移ろうもの 変わらないもの
「同朋新聞」9月号が届きました。
四衢亮(よつつじ あきら)住職の「時言」を読みました。
スリーマイル島の事故、チェルノブイリの事故、その時は確かに問題になったし、問題にしたのです。その後その問題意識はどうなっていたか。私たちの意識はそれが高くても低くても、時に流され、熱くなり冷め、移り変わります。確かなのは、人間の問題意識ではなく、変わることなくそこにある問題そのものです。「問題」の方がはるかに深く大きく、私たちを捉えて離さないのです。今や、その問題から離れて無関係を決め込むことができる者(ひと)はいません
(真宗大谷派宗務所発行「同朋新聞」2011年9月号より)
読んでいて、胸に突き刺さりました。
当ブログ 前の文章で、砂浜を歩いていたときに感じた いのちの移ろい を書きました。砂浜を歩いていて、諸行無常を感たのです。
「諸行無常」…すべてのものは移ろう。“このまま”を保つことはない。
生ある者は衰え、いのちあるものは いのち終えていく
感じたこと、考えたこと、想ったことも、日々刻々と変化していきます
「諸行無常」のおしえをいただき、移ろいゆくいのちを感じていました。
しかし、起きた「問題」というものは、変わることなくあり続けるということを、 四衢住職のことばからおしえていただきました。
原発の問題、戦争の問題、家族の問題、様々な問題に囲まれて生きています。
いのちが移ろいゆくのと同じように、問題の解決に向けて努力協力をし、世に起こる様々な問題の結果も移ろいゆきます。解決ばかりでなく、破たんしたり悪化したりという結末もあります。
しかし、起きた問題そのものが消えることはありません。解決したから、問題そのものもなかったことに、というわけにはいきません。問題が起こった事実は重く、消してしまえるものではありません。
今夏、戦争を描いた映画やドラマに現実味がないという投書を新聞で読みました。デジタル化により、映像がきれいで鮮明になり、時代の重さが表現しづらい(こちら側がイメージしづらい)のでしょうか。
戦争を描いた映画やドラマに出演される方々も、戦争を知らない世代ばかりになりつつあります。経験していない者には分からないという、経験至上主義は好きではありませんが、現実味を失う側面があるのも事実です。
「諸行無常」を生きているけれど、「問題」が起きた事実というものは、消し去れるものでもないし、忘れられるものでもない。人生に打ち込まれる楔(くさび)として、移ろいゆくいのちを生きていかねばならないものだと感じました。
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