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2011年9月

2011年9月30日 (金)

芙蓉 彼岸花 金木犀 

彼岸花はどんなに寒くても、どんなに暑くても、ちゃんとお彼岸中に花を咲かせていました。
とても不思議でした。
しかし、今年はお彼岸が終わってから咲き始めました。
 
もう10月ですね。東京は暑さと寒さの繰り返し、体がついていきません。
ちょっとへばっていたときに、ふわっといい匂いがしました。
境内の金木犀の匂いです。
「あぁ、いい匂いだなぁ。疲れた体も癒されるなぁ」などと感じましたが、ちょっと待てよと思いました。
金木犀の香りが漂うには、少し早い気がします。9月中に こんなに香っただろうか…。
     
自然を生きる植物たちの、季節を感じるアンテナに、少しずつ誤差が生じているようです。  
   
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写真は芙蓉です
 
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ご本山 北側の堀沿いに彼岸花が咲いていました。

2011年9月28日 (水)

親鸞さまがおわします⑳

【第20回 新たな地 関東への旅立ち】
建暦2年(1212)1月25日、法然上人入滅の報せに接し、親鸞聖人は悲しみに暮れます。
流罪は赦されたものの、師法然上人を亡くした聖人は、これからの身の振り方を考え、悩みます。京の都に戻っても、お上人さまはおられない。このまま越後に留まるべきか、新しい地へ踏み出すべきか。
 
時は鎌倉時代。新しく幕府が開かれた鎌倉には、多くの人々が集まり、政治・経済・文化が、目まぐるしいほどの発展を遂げていました。
新たに大きく栄える時代や場所は、その流れから取り残されてしまう者や挫折する者も生み出してしまいます。越後の地で、自然の猛威の中で、家族のために日々いのちを削りながらも生き抜いている人々がいました。その人々に、法然上人の念仏のおしえはしみ込んでいきました。まるで、砂漠に水がしみこむかのように。関東においても、師のおしえを必要とする人がいるはず。その人のためにも、関東に行ってみたい。
  
かつて親鸞聖人は、師より『選択本願念仏集』の書写を許されました。師の著書の書写を許されるということは、そのおしえを伝えるに不足ないいただきをしているということの証でもあります。聖人は、師より書写を許されたときの感動を呼び起こし、越後で出遇った人々との交流を胸に、新たな地へ歩み始めることの必然性を感じ始めていました。
   
兄弟子である実信房蓮生より、師法然上人のおしえを広めるべく、常陸国稲田郷への誘いを受けました。奇しくもその地には、親鸞聖人の妻、恵信尼さまの実家 三善家の所領もありました。
建保2年(1214) 聖人は家族と共に、越後を後にし、関東へと旅立ちました。

2011年9月22日 (木)

なにか不足でも?

台風一過…境内は落ち葉や飛んできたゴミで散らかり、お彼岸入りの日にお参りにみえた方のお花が飛び散っています。
ぎっくり腰を患い通院し、先生から「竹ぼうきを持って掃除なんかしちゃダメですよ」と言われていたのに、明け方から3時間、竹ぼうきを相棒に、掃除をしていました。なんとなく腰がだるいです。 
  
なんて無茶できるのも、治りかけているからですね。ぎっくり腰の痛みが残っているうちは、今まで簡単にできていたことが、まったくできなくなります。子供たちを抱っこしたり、荷物の上げ下げなどができないことは当然ですが、物事を考えたり、ご飯を食べたりなど、腰の痛みと直接関係ないようなことまで スムーズにできなくなります。
 
そんな状態が続く中、想っていたことがあります。「“健康第一”って、なんだろう?」って。 
怪我(病気?)をしたわけですから、それが治ることを求めます。
今までできていたことができなくなるわけですから、健康って大事だなと、あらためて思うわけです。
人々の願い事の中で、「健康第一」があります。
健康を望む気持ちは、よ~く分かります。この痛みが続くよりは、足をひきづって歩くよりは、治った方がいいですから。
でも、痛みは抱えていても、私が私であることに変わりはありません。それに、変な言い方ですが、ぎっくり腰を患ったからといって、それって不健康なのでしょうか。 “健康”を望むということの背後にある闇を感じていました。
 
「健康第一」「健康が一番」「なによりも、体が健康でなくちゃ」と言うときにイメージしている、健康ではない状態とは、どのような状態なのだろう。病気や怪我、あるいは思い通りにならない現実を、健康ではない状態・不健康な状態とイメージしているのではないでしょうか。
でも、病気や怪我をしても、それは不健康だとは思わなかったのです。
うまく言えていませんが。
 
