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2011年11月 1日 (火)

2011年11月のことば

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人身(にんじん)受け難し、いますでに受く。
仏法聞き難し、いますでに聞く。

      
ご法話のはじめに唱和される三帰依文(さんきえもん)は、掲示したことば「人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く」で始まります。  
人の身を受けるということ。それはとても難しいこと。稀なことです。お釈迦さまは、「人身の針のたとえ」で、人として生まれることの稀さをお説きくださいます。
「高く高く天高くより、地上に向けて糸を垂らします。その糸が、地上にある針の穴を通るくらい稀なご縁をいただいて、人として生まれることができたのです」
仏法を聞くということの難しさも、「盲亀浮木(もうきふぼく)のたとえ」をしてくださっています。
「目の見えない亀が、当てもなく海を泳いでいます。海には木片が漂っています。木片には、亀の首がやっと通る程度の穴が開いています。当てもなく泳ぐ亀と、プカプカ漂う木片が、コツンとぶつかり、しかも、亀の首がちょうど木片の穴を通りました。仏法を聞くとは、これほど大変な出来事なのです」
「人身の針のたとえ」も「盲亀浮木のたとえ」も、不可能なことのたとえのようでもあります。それほど稀なご縁をいただいているわけです。
人の身を受けること。それだけでも稀なご縁なのに、さらに仏法聴聞のご縁をいただけることの不思議。稀なうえに、更に稀なご縁をいただくかのように、三帰依文の始めのことばをいただいていました。しかし、それだけではないように最近感じています。   
人の身を受け、生きている私。しかし、そのことが本当に人の身を生きていると言えるでしょうか。人間として生きていると言えるのでしょうか。
「人(ひと)」ではなく、「人間(にんげん)」と、わざわざ「間」の字がついているのは、関係性を生きていることを表わしています。お釈迦さまや親鸞聖人のおしえに帰るならば、「縁に生かされている身である」ことを表わしています。人や、あらゆる物事との縁が結ばれて、私がいます。そのことに無自覚で、自分さえよければいいかのような振る舞いをして生きる(動く)者が、果たして人間と言えるでしょうか。人としての身をいただいていると言えるでしょうか。
「人身受け難し」の後に「仏法聞き難し」と続くのは、仏法を聞く、いえ、仏法に聞くことにおいて初めて、人間としての歩みが始まるということではないでしょうか。
仏法聴聞のご縁をいただいて、我が身の事実「縁に生かされている身である」ことに気づかされます。人や、あらゆる物事との縁が結ばれて、私がいる事実と向き合います。そのことによって、人やあらゆる物事に対する優しさや慈しみが湧く人もいるでしょう。しかし、なかなかそういうわけにもいきません。
仏法聴聞によって、善い人間・こころの清い人間になれると思いますか? 都合の悪い出来事を、都合の良い方向に転換させられると思いますか? 幸せを求めますか? しかし、仏法聴聞によって、それらの願いが叶うのではありません。なぜ叶わないのか。「縁に生かされている身である」からです。
仏法聴聞はつらいのです。でも、聞き続けてきた人々の歴史があるからこそ、今におしえが伝わっているのです。身の事実に立つ、つらい渦中にあるからこそ、おしえが私を生かすはたらきとなるのです。想いや気持ちはどん底でも、そこに立たしめる大地があるのです。そして、大地というからには、そこに立つ人々がいるのです。
欲望を叶えるのが仏法聴聞ではなかった。考えてもみれば、欲望が叶うとは、関係が断たれることであり、我が身の事実を覆い隠すことなのかもしれません。せっかく人身の針でたとえられるほどのご縁をいただいて生まれてきたのに。
仏法聴聞のご縁をいただいて、我が身を振り返り、このような私の姿に少しでも出遇えたとき、初めて人の身となる、人間となる。せっかく人の身を受けたのに、人の身として、人間として生きていませんでした。そのことを目覚めさせる声に、三帰依文はじめのことばは聞こえます。
最近、朝のお勤めで住職が拝読する「御文」(蓮如上人が書かれたお手紙)が、「阿弥陀如来に出遇え。そうでなければ、この世に生まれた意味がないぞ」と聞こえてきます。
   
   
   
