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2011年12月

2011年12月31日 (土)

また来年

こんばんは。2011年も大晦日を迎えました。最後に、一年を通して感じたことをアップしたかったのですが、パソコンがお浄土に還られました(原稿締め切りが4本あったのに)
今は携帯からアップしましたが、次にパソコンからいつアップできますことか。
皆様、よいお年をお迎えください。今年も一年ありがとうございます。
白山勝久

2011年12月28日 (水)

親鸞さまがわします㉒(最終回)

【第22回(最終回) 京に帰り 人生を振り返り 浄土に還る】
弁円をはじめ、数えきれないほどの人々との出遇いをいただいた関東時代の親鸞聖人。60歳を過ぎた頃、親鸞聖人は関東を後にし、生まれ育った地、京の都へ戻る決意をします。人生50年と言われた時代。既に60を超えられた聖人にとって、いのちがけの決断です。
   
京に戻った親鸞聖人のもとに、ある日、関東で聖人の教えをよりどころとした同行が訪ねてきました。現代のように交通機関が発達しているわけではありません。十余カ国の国境を超えて、関東から京に向かうということは、いのちの危険を伴います。それほどまでにして、聖人を訪ねなければならないことがあったのです。
おしえを説く人がいなくなれば、時と共に、おしえはいろいろな解釈がなされてしまいます。そのことを不安に思った同行が、聖人に今一度おしえを乞うために入洛されたのでした。同行に向かって、聖人は語られます。
「お念仏申して、地獄へ行くのか、浄土へ参るのか、私にはわかりません。私は、法然上人がお念仏を申されるお姿に出遇い、この方についていこうと決心しました。ご上人がお説きくださった念仏のおしえが、たとえ地獄へ落ちるお念仏であったとしても、後悔はありません。一生をつくしても出遇えるか否かのお人とおしえに出遇うことができました。そのことが、私に念仏申させてくださるのです。ただそれだけのことです。私の想いを聞いて、念仏を続けるもやめるも、あなたたちそれぞれのお考えしだいです。南無阿弥陀仏」
他を恨み、人生を闇夜にしていたのは、自分自身のこころであった。そのことに気づかせてくださったのが親鸞聖人でした。その事実にあらためて向き合った同行は、いのちがけで国に帰り、聖人のおことばを伝えました。南無阿弥陀仏の念仏と共に。
   
しかし、それでも関東では、聖人のお姿を求める方々がおられます。その様子を伝え聞き、聖人は、念仏のおしえを説くために、ご子息の善鸞さまを関東に向かわせようとします。聖人のもとで、数多くおしえに触れてきた善鸞さま。しかし、善鸞は関東へ行くことを拒みます。父、いえ、お念仏を大事にされていのちを尽くされる親鸞聖人のおそばを離れたくなかったのです。
「父上、私は、父上と離れたくはありません」
善鸞のことばを聞き、越後への流罪の際、自身が法然上人に訴えかけた想いを思い起こしていました(私も、あの頃は善鸞と同じ気持であったなぁ。しかし、流罪を縁として、越後や関東の人々とも遇うことができた。そして誰よりも、家族として縁をいただいた恵信尼や善鸞、覚信尼たちとの出遇いの有り難さに気づくことができた。その気づきに、善鸞よ、身をもって目覚めてほしい)。
「善鸞よ、私もあなたとは別れたくはありません。しかし、たとえどこにいても、たとえどのような境遇に身を置こうとも、念仏を称えることにおいて、阿弥陀如来の御前に、私たちはいつも一緒なのですよ。南無阿弥陀仏」
そう言いながら聖人は、自身が法然上人から言われたことを思い返していました。
   
聖人のことばを胸に関東へ戻った善鸞。しかし、親鸞聖人との再会を願っていた人々は、善鸞のことばに耳を貸そうとしません。必死に父からのおしえを伝えようとしますが、その想いはなかなか伝わりませんでした。
私の話を聞いてほしい…善鸞は、「私は、あなた方が親鸞聖人から聞いたことのないおしえを知っています。私しか知らないおしえがあります」と言い、人びとの気持ちを惹きつけようとしました。
そのことばを信じ、善鸞のもとへ集まる人々。善鸞は、自分が父から聞いてきたことを懸命に伝えます。しかし、懸命に、まじめに伝えようとすればするほど、善鸞として おしえを広めたいという欲望にかられます。ついに善鸞は、聖人が語ってもいないことを語り始めました。
  