病気や怪我をすることによって、今まで見えていなかったもの、今まで気づけなかったものが見える。
病気や怪我をすることによって、当たり前と思っていたことが、すべて有り難いことだと気づく。
病気や怪我をすることによって、他者に対する優しさが芽生える。
…などということは、よく言われます。そのような ことば に出遇うとき、「健康第一」と言う場合の「健康」ってなんだろう? なにを指して「健康」と言うのだろう? どのような状態を「健康」というのだろう? とも考えます。
 
ぎっくり腰を患う現実に際し、「健康」を求めることの「不健康」さを感じていました。
などと、伝わらないようなことを考えていたときに、小林よしのりさんの「ゴーマニズム宣言」の初期の作品を思い出しました。
「健全なる魂は 健全なる肉体に宿る」ということばがあります。子供の頃は喘息を患い、体が弱かった小林よしのりさんに対し、体育の先生が このことばを言ったそうです。「そんな弱い体でどうするんだ。そんなことではいけないぞ!!」と。子供の頃ですから、「こんなに体が弱い僕には、健全な魂は宿らないんだ」と、先生のことばを聞き、悩みます。
ある日、ことばの出どころを探すと、古代ローマの詩人 ユウェナリスという方のことばであろうことが分かります。しかし、ユウェナリスが言ったことばとは違って伝わっていたのです。日本語に訳す際の誤訳か、時が経つにつれて ことばが変わってしまったのかもしれません。
本来は、「健全なる魂は 健全なる肉体に宿れかし」のようです。
「宿れかし」…「かし」は「希望」「願望」を意味します。つまり「宿ってほしい」のです。「せめて健全な魂が、健全な肉体を持つ者に宿ってくれればいいのだけどなぁ(そうはならないなぁ)」というような意味になります。
「健全な肉体を持つものに、健全な魂が宿ってほしい(でも、そうはならないだろうな)」という ことばが出る背景には、健康でありながら、健康に対して、他者に対して、いのちに対して思い上がった生き方をする者が多い現実があります。多いというか、“皆”かもしれません。
  
「健全なる魂は 健全なる肉体に宿る」のであれば、病気や怪我をした方・障害を持った方には、健全なる魂は宿らないことになります。差別を内包することばになってしまいます。
「健全なる魂は 健全なる肉体に宿れかし」…健康を求めることに引っ掛かりを感じた意味が、ここにあるような気がします。
   
たとえば、人生においてなんらかのハンデを背負った人の ことば が、こころに響いてくることがあります。
そうしたとき、「私よりつらい目に遭っている人が こんなに頑張っているんだから、私も頑張ろう」というような感想を持ったりします。私は、そういう感想・想いに、疑問を感じていました。
こころにひびく ことばを発した方は、果たしてハンデを背負っていると思っているだろうか。「私よりつらい目に遭っているのに」などと他人に言われるほど、“つらさ”と思っているだろうか…。
ことばを発した人に、それほどの思いはないと思います。ただ、生きているのだと思います。生きている人のことばだから、生きて他者に響くのだと思います。
  
照る日には照る日をご縁に。
雨の日には雨の日をご縁に。
そして病む日には病む日をご縁に。
「老」いた私は「老」をご縁に。
終わりをいただくそのときまで
そんなふうに生きさせていただこう。

東井義雄
 
今日の文章を書く前は、昨日も紹介した東井先生のことばを書くつもりはなかったのだけど、書いているうちに つながってきました。
   
終わりをいただくそのときまで そんなふうに生きさせていただこう
   
「そんなふうに生きさせていただこう」というところに人生の立脚地を見出した人の口から、ことばは発せられる。その発せられたことばが、また人のこころに響く。
 

望むところの「健康」を手に入れたとして、それでもまだまだ望むだろう。果たしてそれが「健康」なのか。
「そんなふうに生きさせていただこう」というところに落在したとき、「健康第一」を望む必要のない歩みがはじまる。

2011年9月21日 (水)

台風の日には台風の日をご縁に

台風15号 ものすごい暴風雨でした。まだ通過中・これから通過の所もありますね。ご注意ください。
暴風雨の勢いが強かった午後5時前後、本堂でお夕事(夕方のお勤め)をしていました。本堂は高床になっているので、風による揺れの影響がより強くなります。
揺れる荘厳(本堂のお飾り)、揺れる自分自身、豪雨の音と共に本堂がきしむ音、留め金が外れてバタバタうなる雨戸。地震によるダメージも受けていますから、本堂が倒れてしまうんじゃないかと思いました。本堂から見える山門も気になりました。
午後9時頃、台風が過ぎ、風もおさまってきました、本堂も山門も無事でした。雨が隙間から入り込んだり、屋根裏に積もるゴミ・埃が落ちていて、明日は朝から大掃除です。
     
墓参の少ない今日、本をたくさん読めました。おかげさまで、東井義雄先生のことばに出遇えました。
      
照る日には照る日をご縁に。
雨の日には雨の日をご縁に。
そして病む日には病む日をご縁に。
「老」いた私は「老」をご縁に。
終わりをいただくそのときまで
そんなふうに生きさせていただこう。

