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2011年6月 1日 (水)

2011年6月のことば

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 物をうくるには心を以てし
 法をうくるには身を以てす
    金子大榮

     
物をいただけば、それに対する思いが生じるものです。
 「あら素敵」
 「こんなものいらない」
 「もう 持っているんだけど」
いろいろなことを思うものですが、いる・いらないで判断するのではなく、物を贈ってくださった方の気持ちを大切にしたいものです。
「なにがいいかな」「これは似合うかな」「これなら喜んでくれるだろう」
そんなことを考えながら、贈り主は品物は選ぶものです。そうではありませんか?
品物自体への評価より、そのお気持ちを、心を以ていただきたいものです。
     
法(おしえ)に触れるとき、「ためになるから」「良い人間になるために」「気持ちを落ち着かせるために」などという気持ちで、仏法聴聞していませんか?
きっかけは大事ですから(きっかけがないことには仏法聴聞できません)、そのことがいけないという話ではありません。しかし、そのような気持ちだけで聴いていると、ためにならないと判断したとき、よい人間になれないと思ったとき、気持ちが落ち着かないとき、仏法も無駄だ、意味がないと吐き捨ててしまいます。
先達から、「仏法は、毛穴からしみ込んでくるものです。どうか仏法聴聞の場に身を置き続けてください」と教えられたものです。仏法聴聞しているそのときは分からなくても、困難にぶち当たったとき、しみ込んだ教えが、私を生かすはたらきとして花開きます。
「仏法聴聞」と書きましたが、「聴聞」には大切な意味があります。自分で思い立ってきくことを「聴」。聴き続けているうちに、きこえてくることが「聞」です。きっかけは自分の想いかもしれませんが、聴き続けているうちに、自分の想いを超えて聞こえてくることがあるのです。毛穴からしみ込んでいたおしえが、「あぁ、こういうことだったんだ」と聞こえてくるときがあるのです。時を経て、生活を経て、経験を経て、頷ける真実があるのです。
「ためになるから」仏法を聴くのではなく、仏法聴聞のご縁をいただいているのです。物を受ける場合も、法を受ける場合も、自分の価値観(ものさし)に合わせようとすると、合うはずもありません。いらないものとして 烙印を押してしまいます。
    
私が先にある。その前提で「心を以て」「身を以て」というと、心構えだとか、目標・礼儀になってしまいます。そのように「心を以て」「身を以て」と考えた場合、いつの間にか自分優位・自分上位のいただき方に陥ってしまいます。もらってあげる、聴いてあげる、と(そこまでの意識はないでしょうが)。
「心を以て」「身を以て」…そうするための いのちを、いただいて生きているのです。
   
人身受け難し、いま すでに受く
仏法聞き難し、いま すでに聞く

   (「三帰依文」おしえのことば)
 
人として いのち をいただくことがどれだけ稀なことでしょう
仏法聴聞のご縁をいただくことが どれだけ難しいことでしょう
しかし、その稀で難しいご縁の中で、人としてのいのちをいただき、しかも仏法聴聞のご縁をいただきました。 私の想いを超えた様々なご縁を、幾重にも重なるご縁をいただき、今の私がいるのです。
心構えや目標・礼儀として、心を以て物を受け、身を以て法を受けましょうというのではありません。物(気持ち)や法(おしえ)の積み重なりを受けて、私が私として成り立っています。心と身が成就しています。
私という人間の事実を、金子先生のことばから感じます。
 
 
 
金子大榮(かねこ だいえい:1881~1976)
明治から昭和期の真宗僧侶・教学者。
お名前の「榮」は、火が燃え盛る様子を表すということで、「栄」ではなく「榮」と書くことにこだわられていたというお話を聞いたことがあります。
寺の納戸を片付けていたら、金子先生に御揮毫いただいた色紙が出てきました。その色紙に書かれていたのが、今月のことばです。
    
   
   
掲示板 今月の人形
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