善鸞が説くおしえは、親鸞さまが説かれるおしえとは違うのではないか…。そのような疑問を持つ人々が出てきました。
そのことを聞きつけ、親鸞聖人は歎きます。そのようなことをさせてしまったのは、関東に遣わせた私の責任です。しかし、どのような境遇においても、阿弥陀如来の御名のもとにおいて、人は朋に生きている。その真実に目覚めてほしい。そのためには、私を頼るこころを捨てなければいけません。別れにおいて、真に出遇ってほしい。親鸞聖人は、息子 善鸞を義絶します。怒りによる義絶ではありません。あらためて出遇い直すための義絶です。
親鸞聖人は、善鸞の苦しみを我がこととして受け止めます。いのちある限り 迷いの広い海に沈み、人に注目されたいと惑う人間の姿を凝視します。このようなこころを抱えるからこそ、阿弥陀如来はこの私を包むように抱いてくださっているのでした。その想いを伝えるために、聖人は筆を執ります。『顕浄土真実教行証文類』や「和讃」など、聖人の著作の大半は、晩年に京都で書かれたものです。
1262(弘長2)年90歳の生涯を閉じられ、お浄土へ還られました。
  
  
出遇いとは、私の想いからすれば、すべてが良いことばかりではありません。嫌な人との出遇いもあれば、「この人に巡りあえてよかった」と言い切れる出遇いもあることでしょう。人との出遇いばかりではありません。老いも、病も、死も、できることならば避けたいことです。しかし、老いや、病や、死を縁として、出遇える大切なことがあるものです。
父母との別れ、迷いを抱えての叡山時代・叡山下山、流罪による師 法然との別れ、越後・関東での生活、晩年になっての息子善鸞の義絶・・・親鸞聖人も悩み苦しみの生涯を生きられた方でした。悩み苦しみを無くす法として念仏を見いだされたのではありません。悩み苦しみの人生だからこそ、この私を温かく抱きしめ、輝かせてくださる法として、南無阿弥陀仏の念仏を生涯大切にされました。
   
「人生、私にとって都合の良いこともあれば悪いこともある。しかし、そのすべてが、私を私として成り立たせてくれる出遇いでした。そのことに気づかせてくれたのが、親鸞聖人であり、南無阿弥陀仏のお念仏でした」
聖人の想いを受け、すべての出遇いを大切にし、南無阿弥陀仏と称えてきた人の歴史が、今に通じています。亡くなられて750年、たとえ時代や境遇は違っても、南無阿弥陀仏のお念仏を称える私たちと一緒に、親鸞さまがおわします。

2011年12月14日 (水)

成道

2011年12月14日(水) 今年最後の西蓮寺聞法会でした。寒い中お出かけいただき、ありがとうございます。
12月8日が成道会ということ、12月の掲示板のことばに「老いや病や死が、人生を輝かせてくださる」を選んだ想いなどを込めて、「釈尊のさとり」についてお話をしました。
   

12月8日はお釈迦さまがさとりを開かれた日です。お釈迦さま35歳のときのことだそうです。
  
四門出遊(しもんしゅつゆう)
釈迦族の皇子であった釈尊がカピラヴァストゥ城の
東門を出ると老人に会い、
南門を出ると病人に会い、
西門を出ると死者に会いました。
いのちあるものは、老も病も死もあるのだと無常を感じられました。
北門から出た時に一人の出家修行者(沙門)に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになったと言われています。
  
