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2012年1月28日 (土)

2011年度 東京教区報恩講参詣記

2012年1月27日(金) 東京教区報恩講に参詣しました。
長女(もうすぐ3歳)を連れて行ったので、じっとしていられないので、講堂でお話を聞くことはできませんでした。外部にもスピーカーで勤行・感話・ご法話が流れていたので、真宗会館のいろいろなところで拝聴させていただきました(そんな聴き方、いけないんだけど…)。
真宗会館に着いて、始めは人見知りしていた長女も、遊んでくれるスタッフがいて、いつの間にか大喜びでした。お相手してくださったスタッフの皆さん、ありがとうございます。それぞれお仕事があるのに、ごめんなさい。また、娘の喜びの叫び声が、講堂に聞こえてはいませんでしたでしょうか。申し訳ありません。
娘が遊んでもらっている姿を見ていて、スタッフの多くは児連のスタッフをされている方々だなぁと思いました。子どもの相手が上手です。報恩講のスタッフとして、寒い中 会場交通係や大鍋係(お汁粉美味しくちょうだいいたしました)をされている皆さん。ご参詣の方々と楽しそうにお話をされています。児連の際は、子どもたちと同じ目線で接してくださいます。「人間が好きな人たちがここにいるんだなぁ」と、一参詣者として足を運び、ある意味客観的に報恩講の様子を見ていて、そう感じました。教区報恩講…すばらしい空間だなぁ。長年スタッフをされている方、一年スタッフを外れて、一参詣者として報恩講に参詣されると、新しいものが見えてくるかもしれませんよ。

普段なら娘がお昼寝の時間にご法話があったので、タイミングが合えば、眠り込む娘を抱えながら、講堂でご法話を聞けるのではないかと思っていたのですが、娘は大はしゃぎです(帰りの電車で寝ました)。
ご法話は拝聴できませんでしたが、ご法話に先立つ感話は、時間も短いので、モニターを見ながらお話を聞けるところへ娘を連れて行き、拝聴させていただきました。
感話は、同じ東京五組の坊守様。4年前にご住職が還浄され、それから こんにちに至るまでのこころの動きをお話されていました。26日のブログ「今も朋に」で書かせていただいたご住職です。
周りの人間が思う以上に、当事者は大変です。でも、その中でお寺を守られ、息子さんも住職に襲職されました。
「住職の代わりにお勤めさせていただきます」と、断りながらご法務をお勤めされていた坊守様に、「住職も隣にいるじゃない。あなたは代わりなんかじゃないわ」と声をかけてくださった門徒さん。
「お母さんも得度して、僧侶の資格を持っているんだから、一緒にお勤めをしましょう」と勧められた現住職(息子さん)。息子さんのことばによって、「坊守として、寺を守ることが勤めだと思い込んでいたけれど、僧侶でもあることを思い出させていただきました。僧侶として、どう歩んでいけばいいのか模索しています」とお話されていました。
ことばは、人を生かす力がある。いえ、人の力を呼び起こすはたらきがあるんだなぁと想いました。
病床の前住職のお姿にも触れられていて、感話を聞きながら、お見舞いに行ったときの会話が昨日のことのように思い起こされました。
娘にお菓子を食べさせながら、しっかり拝聴させていただきました。ありがとうございます。南無阿弥陀仏


暗くなる前に失礼したので、ろくに挨拶もせず会館を後にしました。お世話になった皆様ありがとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

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コメント

お子さん、可愛い盛りですね!

Windows LIVEメールからメール入れさせて頂きました。

☆theotherwindさんへ
真宗会館では、ちらっとお会いできましたね。
この度は、先生のお話の音源をお送りくださいまして、ありがとうございます。
28日も行かれたのでしょうか?
ご丁寧にありがとうございます。
娘たちが寝てから、落ち着いて拝聴させていただきます。

はい。
27日は11時30分に真宗会館に着き、お逮夜→報恩講の夕べ→懇親会。
28日は8時から晨朝→日中にお参りさせて頂きました。

☆theotherwindさんへ
教区報恩講を満喫されたご様子。うらやましいです。

実は、当日より前にお磨きも行きましたよ。
真宗会館、ご本尊前の鶴亀を磨いたのは私です( ̄ー ̄)ニヤリ。

戸次公正先生の、28日日中の御法話の最後に、安良岡康作『歎異抄全講読』のお話が出てきますね。

お持ちかとも思いますが…

 一 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。
 
を、安良岡康作『歎異抄全講読』大蔵出版 (1990/11) では、 「往生をばとぐるなりと信じて」の後に「、」(読点)を打って、「往生をばとぐるなりと信じて」=「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」、且つ、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて」→「往生をばとぐるなりと信じて」、および、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて」→「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」と解釈しているようです。

『念仏にまで至らぬ信心は、観念的、理解的段階に留まる外はなく』という指摘をしておられます。

「すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」の『「預く」は他動詞で、加わらせる、参加させる。』と安良岡先生は取っておられますが、戸次公正先生によると、この解釈を取っているのは、安良岡の『歎異抄全講読』だけとのこと。

あるいは、。戸次公正先生は、阿満利麿「無宗教からの『歎異抄』読解」ちくま新書 (2005/05)に、安良岡康作『歎異抄全講読』が安良岡康作『歎異抄全講読』を参照していると仰っておられたので、「無宗教からの『歎異抄』読解」に、、この解釈は、『歎異抄全講読』にしかないと書かれているのかもしれないですが。

安良岡康作『歎異抄全講読』は、数年前の求道会館親鸞講座で、蓑輪秀邦先生が、何度も署名を挙げておられたので、当時、購入しました。

今、新装版というのが出ているようですが、定価は一万円弱。でも古本なら3千円とかであるんじゃないかと思います。(かなり出回った本みたいです。)

先に連絡させていただきましたフォルダに28日朝の御法話も入れておきました。

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