       
台風の中、娘の「今日もいい天気だねぇ」を思い出していました。
かぎりあるいのちを生きる私です。いのちのすべてが、生きることのすべてが、私が生きる舞台でした。
照る日も、雨の日も、病む日も、老いも、今日もまたいい天気です 
  
まだ完治してないせいか、それともそういう反応を示す体となったせいか、湿気の多い今日、ぎっくり腰を患ったあたりが、ちょっと痛みます。
病む日には病む日をご縁に
痛む日には痛む日をご縁に

2011年9月20日 (火)

大丈夫…人知においては、とうてい達しえない境地

早いもので9月も20日を迎えました。秋のお彼岸ですね。最近の気候とは一変して、雨で寒いお彼岸の入りとなりました。
 
2011年9月のことば
他者(ひと)を想う慈しみのこころからは、「あぶない!」という叫びが生まれる。
…しばらく更新してなかったので、何度か読まれた方もいるかと思います。当ブログを読み続けてくださっている方は、過去に似たような文章があったことに気づかれたことと思います。
 
2011年8月11日のブログ
安全を究めれば、“危ない!!”という叫びが出るはずです
 
ブログには、日々想うことを書いているから、突然の思いつきで文章が生まれる。8月11日のブログもそのひとつ。
安全について考えていて、本当に他者の安全に気を遣っていると、「安全だよ」よりも「危ない!!」という声が出るのではないかと思いました。その想いをもう少し進めてというか、発酵してというか、薫習して生まれたのが、2011年9月のことばです。
 
掲示したことば自体は、私が作ったことばです。
もっときれいで、もっと見やすく、もっと分かりやすく表現できないかと、9月号の寺報印刷ギリギリまでことばを選んでいました。結果生まれたのが、掲示したことばです。表現の不器用さに自ら閉口しています。
 
いろいろ考えました。
本当に他者を想う気持ちがあれば、「安全だよ」「安心だよ」よりも「危ないよ」ということばが出る
と、掲示することばを作ろうと 暗中模索しているときに、
「安全だよ」「安心だよ」のほかに、「大丈夫だよ」ということばもあるなぁと思いました。
   
「大丈夫」
…よく耳にすることばです。安心を与えることばです。子育てに悩み、誰にも相談できずにいるお母さんなどは、「大丈夫よ」と言ってもらえるだけで、安心し、子育てに専念できるものです。大切だし、温かいことばです。
でも、「大丈夫だよ」ということばが浮かんだ時、ある光景を思い出しました。
私が教区に顔を出している昔、教区教化委員会の場で、掲示ポスターの発表がありました(数パターンのことばを掲示板サイズに束にして、希望するお寺さんが購入するものです)。 その中に、「大丈夫だよ 生きていけるよ」ということばがありました(もしかしたら、ことばが少し違っているかもしれません。記憶の中の話です)。
このことばに対し、あるご住職が立ち上がり、興奮気味に言います。
「“大丈夫”ということばで、助かる人間も、たしかにいると思います。大事なことばです。でも、掲示するだけのことばで、“大丈夫”というのは、無責任というか、危うさがあると思います」
朋の自死に、何もしてあげられなかった。自死したこと自体、伝え聞くまで知らなかった。その悔恨を、自身への怒りを、いつまでも持ち続けておられる方のことばです。
「大丈夫」と言うからには、言う方にも相当の覚悟がいるものなのです。その覚悟もなく、「大丈夫」と言えるのか(いいえ、言えません)。「安全だよ」「安心だよ」もしかりです。
  
「だいじょうぶ だいじょうぶ♪」と、簡単に使っている自分をも思い出し、自己を見つめていました。
 
「大丈夫だよ」と、言ってはいけないというのではありません。
そのことばの背後に、「安全だよ」「安心だよ」という想いで言っているのか、「あぶない!!」という叫びから言っているのか、その違いが大きいと思います。まるで別物だと思います。
  
このことまで含めて 掲示することばに盛り込めませんので、表記のことばを発しました。
でも、その背後では、こんなこと(上記のこと)を思い返してもいました。
 
  
(付記…参考 大谷大学HP「生活の中の仏教用語299 大丈夫」)
「だいじょうぶ だいじょうぶ」と簡単に言うけれど、「大丈夫」とは、元々“仏”の異名(別の呼び名)のこと。
自己を見つめ、戒め、そのことを通して 他者を想い、すくわんと願われた仏。
最上の人格者を「丈夫」といい、さらに「大」の字を付して「大丈夫」と表現した。何も足らぬものがない、すべてに長けている“仏”を、「大丈夫」と異名したのです。
 