成道(じょうどう)
おさとりの内容を要約することなどできませんが、この2つが要点ではないかと思います。
○仏陀は、仏教の発明者ではありません。発見者です。「物事はすべて縁による」という道理を発見され、言葉にされた方です。
○「人生皆苦(じんせいかいく)」
お釈迦さまは、苦行によって目覚められたのではありません。すべての人が平等に救われる道は、苦行にはないということに目覚められたのです。
また、苦しみをなくすことがさとりではなく、人生そのものが苦しみ(人生皆苦)なのだと感得するところにさとりがあると目覚められたのです。
私たちが生きる日常こそが、さとりを開くのに欠かせない場所なのです。
   
四苦八苦(しくはっく)
人生の苦しみを四苦八苦と言います。
四苦は「生・老・病・死」
八苦は、四苦+「愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦」を言います。
   
「生苦」は「生きること」というよりも「生まれたこと」を意味します。
私がたまに「自分が生まれたいと思ったから生まれることができたんだ」と言うのは、「生まれたこと」に責任を持ちたいからなのです。
「物事はすべて縁による」…人生、何が起こってもそれは縁による。だからといって、何事も縁のせいにしてしまうのではなく、縁によって引き起こされる物事の場に“私がいる”という責任があると思うのです。誰かのせいにしたくないし、何かがあったときに逃げたくありません。そのような想いを込めて、「自分が生まれたいと思ったから生まれることができたんだ」と言うのです。私の想いと、両親の縁とによって、生をいただくことが出来ました。
     
「老苦・病苦」は、老いる苦しみ・病む苦しみ。これらが“苦”なのは頷けることと思います。
   
「死苦」は、死ぬ苦しみ。
自分自身の死に対する恐怖という苦しみはありますが、自身の死に対する苦しみよりも、大切な人・身近な人の死によって受ける悲しみ苦しみを「死苦」というのではないでしょうか。
「どうして私を置いて」「早すぎるよ」「もっといろいろ話しておけばよかった」「今までありがとう」…他者(ひと)の死から様々な想いがよぎります。そのように考えると、「老苦」や「病苦」も、自身の苦しみというよりも、人の苦しみを受けて感じる苦なのかもしれません。「出来ることなら私が変わってあげたい」と思ったことはありませんか? そこに、代わってあげられない苦しみが生まれます。
   
「生・老・病・死」そのどれを考えても、私ひとりの苦しみではないのです。
「物事はすべて縁による」…関係を持って、人と人とが生きている。そこに、個人的な苦しみだけを指すのではなく、私ひとりの苦しみではない苦しみがあります。その苦しみを、「人生皆苦」と言われたのではないでしょうか。
関係の中を生きるということは、悲しいこと・つらいこと・苦しいことばかりではありません。楽しいこと・嬉しいことも起こるでしょう。しかし、そこに落ち着けるものではありませんし、より快楽を求めるし、退屈になってしまいます。「楽」も続けば、結局「苦」に変わるのですね。私のこころは…。
  
身自當之 無有代者(しんじとうし むうたいしゃ)
「身、自(みずか)らこれを当(う)くるに、有(たれ)も代わる者なし」(『仏説無量寿経』)
私が受けている苦しみは、代わってもらいたくても代わってもらえない。
大切なあの人の苦しみを、代わってあげたいけれど、代わってあげられない。
このような いのちの真実の姿を想うとき、お釈迦さまの他のことばも思い浮かびます。
お釈迦さまは、「天上天下唯我独尊(天にも地にも、ただ我ひとりにして尊し)」ということばや、「独生 独死 独去 独来」ということばも遺されています。
「天上天下唯我独尊(天にも地にも、ただ我ひとりにして尊し)」の「我」の部分を、「自分の名前」を入れて読み直してください。一人ひとりが、誰にも代わってもらうことのできない唯(ただ)ひとつのいのちを生きているのです。それ故に尊いのです。
「独生 独死 独去 独来」人は、生まれる時も独り、死ぬ時も独りです。たとえ周りに大勢の人がいたとしても、人(いのち)は、ひとり生まれ、ひとり死にます。
  
個々が、誰にも代わってもらうこともできない いのちを生きています。
ひとり生まれ ひとり死んでゆく いのちを生きています。
かといって、一人で生きている人間など誰もいません。関係の中を生き、喜びや悲しみを感じ合います。
個を見つめるお釈迦さまのことばから、たくさんのいのち 多くのつながりを感じます。  
    
