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2011年11月 6日 (日)

報恩講2011

11月5日(土)西蓮寺報恩講をお勤めいたしました。
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宗祖親鸞聖人の750回御遠忌の年ということもあり、初の試み、西蓮寺コールリンデン(仏教讃歌を歌う会)のお披露目。
コールリンデンに参加されている方だけでなく、報恩講参詣の皆さんと一緒に、声を出しました。
真宗宗歌 恩徳讃Ⅰ・Ⅱ 衆会 みほとけは
仏教讃歌だけでなく、童謡(もみじ・小さい秋見つけた・赤とんぼ・ふるさと)も歌いました。
   
初めての試みで、歌を歌うなんて思いもせずに参詣された方は驚かれたかもしれませんね。でも、大きい声を出すと、気分が盛り上がります。
次回コールリンデンは12月20日(火)午後1時30分からです。「私も参加していいんですか?」と、何人かの方から声をかけられました。ぜひご参加ください。お待ちしています。
     
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ご法話は 海 法龍住職 毎年ありがとうございます。
忘れながら、見失いながら生きている私自身の姿を憶念させるもの。それこそ浄土真宗における法事(仏事)です。慰霊や鎮魂のためのご法事ではありません。他を傷つけ、貶め、そのことに無自覚で生きている私。つらい想いをされている人のことを思いやる気持ちはある。あるんだけど、反面、自分事でなくてよかったとも思ってしまう私もいる。
関係を生きながら、支えあいながら生きている人間でありながら、そのような生き方をしている私の姿を照らし出してくださるのが法事(仏事)であり、阿弥陀如来であります。
親鸞聖人の750回忌をお勤めするというけれど、親鸞聖人のご法事を通して、阿弥陀如来に照らし出されている私自身に遇うのが、この度の御遠忌であります。

(副住職ノートより)
 
海住職、ハードなスケジュールで活動されているのに、毎年毎年その年の出来事に向き合い、ご自身の生活における出来事に向き合い、お話をしてくださいます。新聞に掲載される投稿の紹介と、ご自身のことを語るとき、聴衆の聞き入る姿も違います。
ご法話は、話している人間が一番気づかされると共に、一番胸をえぐられる存在だと思っています。つまり、つらいのです。でも、親鸞聖人のおしえに出遇い、そのおしえを伝えたいという一心でお話される姿に、毎年報恩講をお迎えさせていただけてよかったなぁと感じます。
      
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おかげさまで今年も報恩講をお勤めさせていただくことができました。
御参詣くださいました皆様、ありがとうございます。
ご参勤くださいましたご法中の皆様、ありがとうございます。
報恩講にあたり、おみがきや設営、お斎のお手伝いくださった皆様、ありがとうございます。
美穂 美鈴の子守のために秋田から来てくださったお父さんお母さんありがとうございます。
住職 坊守 若坊守 お疲れさまでした。
なんて書きだすと、報恩講(に限らないけれど)って、たくさんの人の力で成り立っているんだなぁ。
他にも、お花屋さん 仕出し屋さん お菓子屋さん…
みなさんがお寺に集まるには、それぞれの交通機関のお世話にもなっているし、家族の誰かが留守番をしているから寺に出かけられたという人もいらっしゃるかもしれない。そこまで言い出したら切りがないと言われるかもしれないけれど。
海先生が、新聞の投書を紹介してくださいました。
子供が親の手を離れ、夫婦二人での生活が始まりました。子供がいるうちは、「いただきます」を意識せずに言えたのに、子供がいなくなって、夫婦二人になったら、いつからか「いただきます」を言わない生活になってしまった。「いただきます」を復活させようという話になって、試みるんだけど、途絶えてしまった習慣は、なかなか復活できないものでした。最近、ようやく「いただきます」が言えるようになって、次は「ごちそうさま」だね、と主人と話しています。
というものでした。「いただきます」に限らず、挨拶は難しい。気恥ずかしさもあるし、返事が返ってこなかったら嫌だとも考えてしまう。必要ないと思っている人もいるかもしれない。でも挨拶って、目に見えない かげなるはたらきに、自然とこころ動かされ、ためらいもなく出るものだと思う。本来は。だから「おかげさま」。
目に見えないご恩(ご縁)だけど、誰もが感じている。それゆえに、手が合わさり、南無阿弥陀仏と称えられるものでした。損得勘定やご利益信仰、自分さえよければいいといった考え方に凝り固まっていると、「自分自身を見つめるのが仏事です」と言われても、響かないでしょうね。「いただきます」「ありがとう」「おはよう」…、その一言一言が、私自身の姿を映し出す念仏の声だったのですね。
     
