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2012年1月 6日 (金)

2012年1月のことば

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丁寧に生きる
   
真宗大谷派発行の雑誌『同朋』2011年11月号に、ベニシア・スタンリー・スミスさんのインタビューが載っています。「丁寧に生きる」ということを、ベニシアさんから教えていただきました。
イギリスの貴族社会で生まれ育ったベニシアさんは、何不自由ない暮らしをされてきました。ところが、自分の生き方に疑問を持ち、人生の本当の意味を求めて、インドへと旅立ちました。現在は、京都市の郊外、大原にある築100年の古民家で暮らしておられます。そのベニシアさんは、「丁寧に生きる」ということを大切にしておられます。
   
あなたにとって、「丁寧に生きる」とは、どのように生きることですか?
そのように問われたら、人に優しく接する・時間を大切にする・物を大事にするなど、いろいろなことが想い浮かぶことと思います。私も、最初にインタビューを読んだときは、「丁寧に生きる」ってそういうことかなと考えました。でも、よくよく考えてみると、あらためて何かをしよう、今までできなかったことをしよう、と思うということは、それが出来ていなかったということですよね。つまり、丁寧に生きていなかったのです。人に優しく接する・時間を大切にする・物を大事にするということは、大切なことです。でも、あらためて そのようにしようと考えるところに、今まで出来ていなかった自分がいるわけです。丁寧に生きていなかった私がいることを教えられます。
あらためて何かをしようと誓って、それが出来た試しがありますか? 年も改まり、「今年こそは…」と、新たな誓いを立てられた方もいることと思います。しかし、その誓いを守ること・実行することの難しさは、誰よりも自分自身が分かっていることでしょう。立てた誓いそのものを忘れている方もいるかもしれません。
「丁寧に生きる」ということを、自分の想いとして考えると、我執に陥ってしまいます。人に優しく接しても、その反応がなければ腹が立ち、愚痴が出ます。時間を大切にと思っても、そう考えるところに、時間に支配された生活が待っています。イライラ・アクセクが始まります。まるで丁寧に生きられません。「丁寧に生きる」ということばから、丁寧に生きられない私が表出してきました。
    
「丁寧に生きる」ということばを頭に留めていたら、「天命に安んじて、人事を尽くす」という清沢満之先生(1863~1903)のことばに出遇いました。清沢先生は、明治期の真宗の僧侶・教学者で、親鸞聖人のおしえを、私たちに大きく開き伝えてくださった方です。私たちに馴染みがあるのは、「人事を尽くして天命を待つ」ということばだと思います。しかし、「天命に安んじて、人事を尽くす」と清沢先生は仰います。
最近、なんとなく考えていることがあります。「努力が報われる(報われない)」とか、「こんなに頑張っているのに、誰も褒めてくれない」とか言いますよね。でも、何かおかしいなと思うのです。私たちは、報われるために努力をしているのでしょうか。誰かに褒めてもらうために頑張っているのでしょうか。
うまく表現できませんが、自分が成すことは、それをする機会、させていただく機会をいただいているからこそ、身をもって物事を成すということができるのだと思うのです。
「子どものために頑張っています」ということも、私の想いに先立って子どもがいてくれるわけです。「この仕事を成功させたい」ということも、私に先立って仕事があるわけです。成功させて成果を収めたいと思わせてくれる人がいてくれるわけです。「人のためになることをしたい」ということも、私に先立って人がいてくれるわけです。
余談ですが、「幸せ」の意味をご存知ですか? 本来は「仕合せ」と書きます。「仕に合う」ことが「幸せ」ということなのです。「仕に合う」とは、「この人に仕えたい(仕えてよかった)」と思える人に出遇うことです。それが「幸せ」なのだそうです。自分の欲望が叶うことや快適な人生が幸せなのではありません。そのことが幸せに結びつかないことは、昨年の原発の事故によって思い知らされたはずです。「この人に出会えてよかった」と言える人との出遇いにおいて、幸せはもたらされるのです。たとえ困難な状況に変わりはなくても。その、「この人に出会えてよかった」と言える人との出遇いも、私の想いに先立ってあるわけです。
自分の力を尽くして(努力して)、天命(ご褒美)を待つのではありません。私が、私の成すことを安心してできるのは、すでにして、縁を生かされているから。報われることを期待する必要もないのです。すでに報われた中を生きているのですから。
「私が、私の成すことを出来る」のは、すでに温もりに抱かれて、この生(いのち)を生きているからです。子どもが公園で思いきり走り回って遊べるのは、自分のことを想ってくれている親の愛情があるからです。走り回っているとき、わざわざ愛情のことを思っているわけはありません。でも、その愛情に包まれて生きている大前提があるからこそ、思いっ切り遊べるのです。私たちも、すでにして温もりに抱かれているからこそ、思いっきり生きることができているのです。そのような意味が、「天命に安んじて、人事を尽くす」には込められているのではないでしょうか。
ベニシアさんは、講演会などで話す機会に、聴衆に問うそうです。「自分のいのちがあと一週間しかないとわかっていたら、何をするんですか?」と。「たぶん、景色がいい場所に行きたいとか、自分の家で家族と過ごしたいとか思いますよね。その最後の一週間にしたいことは、今でもできることでしょう。それが丁寧ってことだと思うんですよね」
あらためて何かをしようと思い立つことが「丁寧に生きる」ことではありませんでした。自分で思い立つよりも先に、すでにしてある人々や物事。その出遇いの中を生かされている現実が「仕合せ」なこと、「丁寧に生きる」ということなのでした。その気付きの中で、今でもできることを尽くして生きましょう。

   

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今月の人形はETO12(干支12支)です。
センターは龍です。

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コメント

おお、文章量多いじゃないですか。パソコンに還相回向が?

ベネシアさんって貴族で、子どもの時に超巨大なお城にお住まいだった方ですね。想像を絶するお金持ち。全部捨ててインドへ。で、今は京都でセンスの良いもの小量を大事に大事にお使いの方。お金なんてありすぎったって幸せではないそうな。そりゃそうなんでしょうが、生まれたときからあったら、なかなか捨てられないですよね。いや、自分で努力してお金持ちになって捨てるのもできないでしょうが。理屈ではお金なんてありすぎったってということは誰でも分かるんでしょうけど、実際に捨てるのはできないですよねぇ。

ベネシアさんは多分、ゴミもあんまり出してない気がします。

東京の場合、回収するところに出してしまうと、魔法で目の前から消滅するので(?)、実はもう埋めた立てる場所はないんだ、破綻だということを知っていても、ゴミはなかなか減らせない。自分の家の庭にガレキにして積んどけ、回収しないとなったら、みんな普段から丁寧に生きるんでしょうけど。

☆theotherwindさんへ
明けましておめでとうございます
パソコンに還相回向があったのではなく・・・新しいのを買いました。元日に新宿ヨドバシで。今年の初買いがパソコンになってしまいました。壊れたのは、メーカー修理に出すつもりですが、本当に、まったく動かなくなってしまいました。対処のしようがないのです。
 
ベネシアさん、ゴミが出ない生活をされていることと思います。
自分の家から、洗濯機の排水が川に垂れ流されているのをたまたま目撃し、それではいけないと思い立ち、ハーブを育てる生活を始められたそうです。ハーブは、洗剤の役目もしてくれるそうです。というか、ハーブを洗剤として使っていたんですよね。昔は。
 
ゴミが回収されない問題は、都内でもありましたが、今後、他人事ではない話ですよね。ゴミの減量化に努めてはいるのですが、減りません。
私は、洗剤を思いっきり使っていたような人なので、ベネシアさんを見習わねばいけません。

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