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2011年11月19日 (土)

長い間ありがとうございます

この投稿で通算1000回目になります。
文章を書こうとしてログインして気づきました。
2004年10月13日が書き出しなので、7年ほど書いてきたことになりますね(一番初めは寺報のアップだったのですね。記憶と違ったなぁ…)。
1000回を目指していたわけではないので、特別感慨もありません。時の流れを感じるだけです。
   
最初の頃の文章を読んでみたのですが、言っていることや表現の仕方の粗さが、今も同じなので笑えました。
こんにち、「ブレない」ということが大切なこととされています。私も、「ブレない」ということは大切であり、責任あるものの態度であると思っていました。でも、(自分的にですけど)7年間ブレいない自分を見て、ちょっとは変われよ(成長しろよ)と突っ込みたくなりました。
 
投稿し始めのころは、アクセス数を増やしてみようと試みて、毎日更新したり、他者(ひと)のブログにコメントしたりしていました。その成果か、初めて一日のアクセス数が100を超えたときは嬉しかったことを覚えています。
名利心からのつもりはありませんが、読んでもらえているという実感がないと、なかなか書けないものでした。今では、誰も読んでなくてもいいや程度に書いていますが。
毎日のように更新していた頃に読者(というのでしょうか?)になってくださった方からは、投稿の頻度が落ちたときに、ご心配をおかけしました。「ご病気ですか?」などコメントやメールをいただいたものです。
更新が滞り、物足りなさを感じておられる方もいらっしゃるとおもいますが、ご了承ください。
 
「誰も読んでなくてもいいや」とは言うものの、いい加減な想いを表現するつもりはなく、「想ったことをメモしている紙」には、ネタ(?)がビッシリです。本当は、書きたくてウズウズしているのですが、投稿のためには結局1時間程度は時間がかかるもので、片手間では書けません。
長女が生まれて、このことがあってからは、長女が寝てから仕事(寺報・ブログ・原稿を書いたり、法話のプリントを作ったり、手紙を書いたり)をしているので、夜な夜な書いています。
メモに書いてあることも、書いた時は想いの強いことでも、後で読み返して、大したことないように感じたり、何を書いているのか分からないものもあります。つまり、自分の中での旬が過ぎているのですね。本当は、想ったときに、一気に書きたいのですけど(自分とは比べものにならないくらい忙しいのに、毎日ブログを更新されている、同じ寺号の女性僧侶には、頭が下がります)。
そんな状態ですが、辛抱強く当ブログに立ち寄ってくださる方がいて、励みになります。いつもありがとうございます。
   
     
「継続は力なり」とは言われますが、「継続は信なり」と、あるご住職からおことばをいただいたときは嬉しかったです。
続けているから私に信心があるなんて思い上がりではなく、「継続は信なり」ということばに、「阿弥陀さまは、いらっしゃいます」という響きを感じました。 
 

アクセス数が増えてきたとき、コメントもいただくようになりました。みんな、自分の人生を懸命に生きて、壁にぶち当たって、悩み苦しんでいました。ブログの文章を読んで、その内容に対して「そう思う」か否かをコメントするのではなく、自分の人生・置かれている境遇に引き当てて、そして思ったことをコメントしてくださっていました。
継続しているのは、自身の想いが溢れているからではなく、そういう人々の声が聞きたかったからなのかもしれない。今、書いていて思いました。みんな、元気にされていますか?
コメントが来なくなったのは、良いことなのです。ちゃんと卒業されていったのですから(見切りをつけられたということもあるでしょうけど)。でも、私は覚えています。コメントをくださった方々がいることを。
       
     
真宗僧侶の名のもとに、ブログや寺報を書き、たまにご法話に呼ばれ、偉そうなことを言っています。でも、自慢ではないけれど、教学的にキチンと押さえているかといったら、まるでダメです。勉強されているご門徒さんにはとてもかないません。「聖典の○○ページに、このようにあります」「親鸞聖人は、○○という著書で、このようなことを言っておられます」なんて応えられませんから。
でも、たとえば ひとつのことばに対して、ずっと考えることはあります。自分事として。それゆえ、私の言うことは常識を逸脱していたり、飛躍しすぎたりしていて、お叱りを受けることもあります。でも、嘘や格好つけは言っていません。このスタイル(性格)は、ずっと治らないでしょう(それが、最初に書いた「成長しろよ」にもつながるのですが)。   
おしえは、結局は一人ひとりの生活・人生を通して、感じ、受け止めてゆくものです。「聖人がこう言っています」とか、「このおしえは こういう意味で」というところに先に立っても、伝わらないのです(教学が無駄だとか言っているのではありません。それは大事だし、私ももっと学ばなければいけないと思っています)。
真宗の歴史、親鸞聖人のおしえ、念仏の伝統は、その響きが大事にされてきたのだと思います。一人ひとりの受け止めを通して、自然に手が合わさり、お念仏の声が出るのです。
「正信偈」の現代語訳を作って、それをお勤めするべきだ…などと言われると、「そうですね」とは言えないのです。いえ、現代語訳は現代語訳で必要な作業だと思います。私だって、「白骨の御文」を現代語訳していますものね。
「現代語訳してくれないと意味が分からない。意味が分からないと、感動もしないし、念仏しろといってもできるわけがない」などと言われることがありますが、「帰命無量寿如来」を訳した文章があって、意味が分かるのでしょうか。感動するのでしょうか。感動する必要もあるのでしょうか。その響きの中に、意味は分からなくても、想いが伝わるということがあるのではないでしょうか。(と、「言っていることが分からない」と思われるかもしれないですね)。
などと書いてきたのは、こんなことを書きながらも、私の文章(表現)が、いつの頃からか教学的になってしまっているのではないか。そういうことを最近、いえ、投稿の頻度が落ちた頃から考えていました。自分事として おしえに向き合い、自分のことばで表現してきたつもりが、いつの頃からか、こころの入ってない文字の羅列になっているのではないだろうか、と。
何事も長く続けていると歪みが出てくるものです。自分的には「ブレていない」と思っていても、実はそれこそ危ういのです。自分で自分は見えないですから。自分でブレていないと言っちゃってるときほど、周りから見たらブレまくっているのかもしれません。
   
