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2011年9月22日 (木)

なにか不足でも?

台風一過…境内は落ち葉や飛んできたゴミで散らかり、お彼岸入りの日にお参りにみえた方のお花が飛び散っています。
ぎっくり腰を患い通院し、先生から「竹ぼうきを持って掃除なんかしちゃダメですよ」と言われていたのに、明け方から3時間、竹ぼうきを相棒に、掃除をしていました。なんとなく腰がだるいです。 
  
なんて無茶できるのも、治りかけているからですね。ぎっくり腰の痛みが残っているうちは、今まで簡単にできていたことが、まったくできなくなります。子供たちを抱っこしたり、荷物の上げ下げなどができないことは当然ですが、物事を考えたり、ご飯を食べたりなど、腰の痛みと直接関係ないようなことまで スムーズにできなくなります。
 
そんな状態が続く中、想っていたことがあります。「“健康第一”って、なんだろう?」って。 
怪我(病気?)をしたわけですから、それが治ることを求めます。
今までできていたことができなくなるわけですから、健康って大事だなと、あらためて思うわけです。
人々の願い事の中で、「健康第一」があります。
健康を望む気持ちは、よ~く分かります。この痛みが続くよりは、足をひきづって歩くよりは、治った方がいいですから。
でも、痛みは抱えていても、私が私であることに変わりはありません。それに、変な言い方ですが、ぎっくり腰を患ったからといって、それって不健康なのでしょうか。 “健康”を望むということの背後にある闇を感じていました。
 
「健康第一」「健康が一番」「なによりも、体が健康でなくちゃ」と言うときにイメージしている、健康ではない状態とは、どのような状態なのだろう。病気や怪我、あるいは思い通りにならない現実を、健康ではない状態・不健康な状態とイメージしているのではないでしょうか。
でも、病気や怪我をしても、それは不健康だとは思わなかったのです。
うまく言えていませんが。
 
病気や怪我をすることによって、今まで見えていなかったもの、今まで気づけなかったものが見える。
病気や怪我をすることによって、当たり前と思っていたことが、すべて有り難いことだと気づく。
病気や怪我をすることによって、他者に対する優しさが芽生える。
…などということは、よく言われます。そのような ことば に出遇うとき、「健康第一」と言う場合の「健康」ってなんだろう? なにを指して「健康」と言うのだろう? どのような状態を「健康」というのだろう? とも考えます。
 
ぎっくり腰を患う現実に際し、「健康」を求めることの「不健康」さを感じていました。
などと、伝わらないようなことを考えていたときに、小林よしのりさんの「ゴーマニズム宣言」の初期の作品を思い出しました。
「健全なる魂は 健全なる肉体に宿る」ということばがあります。子供の頃は喘息を患い、体が弱かった小林よしのりさんに対し、体育の先生が このことばを言ったそうです。「そんな弱い体でどうするんだ。そんなことではいけないぞ!!」と。子供の頃ですから、「こんなに体が弱い僕には、健全な魂は宿らないんだ」と、先生のことばを聞き、悩みます。
ある日、ことばの出どころを探すと、古代ローマの詩人 ユウェナリスという方のことばであろうことが分かります。しかし、ユウェナリスが言ったことばとは違って伝わっていたのです。日本語に訳す際の誤訳か、時が経つにつれて ことばが変わってしまったのかもしれません。
本来は、「健全なる魂は 健全なる肉体に宿れかし」のようです。
「宿れかし」…「かし」は「希望」「願望」を意味します。つまり「宿ってほしい」のです。「せめて健全な魂が、健全な肉体を持つ者に宿ってくれればいいのだけどなぁ(そうはならないなぁ)」というような意味になります。
「健全な肉体を持つものに、健全な魂が宿ってほしい(でも、そうはならないだろうな)」という ことばが出る背景には、健康でありながら、健康に対して、他者に対して、いのちに対して思い上がった生き方をする者が多い現実があります。多いというか、“皆”かもしれません。
  
「健全なる魂は 健全なる肉体に宿る」のであれば、病気や怪我をした方・障害を持った方には、健全なる魂は宿らないことになります。差別を内包することばになってしまいます。
「健全なる魂は 健全なる肉体に宿れかし」…健康を求めることに引っ掛かりを感じた意味が、ここにあるような気がします。
   
たとえば、人生においてなんらかのハンデを背負った人の ことば が、こころに響いてくることがあります。
そうしたとき、「私よりつらい目に遭っている人が こんなに頑張っているんだから、私も頑張ろう」というような感想を持ったりします。私は、そういう感想・想いに、疑問を感じていました。
こころにひびく ことばを発した方は、果たしてハンデを背負っていると思っているだろうか。「私よりつらい目に遭っているのに」などと他人に言われるほど、“つらさ”と思っているだろうか…。
ことばを発した人に、それほどの思いはないと思います。ただ、生きているのだと思います。生きている人のことばだから、生きて他者に響くのだと思います。
  
照る日には照る日をご縁に。
雨の日には雨の日をご縁に。
そして病む日には病む日をご縁に。
「老」いた私は「老」をご縁に。
終わりをいただくそのときまで
そんなふうに生きさせていただこう。

東井義雄
 
今日の文章を書く前は、昨日も紹介した東井先生のことばを書くつもりはなかったのだけど、書いているうちに つながってきました。
   
終わりをいただくそのときまで そんなふうに生きさせていただこう
   
「そんなふうに生きさせていただこう」というところに人生の立脚地を見出した人の口から、ことばは発せられる。その発せられたことばが、また人のこころに響く。
 

望むところの「健康」を手に入れたとして、それでもまだまだ望むだろう。果たしてそれが「健康」なのか。
「そんなふうに生きさせていただこう」というところに落在したとき、「健康第一」を望む必要のない歩みがはじまる。

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