時は流れ、「完璧なさま」「危なげのないさま」「まちがいのないさま」などを「大丈夫」と表現するようになりました。実際の内容はどうであっても。
   
「だいじょうぶ だいじょうぶ」…言ってる者が間違いだらけなのだから、その言葉は、危なっかしい。

2011年9月 1日 (木)

2011年9月のことば

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他者(ひと)を想う慈しみのこころからは、
「あぶない!」という叫びが生まれる。
 
      
原子力発電所は、「安全です」「安心です」の声と共に成り立ってきました。国や自治体、電力会社、推進する関係者は、安全・安心を強調してきました。それを聞く方も、安全・安心を信じ、受け入れてきました。
今のような事態になる前に気付くべきでした。安全・安心など、有り得ないということを。信じるということは、たとえそれが覆されても、受け入れ続けなければいけないということを。
なにをもって、安全だと言えるのでしょう。どんなに細心の注意を払っていても、なにが起こるか分からないものです。
なにをもって、安心だと言えるのでしょう。考えてもみれば、「安心」を叫ばなければならない状況があるということ自体、「安心」ではないということです。不安の種があるということなのですから。
なにをもって、信じていると言えるのでしょう。自らの幸せや便利さの享受のために信じたのならば、信じた側にも責任はつきまといます。誰かのせいにできる話ではありません。
安全・安心神話など眉唾なのでした。安全・安心神話などまやかしであるとともに、それを言う方にも信じる方にも覚悟がありませんでした。
   
子供は、何をやらかすか分かりません。自分が怪我をすることもあれば、他の子供に怪我をさせたり、物を壊すこともあります。泣かせたり泣かされたり、だましたりだまされたり、お金の貸し借りで人間関係が壊れたり…子供とは、決して乳幼児だとか、成人するまでとは限りません。親からしてみれば、子供はいつまでも子供です。年を重ねていくと「子供がえり」することもあります。人は、いくつになっても子供なのかもしれません。幾つになっても、面倒がかかるものです。親は、子は、細心の注意を払って育てる(面倒を見る)のですが、ちょっと目を離した瞬間に、とんでもないことをしでかしてくれるものです。
どんなに細心の注意を払っていても、安全・安心ということはないのです。どんなに一生懸命、安全・安心のために努めていても、ちょっと目を離した瞬間に、ちょっとホッとした瞬間に、今までの努力は水泡に帰すものです。皮肉なことに、安心が油断を呼び、安全・安心を吹き飛ばしてしまうのです。
他者(ひと)を想うとき、悲しませないため、傷つけないために、懸命に努力をします。他者への想いが強ければ強いほど、本当ならば本当なほど、「これで安全(安心)だよ」などということばは出ないと思います。「あぶない!」という叫びと共に、他者を想う気持ちはますます強くなっていきます。
「あぶない!」のなら、他者への想いなど捨ててしまえば楽ですが、捨てきられないのです。捨てきられないからこそ想いは続き、関係が続きます。
「安全(安心)です」という声は、他者のことを想っていることばだと思っていました。しかし、言った瞬間に関係が断たれてしまうことばだったのです。他者が、「ひと」ではなく、「もの」になってしまうのです。
   
他者(ひと)を想う慈しみのこころからは、「あぶない!」という叫びが生まれる。そう考えたとき、親鸞聖人の悪人正機のおしえが響いてきました。
悪人正機…悪人こそが、正に成仏の対象であるとするおしえ。
悪人とは、罪を犯した人、人を傷つける人・苦しめる人などを意味するのではありません。
人と人とのつながりの中で、人は誰も傷つけずに生きることはできません。私が生きているという背景には、誰かの悲しみの涙があるものです。親鸞聖人のおしえは、そのことがいけないことだから、他者に涙を流させないように生きようというのではありません。私たちは、他者に涙を流させている事実に気付かずに生きています。いえ、気付いているのに気付いていない振りをしているのかもしれません。原発の問題で、その姿が露わになりました。
つまり、親鸞聖人がいわれる「悪人」とは、特定の罪びとを指しているのではなく、すべての生きとし生けるものの生き様を表わしているのです。その自覚を、「悪人」の自覚、凡夫の自覚、愚禿の自覚などといい、その目覚めを親鸞聖人は大切にされています。
「善人こそがすくわれますよ」「良い人となってすくわれましょう」などという安心をうたった宣伝は、私のあり方に対する眼をふさいでしまいます。「悪人こそ、阿弥陀如来のすくいの対象です」というおしえは、私のあり方を顕かにしてくださいます。
生きざまを覆い隠してしまうのが、他者を想う気持ちの表れではありません。生きざまをハッキリ表してくれるのが、他者を想う慈しみのこころです。「あぶない!」「お前こそ悪人だ!」という声が出るとき、立ち上がらずにはいられないのですから。  
   
   
  
掲示板 今月の人形
大仏さま(阿弥陀如来坐像)の人形。鎌倉で買ってきました。
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