自灯明 法灯明(じとうみょう ほうとうみょう)
お釈迦さまが、いまにも亡くなられようとしているとき、お弟子さんたちは悲しみます。
「お釈迦さま、あなたがお亡くなりになられたのち、私たちは何をよりどころとして生きればいいのですか。どうか死なないでください」
その訴えに 釈尊は応えます。
「自灯明 法灯明。私が死してのち、私をたよりとするのではなく、自らを灯(ともしび)としなさい。法を灯としなさい」と。
「自己を頼りとし、法(おしえ)をよりどころとして生きなさい。釈尊の法(おしえ)…『物事はすべて縁による』『人生皆苦』の現実を見つめ、代る者のいない私の人生を生きなさい」
   
    
お釈迦さまのことばではありませんが、思い出されることばがあります。親鸞聖人のことばです。
「某(それがし)、親鸞閉眼せば、賀茂川にいれて魚にあたうべし」
昨今、「私が死んだら川に流せ、親鸞聖人も葬儀は必要ないと言われているではないですか」と、葬儀不要論者は、親鸞聖人の言葉を引用して、自身の主張をされます。主張は自由ですが、聖人のことばを自分の主張に合わせられては困ります。
親鸞聖人の眼には、風光明媚な京の都・賀茂川ではなく、戦乱や飢饉によって亡くなられた無数の人々が横たわる景色が焼き付いているはずです。その賀茂川にいれろということは、世の人々と共にありたい。死して後も共にありたいという願いがあったのではないでしょうか。もちろん、真意は分かりません。  
「私が死んだら、賀茂川に入れなさい」と仰る親鸞聖人のおことばに、「私をよりどころとするのではなく、自分を、法をよりどころとして生きなさい」というお釈迦さまの声がダブって聞こえてきます。
このようなことばを遺される親鸞聖人の姿に、いつまでも聖人は私たちと共にいてくださるのだと感じた方々の中から、
「一人居て喜ばば二人と思うべし、二人居て喜ばば三人と思うべし、その一人は親鸞なり」
という声が生まれてきたのではないでしょうか。

2011年12月13日 (火)

生きている証

西蓮寺で長いことお世話になっている方がお亡くなりになられました。12・13日と、西蓮寺にてご葬儀が営まれました。
お亡くなりになられたのはご主人。喪主は奥様。そのご長男は、私と同級生です。同じ幼稚園に通っていました。小さい頃は、よく遊んだものです。
     
13日、出棺の折、ご長男が参列者に対して謝辞を述べられました。ご家族内の温かい関係性を感じる挨拶でした。普段は、「俺、いい加減だからさぁ」などととぼけるのですが、父の死を受け止め、その想いを自分のことばで表現していました。立派でした。
     
僧侶は、葬送の場に数多く身を置きます。いろいろな場面に直面します。様々な想いが湧いてきます。
僧侶として生きる、寺に生まれる縁をいただくということは、「こいつは、そういう場に身を置かせないと、なんにも感じない人間になってしまう」という、仏からの嘆きの計らいをいただいているのだと思います。
友人の姿、ご家族の姿を眼に焼き付け、お送りいたしました。
   
ご葬儀の片づけが終わり、お内仏で御夕事を済ませ、「会葬御礼」を読ませていただきました。
驚きました。「会葬御礼」は、ご葬儀の準備でご遺族はバタバタしています。出来合いの文章に、故人のお名前と亡くなられた日にち程度を入れたものになってしまいます。
しかし、奥様のことばが綴られていました。
「人様の愛によって生かされた人生だった そのことを感謝している どうか『愛』と『感謝』を忘れないように…」というご主人の遺されたことばとともに。
  
人をお送りするということは、そこに、人がいるということ。
お亡くなりになって終わりではない。いただいた愛・出会えた感謝が、これからもずっと有り続ける。
ご主人の生きてきた証が、「会葬御礼」にギュッと詰まっていました。
「会葬御礼」を供え、あらためてお内仏のご本尊に手を合わせました。
南無阿弥陀仏 

2011年12月12日 (月)

