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2011年8月15日 (月)

二つの白法あり、よく衆生を救く。一つには慙、二つには愧なり。

父王を殺害したアジャセ王の苦悩を察知した釈尊は言います。
「アジャセ王の為に私は涅槃に入りません」と。
それを聞いた弟子の迦葉(カショウ)は驚いて尋ねます。
「釈尊よ、一切の衆生を救う為に涅槃に入らないと言うべきではないのですか。どうして父王を殺したアジャセの為に涅槃に入らないとおっしゃるのですか」
「迦葉よ、あなたは思い違いをしている。私の『アジャセ王の為』という思いは一切の罪を犯したものに及ぶのです。一切の煩悩を持つ衆生に及ぶのです。煩悩があるからこそ衆生というのであって、ないものは衆生とは言いません。アジャセはその代表である。私はそのアジャセを救うまでは涅槃に入ることはできません」
そのように言うと釈尊はアジャセを念じつつ慈悲の光明を放ち、その光明に照らされたアジャセ王の体からは、苦悩から生じた全ての瘡(かさ…出来物)が治癒されたのでした。
(『涅槃経』より)
      
  
「アジャセのすくいって、どのように説かれているんでしたっけ?」という朋の問いが、勉強しなおすきっかけをくれました。
   
父王殺害の罪を犯すアジャセ。しかし、その苦悩の果てに芽生えた“慙愧”のこころ。罪を犯した自信を愧じる(はじる)とき、そのとき初めておしえに真向かいになれる。慙愧のこころこそが、人をすくう尊い法として、いただくことができるのです。信心など持ち得ないこの私の身に、信心が芽生えるのです。
慙愧のこころの果てに、信心が芽生える。それこそアジャセのすくいであり、私たち一人ひとりのすくいなのです。
   
すくわれる人間と、すくわれない人間がいるのではありません。
父王を殺害した悪人と、殺害など犯さない善人がいるのではありません。
尊いおしえと、尊くない(功徳のない)おしえがあるわけではありません。
   
慙愧のこころは、誰にも生じうるのです。
慙愧のこころが芽生える種を持ちながら、種を撒きながら生きているのですから。
    
    
アジャセは、「自分のようなものを、どうして釈尊はすくおうとしてくださるのか」と、家臣の耆婆(ギバ)に問います。
耆婆は応えます。「例えば7人の子を持った親が、7人に対する想いに違いはないけれど、しかし病める子には特に慈しみの心が深くなるものです。衆生に対する想いに違いはないけれど、罪あるものには特に慈悲の心が深くなるものです」
  
7人に対する想いに違いはない。しかし、病める子には、慈しみのこころがふかくなるもの。
お釈迦さまのおこころであり、そのおしえをいただいて生きる者の本来あるべき姿なのだと思います。
でも、苦しむ1人よりも、他の6人を大切にする生き方(マイノリティよりマジョリティを大切にする生き方)をしているのではないだろうか。
そのような気持ちが、8月15日、自身の中に芽生えていました。それを慙愧というには、あまりにもおこがましい…

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