ものを見るのに一つの事を見て多くのことを考えなさい
『同朋』(真宗大谷派宗務所発行)2011年7月号が届きました。森達也さん(映画監督、ドキュメンタリー作家)の連載「ブルーにこんがらがって」を読み、妻と会話を交わしました。
最新号の『同朋』なので、ネタバレになってしまいます。まだお読みでない方は今ブログを読むことをお控えください。あるいは、全文読んでみたい方は、東本願寺出版部までお申し込みください。
森さんはある大学でメディアやジャーナリズム論について講義をされています。ある日の講義で、生徒のひとりが森さんに尋ねられます。「なぜテレビは、地震発生直後からしばらくは震災報道一色だったのに、気がつけばこれほどにあっさりと、通常のバラエティ番組を放送できるのでしょうか」と。
森さんの応えます。テレビ局は営利企業である以上、視聴率が取れない番組は放送できない。視聴率が広告料に換算されるテレビは、とても敏感に民意を反映する。つまり、「地震発生直後からしばらくは震災報道一色だったのに、気がつけばこれほどにあっさりと、通常のバラエティ番組を放送できる」のは、市場である僕たちの姿でもあるのだ、と。
以上、私自身が「ブルーにこんがらがって」を読み、そうだよなぁと同意した部分です。以下の文章は、その私自身の想いであり、森さんが言おうとしたことではありませんので、お間違いありませんように。
森さんの「テレビ局は営利企業である」を読み、東京電力も一営利企業であることを考えれば、一営利企業がしていることは民意の反映なんだよなぁと思いました。つまり、必要としている人が多いということ。
「国や東京電力は、本当のデータをきちんと公表して欲しい、隠さないでほしい」と言うけれど、本当のデータを見たくない、目を背けてきたのは、僕たち。
「国や東京電力は原発は安全だと言い続けてきた。それなのに、今のような状況になって…国や地元自治体や東京電力は嘘つきだ」と言うけれど、放射能が危険なことぐらいは、素人なりに「危ないものなんだろうな」とは思っていたはず。チェルノブイリや東海村が、その危険性を教えてくれていたのに、誰かが安全だというから安全なはずなんて思ってきた。「安全です」と言われて、それを信じてきたのなら、「安全です」と言った人間を責められるだろうか。
ある小学生の男の子が書いた手紙が反響を生んでいるそうです。その子のお父さんは、東京電力で働いています。周りの人は「東京電力はけしからん」と言います。でも、「電気の無駄遣いをするから原発が必要になったのだし、地球温暖化防止には原発が必要だというけれど、温暖化を進めたのは世界中の人々です。そう考えると、原発を作ったのは、東電も含めて、みんなであり、責任はみんなにあります」という内容のお手紙です。
そのお手紙に対して、同じ小学生から、「原発は安全だって聞きました。そう教えられてきた私たちに、原発は危険だなどという思いは生まれません。それなのに、人間全体が悪いというのは納得できません」「電気の無駄遣いをするから原発が必要だというのは、言い訳です」という反響もあるそうです。
当然、賛否それぞれの反響があります。今私が書こうとしているのは、否定意見の反響を否定しようというのではありません。「安全だと教えられてきたから、危険だと思うはずがない」…ストレートな意見です。教えられたことを、教えられたとおりに信じてくれればいい。それが、今の日本の教育なのかなと思いました。教えられたことに疑問を抱いたり、教えに反したことを考えてみたりする(自分のことみたいだな)のは、教える側からすれば「してくれるな」と感じることでしょう。
「あなたが言っていることは言い訳です」というのも、自分に責任はない・責任はとりたくないという想いの反映だと思います。
小学生の手紙に対する反響を読んで、想いが一元的・一方向的だなぁと感じました。
森さんに尋ねた学生さんの問いも、否定されるようなものではないと思います。ストレートな想いであり、多数派意見なのかもしれません。でも、やはり一元的・一方向的だと私は感じました。
震災直後、「AC」に対する苦情もひどかったそうです。「くどい」「しつこい」「うっとうしい」「内容を考えろ」「A~C~の音楽が嫌だ(その音楽は鳴らされなくなってしまいました)」。テレビが営利企業である以上、仕方のないことです。「AC」が駄目ならば、従来のままのコマーシャルが流されていたわけですが、それならそれで、もっと苦情が出ていたことでしょう。自分が気に入るか入らないか、納得できるかできないかだけで物事を測るわけですから、行動も想いもストレートになり、その根っこには、一元的・一方向的な思考しかありません。
ここまで書いたようなことをつぶやく私に、妻が応えます。
(妻は、私が食卓の上に本を置いておくと、目を通してくれます。私が本の内容について急に語りだしても、すぐに受け応えてくれます。私がつぶやいた時も、おそらく「森さんの文章だな」と察知してくれたと思います)。
今日の読売新聞の「HONライン倶楽部」に、金子みすゞさんについて、女優の田中美里さんが文章を書いてました。
「みすゞさんは母ミチに“ものを見るのに一つの事を見て多くのことを考えなさい”と教えられたという。みすゞさんの魚や土の気持ちになって詩を作る物の見方や、生かされているという感謝の想いはそんな環境で育ったからなのかもしれない」って。