以前、今年の世相を表す漢字、今年は何でしょうね?と書きました。
今年の世相を表す漢字は「絆」だそうです。
なんとなく予想していました。清水寺の森清範貫主も予想していたと語られていました。
    
人と人とのつながりの希薄さが叫ばれている昨今。震災や原発問題に遭遇し、お互いに助け合うことの大切さを再認識し、人はひとりでは生きていけないことを感じたからこその「絆」なのでしょうね。 
  
「絆」といえば、「同朋新聞」(真宗大谷派宗務所発行)に連載されている「時言」(四衢 亮住職執筆)を思い出します。2011年11月号です。
 

「絆」というのは、もともと馬の足をからめて縛る紐のことで、人を束縛する義理や人情に喩えられたり、自由を奪って人をつなぎとめる意味で使われてきました。親鸞聖人も蓮如上人も、迷いの世界に繋がれ縛られる状況を「きずな」と表されます。
独り生まれ独り死んでいく身であればこそ、出会いが嬉しく、支え合う絆が何より大切なのです。しかし同時に迷いの身の絆は、その絆で結ばれた仲間やグループの中では、結束して和気藹々としていても、外に対しては排他的になったり、内だけで通じる言葉や表現で語り合って、閉鎖的にもなるのでしょう。

 
独生独死の身だからこそ、「絆」の温かさを感じる反面、つながりを持った者どうしが作り出す閉鎖性・つながりから外れる者に対する排他性が生じる現実を、教えてくださっています。
「原子力ムラ」という“絆”が、閉鎖的・排他的な絆をも生み出してしまったことを指摘してくださっています。「自分たちさえよければいい」という想いが作り出す“絆”に対する警鐘でもあります。 
   
「今年の世相を表す漢字」は、毎年というわけではありませんが、“願い”や“想い”が反映されていると感じています。「絆」は、まさにそうだと思います。先に「人と人とのつながりの希薄さが叫ばれている」などと書きましたが、そのように感じるからこそ、「絆」を求めるこころが表出したのだと思います。
しかし、「絆」を求めながらも、人と人とのつながりに鬱陶しさを感じたり、「絆」の外にいる者を疎ましく感じる私がいます。
四衢住職が言われるように、「絆」の持つ闇の部分を認識しなければいけません。
 
「絆」の外にいる者を
…と、書きましたが、本来「絆」に外も内もないのではないでしょうか。誰とでもつながりを持ててこそ、「絆」と言えるのではないでしょうか。そう、「原子力ムラ」の住人とも。

2011年12月11日 (日)

淋しい金魚

今朝、金魚がお亡くなりになりました。
夏祭りの縁日で、金魚すくいですくってきた金魚でした(100円で2匹すくってきたのに、飼育セットに5000円ほど使ってしまいました)。
 
4ヵ月ほど経ち、大きくなりました。でも、一匹が、最近元気がないなぁと思っていたのですが、いのち終えてしまいました。
ご飯をあげるときに、いつも一緒に見ていた長女に、「金魚さん、死んじゃったよ」と教えてあげました。
内心、2歳児はどんな反応をするんだろうとドキドキしていました。
「じゃぁ、またおまつりにいって、きんぎょさん もらってこなきゃ」と、娘は言いました。
そうきたか、と思いつつ、私なりに「死んでしまった事実」を説明し、土に埋めて、一緒に手を合わせました。

そのときの反応も面白かったです(「面白い」というのも不謹慎かもしれませんが)。
土に埋めて、手を合わせていると、「これから出てくるの?」と娘は言うのです。
私は、「?」(どういう反応だ?)と思ったのですが、妻曰く、「死の概念がまだない幼い子は、植物が芽を出すように、土に埋めたものがまた出てくるように思うんだって。ミホもそう感じたんだよ」
なるほど
このようなことを繰り返して、死を学んで(感じて)ゆくのでしょうね。
     
朝食時、一匹だけになった水槽を眺めながら思いました。
残った金魚は何を感じているんだろう。「広くなったなぁ」かな。「もう一匹はどこいったんだろう?」かな。「餌の取り分が増えたなぁ」かな。「淋しいなぁ」かな。
なんて、頭の中で考えていたら、涙ぐんでしまいました。ほんのちょっとね。淋しいものですね。