   
ブログを縁に知り合った朋がいます。
出遇いや交流について詳しくは書きませんが、「人生変えちゃった?」と考えたときもあります。でも、そんなことを考えるのは傲慢だし、朋に対して失礼でもありました。
「そのようになるべくしてなる、偶然という必然を生きている」のでした。
阿弥陀さまの導きを、私に教えてくれた朋。
「ブログを縁に知り合った」と書きましたが、そんな言い方をすると自分が縁を作ったみたいですね。縁は作るものではなく、いただくもの。ブログという縁をいただき、朋と知り合う縁もいただきました。朋との出遇いに感謝です。ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
寺報を縁に知り合った朋もいます。その朋に対しても「人生変えちゃった?」と考えたときもありますが、今では「仕方ないね」と二人で笑ってます。
実際には会っていなくても、たくさんの朋に遇えました。
当ブログに遊びに来てくださった皆さん、長い間ありがとうございます
まだまだ想いを表現してまいりますので(投稿頻度は上がらないと思うけど)、よろしくお願いいたします。
西蓮寺副住職 白山勝久

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コメント

ご無沙汰いたしております。12月1月の卒業試験(2回あります)と3月の国家試験に向けて勉強の毎日です。
コメントできなかったのは見切りをつけたのではなく、全くPCに向かう時間が無かったからです。ご勘弁願います。
このブログから卒業することはできません。きっと一生できません。悩み苦しみはいまだに続いており、それどころか怒り恨み憎しみは増大するばかりです。
ときどき、「いったいなにやってんのだろう」と思うことがございます。聖人君子になれないのはもちろん、一人前の人間としての存在さえ危うくなっております。
ひたすら勉強に取り組む中で、疑問を感じる余裕も時間も無く、でも仕方ないかなとも思う日々です。
いろいろと矛盾を感じながらも、それでも前を見てまた歩いていく、それしかできません。
年末のお墓参りに寄せていただきます。私にとって、このお墓参りは自分と向き合うひとときでもあります。お墓に参っても、ご先祖様は何もおっしゃいません。「自分自身ときちんとしっかり向き合え」ということなのでしょう。
ご先祖様は、ただひたすら私を見守っていてくださる。それだけで有り難いことです。
年末ご多忙と存じますが、ぜひ若住職と一杯やりたいです。
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

 今日は、前から東京真宗同朋の会の研修があるのを楽しみにしておりましたが、朝、腹痛。トイレと往復しないといけないので、とても、電車に乗る勇気がなくあきらめ、インターネットを見ておりましたら、お勤めは何がなんだかわからん、法話もつまらない(時事から入って、真宗の教義に強引に話を持っていくのがわざとらしい)、だけどお斎は楽しい(居場所になる)と書いておられるブログにぶつかりました。俺は一闡提だ宣言みたいな。でもそれはそれで良いと思いました。だって一闡提じゃない人間なんてどこにもいない。一生お斎。毛穴。一方で、聖典にはこう印刷してあるけど板東本では違ってますとか発言する人も嫌いじゃないです。小学校で体育が得意な子どもはまともだけど算数が得意な子は頭でっかちで駄目だということはないでしょう。みんなどんぐりの背比べ。所詮、人間。

☆がくさんへ
国家試験に向けての勉強、かけがえのないことでございます。
聖人君子など、この世にはおらず、誰もが一人前でない人生を歩んでいます。人々の助けをいただき、その人々と共に一人前になってゆくものと思われます。
11月の白骨は29日(火)です。その席で12月の開催日を決めますので、また連絡さしあげます。ご都合よろしかったら、昨年のように、寺で望年会をいたしましょう。

☆theotherwindさんへ
「時事から入って、真宗の教義に強引に話を持っていくのがわざとらしい」…そのブログの主が、誰の、どのようなご法話をお聞きになったのかは分かりませんが、
そんなことはどうでもよくて、
曽我量深先生が教えてくださった「聖典と新聞の間を生きろ」(表現はいろいろありますが)というお気持ちを忘れずに、大切にしたいなと思うことでございます。

 「時事から入って、真宗の教義に強引に話を持っていくのがわざとらしい」は、別の言い方で、口頭で、正直な意見として聞いたこともありますので、まあ、よくある、正直な、素直な感想ではあるのだろうとは思いますね。よくあるご意見なのだとは思います。

 確かめたわけではないのですが、普通に考えてブログの主と出会って、ご本人から口頭から聞いたのではなくて、別の人だと思いますので。
 
 私はそういう発想がなかったので、へーーえ、そういう感想もあるんだぁ~とは思いました。

 右手に赤本、左手に新聞、でしたっけ?逆かな…。

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