を、もっとギュッと抱きしめなければいけない。そう、抱きしめることによって、私が傷つく。子どもたちの笑顔を見ながら、そんなことを感じたのです。「子どもたちのため」なんて、言える私ではない。でも、子どもたちは私のために全身でもってはしゃぎ回っている。抱きしめることによって付く傷は、温もりを内包した痛みであり、苦しみを伴った笑顔でもある。
「幸せを求めて生きるのが人間でしょう」と言ったよね。その「幸せ」ってなんだ? 内容は人それぞれ違うだろうけど、他者(ひと)の悲しみに鈍感で、自分さえ良ければいいという感覚で「幸せ」を考えていないだろうか。
「幸」という漢字は、「手かせ」から成る。「手かせ」をはめられている状態とは、刑を受けているということ。そこからの解放が「幸せ」の意味だと聞いていたけれど、いえ、そうではない。「手かせ」をされている状態、刑を受けている状態、絆を生き・関係を生き・縁を生きている状態の中にこそ、「幸せ」はある。一般的に考えられているような幸せではなく、つらさ悲しさを抱えながらも、そこに生きる道筋を見いだすことが、“幸せ”。

なんて、思いのままに書いたけれど、こんなグダグダ言う必要はない。
霜柱を踏みながら走り回り、手を真っ赤にしながら素手で氷を手にとって、調子に乗ってその氷を口に含んでもなんにも心配いらない。それって、幸せじゃない?
原発の有る生活って、たかだか30年から40年ほど。私が五右衛門風呂に入っていた頃に遡るだけなんだけど、それでも耐えられないかなぁ。

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コメント

( 1) ウランは未来永劫あるわけではないように思います。

( 2) 通常の運転で出る廃棄物の処理をする技術を人類は持っていないのではないかと思います。取り敢えずドラム缶にどんどん溜めていったとして、未来に、実際に運用するのが可能なコストで処理できる技術が開発されるかどうかは分からない気がします。研究開発から実際の運用、ひろーい意味でべらぼうなコストがかかる可能性があるように思います。

( 3) 普通に運転していって、いつか寿命が来て、廃炉にしないといけないとなったときに、廃炉にする技術を人類は持っていないのではないかと思います。たとえば、取り敢えず厚さ5mのコンクリで原子炉をすっぽり覆うとして、原子炉というのは本当に巨大も巨大な建物ですから、そのコンクリがひび割れたら、更にその外側に…とどんどんできるわけではないでしょう。自重で崩れると思います。研究開発から実際の運用、ひろーい意味でべらぼうなコストがかかる可能性があるように思います。

( 4) 原発を建てて、メンテして、燃料を作り、廃棄物を処理し、寿命が来たら廃炉…のライフタイムのコストは、とてつもないコストになる可能性があると思うわけです。それらに費やされるエネルギー分、化石燃料を浪費するという風に考えても全くおかしくはないかも知れませんし(ま、そこまで言ってしまうと、議論が流石にかなり大雑把ではありますが…)、ウランも未来永劫にあるわけではないと思うと、物凄く将来性があるような分野には思えないです。であるならば、そこにリソースをあまりかけるのはどうかという気がします。

( 5) 原発推進派の方々は、昔から、化石燃料に対する代替案を出してみろ、ないなら、原発に反対しないで黙れと、結果的になってしまうようなことを、暗に、言われているような気がしてなりませんが、それは没論理だと思います。(一般論で、一般市民、一人一人に、国家なり電力会社なりが、代替案をいますぐあなたが出せないなら黙れと結果的になってしまうようなことは、そもそも、おかしいということももちろんあります。我々は首相でも電力会社社長でもありませんから代替案を出さなければならない義務はそもそもありません。異議申し立てを口にする権利はあります。)そうではなくて、そもそも化石燃料に代替エネルギーなんて、現実にはどこにも存在しないというのが、事実でしょう。

つまり、化石燃料は大事に節約して使わないといけないというのが、本当のところではないでしょうか?

( 6) すると、たとえば、今、電力の何十パーセントは、簡単に言ったらモーターに使っており、別の何十パーセントは照明に使っている……、よって、省電力型のモーターや照明の技術開発、設計、製造、普及にリソースを裂くということは、大変に大事だと考えられます。

( 7) むろん、太陽光、風力や地熱などによる発電の技術開発、設計、製造、普及にリソースを裂くということも、化石燃料の節約に繋がると思います。

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