2011年12月 5日 (月)

待ってくれている父(阿弥陀) 待たれている私

2011年12月5日(月)
茨城県笠間市 光照寺様 前住職のご葬儀に参列しました。
前住職は、2011年11月28日に還浄されました。親鸞聖人と同じご命日です。しかも御遠忌の年の。お仲間のご住職方から「かっこよすぎる」と言われていました。
前住職とは、一度お話したことがあるだけでしたが、現住職は、私の数少ない理解者。こころの友です。訃報に接し、絶対に行かねばと思いました。
 
光照寺様には、「親鸞聖人に人生を学ぶ講座」で出講した際に、何度もお世話になりました。そのときには、前住職は病に伏しておられました。
上野駅から電車に乗り友部駅まで。講座で何度か目にしてきた車窓からの景色も、今日は違って見えました。
   
全7回の講座中、印象に残っていることがいくつかあります。その一つが、現住職の挨拶です。
光照寺様が初めて会場となったとき、現住職(当時は副住職)は、「皆様こんにちは。光照寺をお預かりしている副住職です」と話し始められました。
「○○寺をお預かりしている」…私にとって、初めて耳にする表現で、新鮮でした。以来、耳の底に残っています。彼の口から発せられた「光照寺をお預かりしている」が。
 
それは、彼だけがお寺をお預かりして、護持しているわけではありません。彼とその奥さん(若坊守様)でもあるけれど、それ以前に、彼にバトンを渡す役目をされていた方がいる。つまり、父と母。彼が「お預かりしている」と言ったときに、何かしら目に見えない、大きな流れのようなものを感じていました。それは、彼に至るまでに代々受け継がれてきたもの。お寺を、親鸞聖人のおしえを大事にして、生きてきた人々の歴史でした。
たった1度、挨拶程度にしかお話したことのない前住職。講座の際にはお会いしていませんが、でも、彼が「お預かりして」と言ったところに、確かにいらっしゃったことを覚えています。対面はしなかったけれど、でも、いつもいてくれました。
   
ご葬儀の最後に、現住職による謝辞がありました。「前住職は、いえ、父は、私のことを待っていてくれていました」。涙と共に語る彼の挨拶の中に、前住職はしかと生きておられました。
彼や彼の家族、ご門徒が前住職のいのちを感じ続けられるところに、親鸞聖人のおしえが、一本の道筋として見えてきます。
「待ってくれていました」…待たれている私。待つ人、待つはたらきがあるからこそ、私たちは歩めるのですね。たとえ寄り道しようとも、道を間違えようとも、挫折して座り込んでしまっても、でも、待っていてくれる人がいる(はたらきがある)。どんなに寄り道しようとも、たとえ違う道に行ってしまっても、どれだけ座り込もうとも、この私を待ってくれています。
       
本堂から法中(お仲間のお寺さん)や親類が退堂した後、彼と向き合う時間がありました。
「ありがとう」「ありがとう」
      
再会を約束し、お寺を後にしました。振り向くと大きな掲示板がありました。
    

  
南無阿弥陀仏

2011年12月 4日 (日)

お腹がグーッ

夏から歯の部分矯正をしています。下の歯が一本、やけに内側に向いてきてしまったもので。
だいぶ揃ってきて、歯並びがきれいになってきました。矯正ってすごいなと感じます。
が、部分矯正の器具がひとつ外れてしまい、急きょ歯医者に行きました。すぐに直してくれました。
    
「明日ともしれない いのち を生きています」
などと言いながら、歯の矯正をしているのですから、自分で可笑しくなってしまいます。いつまで生きる気で矯正しているのでしょうね。
 