掲示板の人形
今月は人形ではなく、井上雄彦さんが描かれた屏風「親鸞」のミニチュアを置かせていただきました。
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コメント

仏法聞き難し・・・「大無量寿経」の末尾「若聞斯経、信楽受持、難中之難、無過此難」。「教行信証」の総序「慶哉、西藩月支聖典、東夏日域師釈、難遇今得遇、難聞已得聞」。正にこのとおりだと感じます。

ところで、大衆は、なぜ、「だいしゅ」ではなくて「だいしゅう」なんでしょうか…。

☆やすさんへ
難中之難、無過此難
難遇今得遇、難聞已得聞
出遇うこと 聞くこと の有り難さを思います。
聞く(会う)といっても、ただ聞くのではなく、本当に聞く(遇う)ということは、とても有り難いことです。
南無阿弥陀仏

☆theotherwindさんへ
たとえば、「衆生」は、「しゅうじょう」ではなくて「しゅじょう」ですよね。(衆…しゅ)
でも、「大衆」は、「だいしゅ」ではなくて「だいしゅう」。(衆…しゅう)
熟語の上にある場合、後に続く語があるから「しゅ」でも違和感がないけれど、
熟語の下にある場合、後に続く語がないから「しゅ」だと座りが悪いので、「しゅう」と読む読み癖がついたとか。
なんてのはいかがでしょう。(相当しない例を見つけ出さないでくださいね)

Wikipediaを見てみましたが、「だいしゅ」となっていました。「だいしゅう」と読むことはないみたいに見えます。まあ、大谷派では実際に「だいしゅう」と読んでいるわけなんですが…。うーん。大谷派だけの慣例なのか。いつか誰かがそう読んで、定着した??

50年に一度のメモリアルグッズが一同に

http://shop.asahi.com/eventplus/1.1/529/

おおーー、

海洋堂フィギュア法然上人800年大遠忌記念「法然像」

海洋堂フィギュア親鸞聖人750回忌記念「親鸞像」

山口晃画「親鸞」複製画
「出立」
「叡山上空」
「80代の親鸞坐像」

あたりすごいですね。

蓮如上人筆「六字名号」掛軸

が、ま、こりゃ普通よくあるかなに見えてしまう…。

☆ theotherwind さんへ
(リンクサイト見ました) おおーーーー!!!!
スゴイですね。フィギュアは、そんな興味はないのですが。法然さまもおわしましたか。
個人的には、山口晃さんの絵にこころ惹かれます。
 
まだ、法然と親鸞展、行けてません

だい‐しゅ【大衆】
-日本国語大辞典.
〔名〕
(「だい」「しゅ」はそれぞれ「大」「衆」の呉音。{梵}mahasamgha 摩訶僧伽の訳語)
仏語。
比丘の多数集まっているものをいう。
僧団の呼称。

だそうで、他の御宗旨、というか、たとえば、浄土真宗本願寺派では、「だいしゅ」と呉音、呉音で読んでいるところが多いみたいです。但し、「だいしゅう」という辞書には載っていない、変形読み(?)は大谷派だけなのかというとそれもそうでもないっぽい。ということは、よくは分かりませんが、多分、何か慣例があるのでしょう。

原語:mahasamgha
音写:摩訶僧伽
意訳:大衆

らしいですが、三帰依文の場合は、多分、例えば、出家集団だけとか、真宗大谷派の門信徒まで含むとかそういう狭いことではなくて、佛教徒全員、あるいは、生きとし生けるものくらいの広い意味と考えられます。

maha 摩訶 大 を、言ったらキリスト教の目に「見えない教会」=本当の教会=みんな全員、というような意味に取って、「見えない僧伽」、つまり、具体的に、あるお寺に集まっている人々よりも、もっと大きく想像しているのではないかと。

文脈に依って意味が異なり、最初は、「みんな」とかいう広い意味だったのが、後に、比叡山なら比叡山で、位の低いお坊さんたち、その他諸々のお坊さんたちを指すようになってからの意味の文脈もある模様。貴族出身の學侶に対して、平民出身の大衆とか。

あるいは、法要に出仕するお坊さん、全員、特に、楽とか声明とかで、その他のお坊さん、バックコーラス全員みたいな場合もあるみたいです。

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