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2012年2月 1日 (水)

2012年2月のことば

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浄土宗のひとは愚者になりて往生す
                   法然上人

今月のことばは、宗祖親鸞聖人の先生、法然上人のことばです。
「南無阿弥陀仏のお念仏をいただいた人は、〝愚者〟の自覚に立って人生を歩む者となる」
現代を生きる我々の感覚では、「愚者」ではなく「知者」となることが大事なことと考えるのではないでしょうか。しかし、「愚者になりて往生す」と法然上人は仰います。どのような想いが込められていることでしょう。

昨年あたりから、自転車に乗る人に対する風当たりが強くなってきました。自転車は車両の一種なので、歩道と車道の区別のある道路では車道の左側端を走る。やむをえず歩道を通行するときは、歩道の車道側をすぐに止まれる速度で徐行すること。歩行者の通行を妨げるおそれのある時は、一時停止をすること。これらのことを守りながら自転車に乗りましょう。
言われてみれば至極当然のことなのですが、それが出来ていないのですから、規制が強化されても仕方ありません。しかし中には、「なぜそこまで規制されなければいけないのか」などと文句を言う人もいることでしょう。
自転車に乗ることの規制が強まって、思うことがあります。喫煙のマナーです。喫煙者にとって、タバコを吸う環境は、日に日に面倒になっています。飛行機や列車などでは吸えなくなりましたし、公共の場においても分煙化が進んでいます。吸わない人間からしてみれば、分煙化・禁煙化はありがたいし、至極当然のことですが、愛煙家にとっては、「なぜそこまで規制されなければいけないのか」と文句の一つも出ることでしょう。タバコ税は「一般財源」に納められ、国の借金返済、公共の施設の建設費・運営費などに使われているそうです。つまり、タバコ税は愛煙家にのみ還元されるのではなく、すべての国民に還元されているのです。そういう意味では、愛煙家からすれば、「自由に吸わせてくれよ」というのが本音でしょう。
さて、愛煙家を擁護しているわけではありません。タバコを吸うのに苦労するのは、周りにいる人のことなど考えず、自分が良ければいいという吸い方をしてきた結果です。
タバコにしても自転車にしても(それだけの話ではありませんが)、ルール無視・他者の安全を顧みない行動の積み重ねが、結局は自分に返ってきます。しかし、自分に返ってくるまで、他者(ひと)を人と見ない生き方をしている自分に気付かないものです。いえ、そうなっても気付かないヒトもいることでしょう。
あるいは、嫌煙家であり自転車のユーザーである人が、タバコの規制に対して「当然だ」と躍起なのに、自分も使用する自転車を規制されると、「どうして!」と文句を言ったりします。火の粉が自分に降りかからないときは相手を責められるけど、少しでも自分に火の粉が降りかかってくると、我慢できないものです。自分の姿って、なかなか見えないものです。
地球上に「いのち」ある限り、もはや消えることがない原発(放射能)問題。いまだ原発推進の動きがある反面、反原発・脱原発の声も盛り上がってきました。しかし、昨年の震災後からの一連の動きに、先輩僧侶が警鐘を鳴らしてくださいました。
「原発の事故が起こり、〝国は、東京電力はけしからん〟と言うけれど、自分の親族の誰か一人でも東電に勤めていたとしたら、そんなこと言わないでしょう。反原発・脱原発は、これから日本が歩むべき道です。しかし、自分が置かれている環境や立場によって、私の想いというものは変わってしまうのです。そういう自分であることを、しっかり見つめなければいけません。そうでなければ、人間は原発に代わる別の問題を作り出しかねません」
他者(ひと・いのち)が見えないどころか、他者を傷つけながら生きていた。そして、結局は自分をも傷付ける。そのような生き方をしている私に無自覚で、「自分さえよければいい」とばかりに振る舞っている。そのような姿を「愚者」と言います。

と、今まで「愚者」の意味するものを、このように考えてきました。でも思います。このような生き方は、「愚者」ではなく「愚か」なのだと。法然上人や親鸞聖人が生涯を通して歩まれた「愚者」の歩みとは、生きる上でのもっと根本的な内容を表現しているように感じます。

