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2011年12月 4日 (日)

お腹がグーッ

夏から歯の部分矯正をしています。下の歯が一本、やけに内側に向いてきてしまったもので。
だいぶ揃ってきて、歯並びがきれいになってきました。矯正ってすごいなと感じます。
が、部分矯正の器具がひとつ外れてしまい、急きょ歯医者に行きました。すぐに直してくれました。
    
「明日ともしれない いのち を生きています」
などと言いながら、歯の矯正をしているのですから、自分で可笑しくなってしまいます。いつまで生きる気で矯正しているのでしょうね。
 
そんなことを考えていたら、友人との会話を思い出しました。
友人の足に大きな傷跡があったので、「どうしたの?」と尋ねたときの応えです。
「俺さぁ、生きるのが嫌になって、バイクで当てもなく家を飛び出したことがあったんだよね。とにかくどこかに行って、どうにかして死んでやろおって。でも、なかなか死ねなくてさ。そうしているうちに、バイクで事故っちゃって。そんときの傷なんだ」
「バイクで事故って…病院に行ったの?」
「そりゃそうさ。とても痛かったんだよ」
「死のうと思ってたのに、怪我して病院にいったんだ。治したかったんだね」
「…そうだなぁ、考えてみりゃ可笑しいな。死にたかったのに、怪我を治そうとしたんだもんなぁ」
     
体は、というより、私自身は生きよう生きようとしているのですね。考えとして、死にたいと思ったとしても。
明日ともしれない いのち なら、いつ死んでもかまわないのではない。
明日ともしれない いのち だからこそ、生きよう生きようとしてくださっているのですね。私の体は。
  
     
と、ここまで書いて思い出しました。高史明先生のお話を。
ある日、「死にたい」と訴える女子中学生が先生のお宅を訪ねます。
先生は、「死にたいって、あなたのここ(頭を指して)が言っているの?」と尋ねると、女子高生はコクリと頷きます。
先生は言います。「頭で“死にたい”って考えていると言うけれど、あなたが死ねば、手も足も死んでしまいます。手を開いて相談しなさい。そして、あなたを支えている足の裏に相談してみなさい。足の裏を洗ってから」
彼女は帰り、数か月して手紙が届きます。
「足の裏の声が聞こえてくるまで、歩き続けることにします」と書いてありました。
     
  
大地を踏みしめるこの足の裏は、私を生かそうと必死で支えてくださっていました。
足の裏の声が聞こえてくるまで、
足の裏の声に耳を澄ませながら、生きてゆきます。
 
 
絶望の淵にある時
お腹がグーッと鳴った
いのちは
生かそう生かそうと
はたらいている

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