そんなことを考えていたら、友人との会話を思い出しました。
友人の足に大きな傷跡があったので、「どうしたの?」と尋ねたときの応えです。
「俺さぁ、生きるのが嫌になって、バイクで当てもなく家を飛び出したことがあったんだよね。とにかくどこかに行って、どうにかして死んでやろおって。でも、なかなか死ねなくてさ。そうしているうちに、バイクで事故っちゃって。そんときの傷なんだ」
「バイクで事故って…病院に行ったの?」
「そりゃそうさ。とても痛かったんだよ」
「死のうと思ってたのに、怪我して病院にいったんだ。治したかったんだね」
「…そうだなぁ、考えてみりゃ可笑しいな。死にたかったのに、怪我を治そうとしたんだもんなぁ」
     
体は、というより、私自身は生きよう生きようとしているのですね。考えとして、死にたいと思ったとしても。
明日ともしれない いのち なら、いつ死んでもかまわないのではない。
明日ともしれない いのち だからこそ、生きよう生きようとしてくださっているのですね。私の体は。
  
     
と、ここまで書いて思い出しました。高史明先生のお話を。
ある日、「死にたい」と訴える女子中学生が先生のお宅を訪ねます。
先生は、「死にたいって、あなたのここ(頭を指して)が言っているの?」と尋ねると、女子高生はコクリと頷きます。
先生は言います。「頭で“死にたい”って考えていると言うけれど、あなたが死ねば、手も足も死んでしまいます。手を開いて相談しなさい。そして、あなたを支えている足の裏に相談してみなさい。足の裏を洗ってから」
彼女は帰り、数か月して手紙が届きます。
「足の裏の声が聞こえてくるまで、歩き続けることにします」と書いてありました。
     
  
大地を踏みしめるこの足の裏は、私を生かそうと必死で支えてくださっていました。
足の裏の声が聞こえてくるまで、
足の裏の声に耳を澄ませながら、生きてゆきます。
 
 
絶望の淵にある時
お腹がグーッと鳴った
いのちは
生かそう生かそうと
はたらいている

2011年12月 1日 (木)

2011年12月のことば

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老いや病や死が、
人生を輝かせてくださる

 
老いゆく身に抵抗しますか?
「老人」と表現しますが、「老いた人」と受け取ると、避けたくもなります。しかし、いのちは老いゆくものです。「老いゆくいのちを生きる者」(限りあるいのちを懸命に生きる者)と考えると、何年も年を重ねた人も、生まれたばかりの赤ちゃんも、みんな「老人」であり、嫌悪するような表現ではありません。
年を重ねた人は、経験や知恵を重ね、それなりの風格・雰囲気を持っていませんでしたか? 本人も自分の人生に誇りを持ち、若い者は尊敬の念を抱いていました。いつからでしょう、自身は誇りを持てず、若い人は人生の先輩を敬わなくなったのは。「老い」に抵抗する生き方に、誇りも生まれなければ、尊敬の念も湧かないのかもしれません。
   
病を抱えた身は愛せませんか?
年が明けたら、神社やお寺にお参りし、「健康」を願うのでしょうか。しかし、「健康」を願う気持ちには、落とし穴があります。健康でなくなったときに、気力を失ってしまうのです。我が身を、いえ、病を呪うのです。
思うに、健康でいるときは、健康に感謝していないものです。健康が当たり前のように思っているのですから。しかし、健康でなくなったからといって、あなたのいのちは感謝できないいのちですか? 
ここまで生きてきた人生には、父母の縁があり、何一つ欠かすことのできない縁をいただいてきたからこそ、今の私がいるのでしょう。「感謝しましょう」と押し付けるのではありません。「健康だから感謝」の価値観を生きるのではなく、感謝を忘れずに生きる人生こそが、健康なのではないでしょうか。たとえ病を抱えてはいても。
    
死は許せませんか?
たしかに、それまでの温もりのある関係を、「死」は、一瞬で奪ってしまいます。憎いです、辛いです、恐いです。
死は、いのちある者すべてに訪れる真実です。病気・事故・寿命…死の原因は、いろいろ言われますが、「生まれたこと」に尽きるのです。生まれたから死ぬのです。
    