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 「衆会(しゅうえ)」 2番
   みすがたは こころに うつり
   みおしえは いのちに かよう
   われらいま やみより さめて
   みほとけの ひかりの なかに
   のりをきく たのしき つどい
   
 「みほとけは」 2番
   みほとけは 
    ひとりなげきて みなよべば
    えみてぞいます わがむねに 
    えみてぞいます わがむねに 
    
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コメント

報恩講、本当にお疲れ様でした。準備、後片付け等色々とあったと思います。参加させていただき、よかったです。あとは月末に向けて気分が高まってくるのでしょう。宗門内でも数年前からことしの御遠忌に向けて行事が色々とあってムードが盛り上ってきましたが、終わったら反動で静かになってしまうのではないかと余計な心配をしています。

☆やすさんへ
報恩講ご参詣ありがとうございます。
報恩講・聞法会・白骨と、またやすさんがご参加いただけるようになって嬉しいです。
御遠忌が終わって、静かになることはないと思います。志ある者は、いろいろと動いているように感じます。

 全く同じことを、表面的な表現だけ逆に言ったら、別に、静かなら静かでも良いですよね。一年365日、報恩講、一生毎年、御遠忌と思えば。

 もっとも、海先生のご法話は毎回、私は顔真っ赤です。恥ずかしくて。「ほにゃららな私たちがいるわけです」→ああ、それは私です、隠しカメラあるのか、みたいな。

 なので、別院に歩いて行けるところに住んでいたりして、毎朝、真宗のご法話を聞かせていただいたりしていた日には、ちょっと、苦しいかも…(^^;)

 もっとも、海先生がよく仰られるように、「ああ、いいお話だなぁとか思っても、一歩、出たら、忘れる私たちがいるわけよ…」というのも、本当…(^^;)

 ときどき、私は、過去、何億年か、いろいろな仏国土で、仏教の話を小耳に挟み、へえ良いこと言うなぁとか、うまいこと言うなぁとか、ひとごとですませてきたんじゃあないのかとか思うことあります。

 よく、死んだ後どうなるかは分かりません、死んだことないですからと言いますね。もちろん、なんにもおかしくないです。普通の物言いなんですが、ちょっと屁理屈というかひねくれると、本当に死んだことないかどうかも分からないですからね(^^;)。

今月1日、2日、と「推進員のつどい」に参加して、秩父長瀞へ行ってきました
”長瀞ラインくだり”が二日目のイベントでした、つい先ごろ木曽川ライン下りでの事故があったばかり、
しかし、みなさん果敢にもボートに乗りました 波しぶきをあびて楽しかったですよ
ああいうときって、頭の中は空っぽになるんですね、いまさらながら分かりました

メインの法話、湯浅成幸先生のお話でした、胸につきささり、頭をがつんと、やられました、
特に印象に残ったのは、”今生まれて、今死ぬんだ” このおはなしに感動された方が多かったですねえ、
仏法は身に聞け! 何度も聞いたことがあるんですが、何度も忘れて、
今一度、あーそうだった

☆theotherwindさんへ
海先生のお話…お話だけでなく、東本願寺出版部から出ている日めくりカレンダー、監修を海先生がされれているのですが、一語一語がこころに沁みます(突き刺さります)。チョイスがすごいなと。

☆柳沢 佐智子さんへ
推進員のつどい、ご苦労様でした。
湯浅先生、おそらく、お一人お一人の問いやお尋ねに、丁寧の応えられていたのではないでしょうか。
お年から判断してはいけませんが、とてもパワフルで情熱的なおこころを感じられる先生だと思います。
法の温泉と、現実の温泉と、満喫されたのではないでしょうか。

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