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2011年5月16日 (月)

ここに、人がいる

5月15日(日) 都内某寺様において永代経法要の法話をさせていただきました。
永代経・報恩講を合わせて、7回目の出講になります。顔見知りになった門徒さんもいらっしゃいます。お育ていただきまして、ありがとうございます。
以下、法話の一部を書かせていただきます。 
   
   
     
私は、親鸞聖人のおしえは、「ここに、人がいることを目覚めさせるおしえ」であると感じています。
2011年3月11日(金)午後2時46分 東日本を、大きな地震が襲いました。地震に続く津波・原発問題は、被害を更に大きくしました。この未曽有の災害に、人々は驚きと悲しみを感じています。
「このようなことが起こるなんて、この世には神も仏もいないのか」と思う人もいるかもしれません。しかし、この世は、災害・戦争・傷つけあい等無情なることが起こるものです。それらを無くすのが神や仏なのでしょうか。それらが無くなった世界を求めて生きることが、 いのちの目的なのでしょうか。
無情なるこの世を、いのちあるものは生きていかねばなりません。そのためには、支えとなるもの、よりどころとなるものが必要です。しかし、私が、「これこそよりどころだ!」と意識して頼りとしたものが、いかに頼りとならないものであったことか…。それは、この未曽有の災害を前にして明らかになりました。
無情なるこの世を、今、現に私は生きています。それは、支えとなるもの、よりどころとなるものが、既に私を支え続けていてくれたからです。私が、「これこそよりどころだ!」と選ぶのではなく、私の意識(想い)を越えたはたらきに、私は、既に支えられていたのです。そのはたらきを、「阿弥陀如来」と言います。
宗祖 親鸞聖人は阿弥陀如来を見出され、苦悩を無くすのではなく、苦悩を抱えながらも生きていける道…「南無阿弥陀仏」の念仏の道を歩んでいかれました。
苦悩を無くすことを求めての念仏ではありません。苦悩ある人生・無情なるこの世だけれども、私を生かすはたらきがある。それを阿弥陀如来といいます。阿弥陀如来が、衆生(生きとし生けるもの)をすくいたいという願いが、「南無阿弥陀仏」の念仏として、私と共にあります。
   
人生において、出会いは大切な出来事です。言い方を変えると、出会いこそが人生です。しかし、「出会いは大切」「出会いに感謝」などといった場合、私にとって都合のいい出会いをイメージし、私にとって都合の悪い出会いは、わざわざ「出会い」などと考えられません。
真宗において「出会い」は、「出遇い」と表現され、大切にされます。「遇」には、「偶然」という意味があります。親鸞聖人は、「たまたま」と読まれています。偶然の出遇い、たまたまの出遇いには、私にとって都合のいいこともあれば、都合の悪いことも含まれます。にもかかわらず、真宗において「遇う」ということが大切にされるのは、私の意識(想い)を超えたところにある出遇い、自分ではどうすることもできないところにある出遇いを通して、初めて出遇えるなにかが あるということを表しているのだと思います。
災害を通して、今まで見えていなかったものが見えてきた。今まで軽んじられてきたいのちの重さが感じられるようになってきた。
自分の想いなど通用しないところに、初めてなにかを感じ、初めてなにかを想い、初めて見えてきたものがある。それらとの遭遇を「出遇い」と言います。
苦悩を抱えながらも、親鸞聖人のおしえに出遇われ、念仏申しながら、生き抜かれた人々がいる。その証が、その歴史が、親鸞聖人亡き後、750年も続いてきたのです。
光を射して、私を導いてくださる阿弥陀如来。苦悩を抱えながらも、念仏をよりどころとして生きる姿を示してくださった親鸞聖人。頑張る力を与えてくれているおしえ。
頑張れる大地が、今、私の足下にあります。
   
「永代経法要」というと、先祖を想い、供養讃嘆することをイメージします。
先祖代々から受け継いできたいのちが、今、私となって生きています。時間という縦のつながりです。
この震災を機縁に、空間という横のつながりを強く感じています。
世界中の人々が、行ったこともない国・会ったこともない人々を想い、復興・平和を祈って手を合わせてくださっています。視覚的に人は見えないけれど、“想う”という意味において、人が見えています。いのちが見えています。人が見えることによって、憂いは優しさに変わります。
時間軸において、亡くなられた方と対面することはできないけれど、亡き人を縁に、「南無阿弥陀仏」の念仏をいただいています。そういう意味で、亡き人と遇っているのです。
空間軸において、会ったことのない人・行ったことのない地域の人々のことを想う縁をいただいています。そういう意味で、人と出遇っています。
出遇いの中を生かされています。縦のつながり、横のつながりをいただいて、今、私は生きています。その感得が、永代経法要を勤めるということの本当の意味なのだと思います。

最初に、「私は、親鸞聖人のおしえは、『ここに、人がいることを目覚めさせるおしえ』であると感じています」と言いました。「ここに、人がいる」とは、今お話ししたような感得を意味します。

「遇う」という字に込められた想いには、私にとって都合のいい「出遇い」もあれば、都合の悪い「出遇い」も含まれると言いました。
しかしそれは、いいこともあれば、悪いこともあるという意味ではありません。人と人とのつながりの中を生きるということは、うれしい想いをする人がいれば、その時同時に悲しい想いをする人も発生しているのです。その自覚において、人と出遇えます。
未曾有の災害を通して、出遇うことがなかったかもしれない人々に出遇い、私の中から発することがなかったかもしれない、人を想う(人が見える)気持ちが表れた。他人(ひと)だけでなく、自分にも遇うことができました。
そのような意味で、「ここに、人がいる」ことを気づかせてくださるのが、親鸞聖人のおしえなのだといただいています。

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コメント

 おっしゃるとおりですね…。

 > 「このようなことが起こるなんて、この世には神も仏もいないのか」と思う人もいるかもしれません。

 わたくしが思いますに、一方で、同じことを裏返してみますと(ということになるのではなかろうかと思うのですが)、神さまあるいは仏さま、が、拠り所としてなかったら、自分は有り得ない、おられなかったら自分は生きておられないというか、そういうことを、実感しておられる方々は、世界中におられるようにも思います。

 そういう方々がおられるところ、神さまや仏さまがあるということを、前提として生きている人々のあるところに、神さまや仏さまはおられる、のだと、考えることもできるのではないかと思います。(神さまや仏さまは、おられる…という言い方も、絶対に不可能ではない、ある意味、特殊な意味で、そういう言い方も、可能なのではないかと。)

 「拠り所」というのは、前提であり、設定。

 ある「物語にコミットする」ということは可能。

 

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