宮城 顗(みやぎ しずか)先生(1931~2008 九州大谷短期大学名誉教授)は、教えてくださいます。
「私は、人間の愚かさというものは、答えを持っていないことにあるのだと思っていました。しかし、ミラン・クンデラ(チェコスロバキアの作家)は言います。『人々の愚かしさというものは、あらゆるものについて答えをもっているということからくるのだと自分は思う』と。答えを持ってしまうと、人間はあらためてその事柄を理解しようと耳を開き、眼を凝らして事実を見つめ直し出会い直すというこころを失ってしまいます」

答えを持つ、あるいは答えを獲得するための歩みをする者を 「知者」であると思い込んできました。しかし、幸せになるための答えを探し続け、これこそ幸せの道だと答えを出したところに待っていたのは、人が見えない世界でした。おかしなものです。人の世の幸せを願いながら、人が不在となるのですから。答えと思い込んでいたものが崩れ、右往左往しているのが現代の私たちです。
答えは、周りを見る眼を塞いでしまいます。問いを持ち続けるということは、眼を見開くことになります。答えを持って生きるのではなく、生きながらにして起こる様々な出来事を縁として生まれた問いを持ち続けながら生きる。その姿が、「浄土宗のひとは、愚者になりて往生す」る生き方なのではないでしょうか。
阿弥陀如来は、すべての「いのち」の救済を願ってやみません。その願いという温もりに、今、現に抱かれています。その温もりに包まれているからこそ、答えという終着点ではなく、問いを持つという一道を歩み続ける(往生する)ことができるのです。

   

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今月の人形はおひなさまです。
背後に雪だるまが見えます。

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コメント

捨家棄欲、而作沙門、発菩提心等とは、これ助行なり。またこれ能助なり。謂く往生の業には、念仏を本とす。故に一向に念仏を修せんが為に、家を捨て欲を棄て沙門と作り、また菩提心を発す等なり。中に就いて出家発心等とは、且く初出および初発を指す。念仏はこれ長時不退の行なり。むしろ念仏を妨礙すべけんや。『選擇本願念佛集』

【私の解釈】出家したり菩提心を発すことは念仏をするようになる縁となるんですよ。出家とか発心とかを、もしかすると頭を空っぽにして素直に念仏を喜ぶことにには邪魔になるんじゃないかなぁという気もするかもしれなけど、そんなことはないんだよ。何故なら、出家とか発心とかは一過性のもの。念仏は一生涯。だから大丈夫…。よしっと思って、比叡山で勉強して、知識を頭に入れても、数十年もすれば、必ず、挫折するから、出家したり菩提心を発すことは、必ず挫折することであり、そのときに、お念仏が喜べるようになりますよ。

もし菩薩、種種の行を修行するを見て、善・不善の心を起こすことありとも、菩薩みな摂取せん、と。已上『教行信証』

努力してしまった人も、努力できなかった人も、必ず、救われます。

愚者っていうけど世の中そんな流れじゃない気がするのは僕だけなのだろうか。
闘睜堅固ならん白法穏没せん、などという心情だったが、
大乗仏教の他力って思想ならありか?と思うが努力は身につくし、
しかし、自転車の努力はあほになってくだけだと思うが、
人のいのちがかかってるしこの年に成って白法隠没とは思えないし。
と言う事は仏様の考えてる事とは百二十度違ってるんだなきっと、
今は神様主体でやってるんだらうか、だとしたらキリスト教か。
キリスト教は神を敬いなさいってアレだろ。だったら、易行だな!!とかいって(笑)

『諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』に言わく、支謙三蔵訳
「我般泥洹して去いて後、経道留止せんこと千歳せん。千歳の後経道断絶せん。我みな慈哀して特にこの経法を留めて、止住せんこと百歳せん。百歳の中に竟らん。乃し休止し断絶せん。心の所願にありてみな道を得べし」と。略出

最後だけ「経道」じゃなくて「道」。単に同じ単語を繰り返すと文章がかっこわるいからという名文を狙って最後だけ「道」にしているだけという可能性もないとは言い切れませんが…。

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