それを聞いて、金子みすゞさんの「積もった雪」を思い出していました。
つもった雪 金子みすゞ
上の雪
さむかろな。
つめたい月がさしていて。
下の雪
重かろな。
何百人ものせていて。
中の雪
さみしかろな。
空も地面もみえないで。
積もった雪と、ひとかたまりに見てしまいがちなものに、上の雪と下の雪と中の雪の想いを感じる。
多くの物の見方ができて、“いのち”について想いをはせることができるからこそ、金子みすゞさんのような詩が生まれるのですね。
「“積もった雪”の詩を思い出してたよ」と言ったら、「その詩も新聞に書いてあったよ」と妻に教えてもらいました。家族が寝静まってから、新聞をゆっくりと読ませていただきました。
会話の続き…
そうそう、「一つの事を見て多くのことを考える」癖が、今の人にはないよね。と、私。
小学生の反響(反対意見)を読んでいてね、そんなことを感じていました。決して、その子に対して「一つの事を見て多くのことを考え」てほしいと言っているのではありません。誰に対しても通じるという普遍的意味で、「一つの事を見て多くのことを考え」ることは大事なことだと思うのです。
原発の問題にしても、これだけの惨事にならないと目を覚ませない(これだけの惨事になっても目を覚ませない?)自分にいらだちを感じます。東海村の事故の際に、原発や放射能汚染の危険性を、朋が声を大にして訴えていたのに、私の耳には入ってきませんでした(聞こえてはいたけれど、他人事にしていました。つまり、聞いていませんでした)。今現在の放射能汚染の影響が、未来にどのような形で現れるのか、正直誰にも分かりません。つまり、なにが起こるか分からない負の遺産を、今を生きている私たちが、これからを生きる人たちに遺そうとしているのです。それを考えると、脱原発に向けて進まなければいけないと思っています。
などと書くと、「原発がなくなったら、どうやって生活していく気だ。日本の生産力も落ちて、自前のエネルギー・自前の食物も持たない日本は、たちまち貧しい国になっていくぞ」とお叱りを受けてしまいます。たしかにそうです。脱原発を訴えるということは、原発に従事して働いている方々の仕事を奪うことにもなります。あるいは、今さらになって脱原発を訴えるということは、今まで脱原発を訴えてきた人々・原発のそばに住むことを(いえ、住んでいるところに原発ができたことを)耐えてきた人々に追随するようでいて、裏切りの側面も持っています。
そのように、どの道を選んでも、そこには、困っている人・困る人・耐えている人・これから耐えていかなければならない人がいるのです。反面、楽する人・享受する人などもいるものです。誰に対しても、迷惑のかからない道などないのです。そのような、人が生きるということの現実に向き合う。そんなの理想に過ぎないとか、気持ち悪いとか、逃げじゃないかと思われるでしょうが、それでも、そんな現実に向き合う道を探りたいのです。
(余談…上記のようなことを考えているんだけどと、教化を担っている方に言ったら、「私もそう思います。でも、そのような想いで講演会や教化活動をしているのに、“東本願寺は脱原発なのか!”という話になってしまうのです。脱原発か原発推進かの話ではないんだけど…」と仰ってました。会話とは難しいものです)
妻…「一つの事を見て多くのことを考えなさい」ということを考えるとね、
先日あなたがお風呂で、美穂(長女)に突然水をかけられたとき、「ギャーッ!! やめなさい!!」って怒ったときに、「冷たいからやめなさい」って、理由をちゃんと言って叱った方がいいよって言ったでしょ。その一件だけじゃなくて、私自身もだけど、ただ「ダメ」というのではなくて、何がどうしてダメなのか表現しないといけないと思うの。そういう意味で、例えば、今話してくれた、反対意見を述べた小学生も、「何がどうしてダメなのか表現」してこなかった大人に育てられてきたのかなと思います。
「何がどうしてダメなのか」、あるいは「何がどうして嬉しいのか」…そのような声で包んであげないと、子供たちは想いが膨らまないし、想いが至らなくなってしまうのかもしれません。しかし、そのような声で包んであげるべき大人が、そのような力を有さずに生きているのかもしれません。今、現に。
一つの事を見て、一つの事だけ(自分がよしと考える事だけ)考えるということは、他の意見が聞こえなくなります。他人(ひと)が見えなくなります。
一つの事を見て多くのことを考えられるようになると、いろいろな意見に聞く耳を持てます。他人(ひと)が見えてきます。でも、それはそれで苦しみます。
さて、どちらがいいですか。私は、多くのことを考えられるようになりたい。たとえそれで苦しんだとしても。
森さんの文章は結びます。
人は優しい。でも冷酷でもある。誰かの悲しみや辛さをすべて共有しながら生きることなどできない。でも自分が冷酷な存在だと気づきかけたのなら、それはそれで意味のあることだ。この冷酷さに無自覚であるとき、人は大きな間違いを起こすのだから。
長々と書きすぎました。思考がブルーにこんがらがっています。
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