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2011年9月 1日 (木)

2011年9月のことば

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他者(ひと)を想う慈しみのこころからは、
「あぶない!」という叫びが生まれる。
 
      
原子力発電所は、「安全です」「安心です」の声と共に成り立ってきました。国や自治体、電力会社、推進する関係者は、安全・安心を強調してきました。それを聞く方も、安全・安心を信じ、受け入れてきました。
今のような事態になる前に気付くべきでした。安全・安心など、有り得ないということを。信じるということは、たとえそれが覆されても、受け入れ続けなければいけないということを。
なにをもって、安全だと言えるのでしょう。どんなに細心の注意を払っていても、なにが起こるか分からないものです。
なにをもって、安心だと言えるのでしょう。考えてもみれば、「安心」を叫ばなければならない状況があるということ自体、「安心」ではないということです。不安の種があるということなのですから。
なにをもって、信じていると言えるのでしょう。自らの幸せや便利さの享受のために信じたのならば、信じた側にも責任はつきまといます。誰かのせいにできる話ではありません。
安全・安心神話など眉唾なのでした。安全・安心神話などまやかしであるとともに、それを言う方にも信じる方にも覚悟がありませんでした。
   
子供は、何をやらかすか分かりません。自分が怪我をすることもあれば、他の子供に怪我をさせたり、物を壊すこともあります。泣かせたり泣かされたり、だましたりだまされたり、お金の貸し借りで人間関係が壊れたり…子供とは、決して乳幼児だとか、成人するまでとは限りません。親からしてみれば、子供はいつまでも子供です。年を重ねていくと「子供がえり」することもあります。人は、いくつになっても子供なのかもしれません。幾つになっても、面倒がかかるものです。親は、子は、細心の注意を払って育てる(面倒を見る)のですが、ちょっと目を離した瞬間に、とんでもないことをしでかしてくれるものです。
どんなに細心の注意を払っていても、安全・安心ということはないのです。どんなに一生懸命、安全・安心のために努めていても、ちょっと目を離した瞬間に、ちょっとホッとした瞬間に、今までの努力は水泡に帰すものです。皮肉なことに、安心が油断を呼び、安全・安心を吹き飛ばしてしまうのです。
他者(ひと)を想うとき、悲しませないため、傷つけないために、懸命に努力をします。他者への想いが強ければ強いほど、本当ならば本当なほど、「これで安全(安心)だよ」などということばは出ないと思います。「あぶない!」という叫びと共に、他者を想う気持ちはますます強くなっていきます。
「あぶない!」のなら、他者への想いなど捨ててしまえば楽ですが、捨てきられないのです。捨てきられないからこそ想いは続き、関係が続きます。
「安全(安心)です」という声は、他者のことを想っていることばだと思っていました。しかし、言った瞬間に関係が断たれてしまうことばだったのです。他者が、「ひと」ではなく、「もの」になってしまうのです。
   
他者(ひと)を想う慈しみのこころからは、「あぶない!」という叫びが生まれる。そう考えたとき、親鸞聖人の悪人正機のおしえが響いてきました。
悪人正機…悪人こそが、正に成仏の対象であるとするおしえ。
悪人とは、罪を犯した人、人を傷つける人・苦しめる人などを意味するのではありません。
人と人とのつながりの中で、人は誰も傷つけずに生きることはできません。私が生きているという背景には、誰かの悲しみの涙があるものです。親鸞聖人のおしえは、そのことがいけないことだから、他者に涙を流させないように生きようというのではありません。私たちは、他者に涙を流させている事実に気付かずに生きています。いえ、気付いているのに気付いていない振りをしているのかもしれません。原発の問題で、その姿が露わになりました。
つまり、親鸞聖人がいわれる「悪人」とは、特定の罪びとを指しているのではなく、すべての生きとし生けるものの生き様を表わしているのです。その自覚を、「悪人」の自覚、凡夫の自覚、愚禿の自覚などといい、その目覚めを親鸞聖人は大切にされています。
「善人こそがすくわれますよ」「良い人となってすくわれましょう」などという安心をうたった宣伝は、私のあり方に対する眼をふさいでしまいます。「悪人こそ、阿弥陀如来のすくいの対象です」というおしえは、私のあり方を顕かにしてくださいます。
生きざまを覆い隠してしまうのが、他者を想う気持ちの表れではありません。生きざまをハッキリ表してくれるのが、他者を想う慈しみのこころです。「あぶない!」「お前こそ悪人だ!」という声が出るとき、立ち上がらずにはいられないのですから。  
   
   
  
掲示板 今月の人形
大仏さま(阿弥陀如来坐像)の人形。鎌倉で買ってきました。
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コメント

悪人に成れる人ってのは、一般的に「幸せ」ですからね。
理解らないのは、いわゆる法律の作り方であって、
これで色んな方々の幸せが決まってくる訳ですが、
食べて・寝て・生活する、そして人と逢うという
シャクソーンの生活をしてみると自分が観えてくるという
アレもんのアレなのではないかと独白してみました。
しかし、大切なモノはそれでも理解りませんね。

 確か坂東報恩寺のご住職が仰っておられたのではなかったかと記憶してますが、NHKのこころの時代で、テーラワーダ仏教のお坊さんを鎌倉に連れて行ったら、おみやげやさんで大仏のおみやげがあるのはけしからんと激怒されたとか(^0^;)。

 全然関係ないですが、韓国では冬至に小豆粥を食べる習慣があるそうです。

http://www.pusannavi.com/special/5000731

☆ theotherwind さんへ
テーラワーダ仏教のお坊さんが激怒されるのも分かります。買っておいてなんですが、おもちゃみたいです。
で、以前ブログでも取り上げた、親鸞聖人フィギュアを思い出していました。
粗末に扱えばおもちゃだし、けしからんと思います。でも、手が合わさるときに、本尊となるのでは…。
偶像崇拝だろ!! とお叱りを受けるかもしれませんが。

お胎内巡りみたいのも×らしいです(^0^;)。

ヘーゲルの『精神現象学』によると、啓蒙の時代、イエス様の像とか、拝んでいても単なる木の切れっ端じゃないかという浅薄な非難が啓蒙の側から宗教に対してあったとか。

もっと面白いのは宗教の側も啓蒙に感染してしまって、神様が歴史的に実在した証拠を物的に探したりしたとか…。

ああ、姿形はないです。もちろん木の切れっ端ですよ、そんなことは分かっていて拝んでます、礼拝するとはそういうものです…とならなかったのだそうです。

宗教にも啓蒙が忍び込んでしまって啓蒙の土俵に乗っかってしまっていたそうです。

教えてください。

10月23日(日) 15:00 白骨の会(仏教青年会)

というのは、誰でも参加しても良いものですか?

内容は、座談会のようなものでしょうか?

もしも、誰でも参加可能で有れば、持ち物は、お念珠と赤本でしょうか?(あとはあれば聖典と略肩衣?)

☆theotherwindさんへ
はい、白骨(参加者の中では「白骨の会」とは言わず、「白骨」と言っています)はどなたでも参加できます。
内容は、いわゆる座談です。私が前もってテーマを決めておくのではなくて、その日の参加者から、問いや疑問や悩みや近況報告をいただき、語り合っています。
宗教の話に限りません。家庭や恋愛の悩み、最近見た映画やドラマの話など、日によっていろいろです。
ただ、ここ3ヵ月は参加者もなく、妻と声明の稽古をしています。でも、それも白骨。
 
持ち物は、お念珠と、身ひとつで充分です(赤本「勤行集」は、お持ちでしたらご持参ください)。

分かりました。有難うございます!

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