老いも病も死も、いのちに訪れる真実の姿です。自分にとって嫌なことは遠ざけて、良いことばかりを保っておきたい。そのようなことを考えていながら、精一杯生きていますか? 果たして、満足した人生を送れていますか? 見たくないものに目を伏せて、その結果、人生そのものが見えなくなっているのではないでしょうか。
現代は、老いず、病まず、死なないいのちに希望を見出そうとする時代です。しかし、考えてみてください。死なない、終わりのない人生とやらを。いつまでもやりたいことを続けたい、いつまでも好きな人と一緒にいたいなどという想いから、希望を見出そうとするのでしょうが、終わりがあるからこそ、あることに打ち込むことができ、終わりがあるからこそ、誰かを慈しむことができるのではないでしょうか。終わりのない人生は、生きる気力を失い、思考停止に陥ってしまうと思います。
   
身も蓋もない言い方をしてきました。「お前が老いに、病に、死に直面した時に、同じことが言えるのか!」とお叱りを受けることでしょう。実際どのようになるか分かりません。しかし、おしえに出遇い、それらすべてを含めて「いのち」というのだと教えてもらいました。「いのち」の真実の姿に目を背け、行いが悪かったからだ、誰々のせいだ、先祖が祟っているからだ、などと考えることはないと思います。
   
老いも、病も、死(自分の死も、大切な人を亡くすつらさも)も、経験した者にしか そのつらさは分かりません。誰かに代わってもらうこともできません。でも、そのつらさを自分のことのように感じている人が、今、現にいるのです。あなたのそばにいるのです。老いや病や死の苦しみは、本当のところ あなたにしか分かりません。でも、独り(孤独)ではありません。背けたくなる真実が受け入れられなくてもかまいません。泣きたかったら、泣いていいのです。不思議なもので、もう涙も出ないと思うほど泣いても、それでもまだ涙は出てくるのです。尽きないのです。でも、流し始めの悲しい冷たい涙が、涙は尽きないものなのだと感じられる頃には、温かい涙に変わっているはずです。それほどまでに涙するとき、そばにいる人の温もりに気づいているはずですから。
老いや病や死のない人生が、輝ける人生なのではありません。
老いや病や死を受け入れることができて初めて人生が輝き出すわけでもありません。
人生は元々輝いているのです。その輝きを、自身の迷いや、真面目な想いから生じた希望によって見えなくしてしまっていたのです。
人生は元々輝いている…自らが発する輝きではありません。周りからの温もりという輝きに照らされているからこそ、人生は輝いているのです。一人では輝けません(生きていけません)。輝きのあるいのちを生きていたのです。
  
    
  
掲示板の人形
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今月の人形は、雪だるまを乗せたソリを引くシロクマです。
烏山にある、木のおもちゃのお店「MUKU」で購入しました。
楽しくて可愛い おもちゃがいっぱいです。
お店のおじさんも、とても優しいです。  
    
   
     
(つぶやき)
12月になってしまいましたね。つい「早いなぁ」とつぶやいてしまう自分に、「この1年、なにしてた?」と尋ねる声が聞こえそうです。
年と共に時間の経過が早く感じられるのは、忘れてしまうからだとか。“忘れてしまう”というのは、「こういうもんだろう」「こうなるだろう」と、長年の経験から予測して生きるので、記憶にも残らないということ。まるで闘牛士のように、サラッ、サラッと振る舞っているから、日々の出来事が大したことに感じないのでしょうね。子どもの頃、1年がとても長く感じたのは、物事を予測するような経験もないから、常に必死で生きているし、起こった出来事をすべて受け止め記憶しているから。すべての出来事に一喜一憂し、真剣に悩む。時間の経過を遅く感じるはずですね。
わざわざ一喜一憂することもなく、煩わしいことは除外する術を身につけた大人は、もしかしたらとてもつまらない生き方をしているのかもしれません。
2011年、すべてを受け止めながら生きていかなければならないことが起こりました。
震災・御遠忌・プライベート…過去の出来事ではなく、未来からの呼びかけです。現在を生きる私に、「生きてるか?」「生きろ!」と呼びかけているかのようです。もうすぐ2011年も終わります。区切り(けじめ)は必要ですが、あらゆる物事はつながり、継続しています。2012年になっても、忘れてはならないことがいっぱいあります。

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