2011年5月のことば
明日、世界が滅びようとも
今日、私はリンゴの木を植える
「リンゴの木を植える」とは、象徴表現であり、実際に木を植えるという意味ではありません。
明日、世界が滅びるかもしれないというときに、発育を見届けられないことを分かっていながらも、リンゴの木を植えるとは、どういうことでしょう。
しかし、考えてもみると、明日、世界が滅びないという保証・確約はどこにもありません。地震・津波・原発事故…今のような状況になろうとは、誰も考えずに生きてきました。
明日は何が起こるか分からぬ世界を、今日とも明日とも知らぬ身を、私は生きています。
ということは、「世界が滅びるのを分かっていながらも、リンゴの木を植える」という意味ではなく、「明日は何が起こるか分からないいのちを生きているけれども、私は、いつもと同じようにリンゴの木を植える」ことだといただけます。
日常を生きる。なにか特別なことをするのではなく、今日も、いつもと同じように生きる。
いのちの終わりを迎えたときに、なにか特別なことをしようというのではない。いつ終わるか分からぬいのちだからこそ、今日も、いつもと同じように、日常を生きる。
朝起きて、顔を洗い、朝食をとり、会社や学校に行き、あるいは家事をし、仕事を勤め、昼食・夕食をとり、風呂に入り、床に就く。
平凡な生活だと こぼすような日々を送れることが、どれだけ難しく、有り難いことであったか。
特別なことをする必要はない(やめる必要もない)。同じことの繰り返しでも、そこに、いのちの営みはしっかりと根付いていて、人生という果実が実っていました。
どうせいつかは汚れるのだから掃除はしなくていいと、汚れたままにしておけるでしょうか。
どうせいつかは別れるのだから出会いは必要ないと、人に会わずに生きられるでしょうか。
どうせいつかは死ぬのだから何も食べなくてもいいと、何も食べずにいられるでしょうか。
掃除をし、人に出遇い、たくさんのいのちをいただきながら、私は今まで生きてきました。今、生きています。これからも生きていきます。
たくさんのリンゴの木を植えながら生きてきたのです。たとえ汚れると分かっていても、たとえ別れがあると分かっていても、たとえ死ぬと分かっていても、せずにおれないのです。無駄なことなどないのです。
今回の震災の後、ボランティアとして被災地に行った朋が悲しそうに言いました。
「あまりに無力で…」
被害の甚大さに、人ひとりができることの小ささを痛感し、無力な自分を嘆いています。まるで責任を背負うかのように。
何事を為すにも、はじめの一歩があります。逆に言うと、はじめの一歩を踏み出さなくては、何も始まりません。
今、多くの人が、いろいろな形で、リンゴの木を植え始めています。
はじめに、「発育を見届けられないことを分かっていながらも」などと書きましたが、発育(目に見える結果)を求めながら一歩を踏み出してはいないことでしょう。せずにおれない何かがある。こころの底から突き動かされる何かがある。
平凡な生活だとこぼしていたのは、三度の食事を口に運びながら、「ただ動いていただけ」だからかもしれません。
せずにおれない何か、こころの底から突き動かされる何かを感じ、「ただ動いていただけ」の私が、リンゴの木を植えるという一歩を踏み出しました。「生きる」ということを感じながら。
今月のことばは、マルチン・ルターの言葉であるとする説が有力なのですが、出典が分かっていません。参考にする資料によって文言が違うので、掲示するにあたり、語句の体裁を整えさせていただきました。
初めて目にした時、格好いい生き方だなぁと感じましたが、よくよくいただいてみると、「今を生きる」ということでした。
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私にできることは、この一年しっかり勉強して、まず、骨折や脱臼や捻挫が治るように手助けをさせていただくことができるようにすることだけです。そして、さらに勉強して、患者さんに寄り添うことができる医師になることだけです。それしかありません。神様仏様阿弥陀様から見れば、私のできることなどほんの小さいことですが、これからも私の最善を尽くしてまいります。
投稿: がく | 2011年5月 4日 (水) 00:24
言葉というもの、意味を全く変えずに表現だけ言い換えるということは実はないので、言い換えるということは実はつねに意味は変えてしまっていることになりますが、言い換えると、明日、世界が滅びるか滅びないかは、明日は今日じゃないから分からない、分かるのは今日だけなのであって、明日、世界が滅びるかもしれないからリンゴの実は収穫できないかもしれないが、今日、明日、世界は滅びない方に賭けて(明日、世界は滅ばないという前提で)、今日、リンゴの木を植える……ということに論理的にはなるのではないか……という言い換え=解釈も可能な気がします。カントは人間は誰も皆、二つのことを暗黙の前提として生きていると言っていると思うのです。理性で考えたらおかしな話なのだけれども、よーーく、考えてみると、そういう、頭で考えたらおかしなことを、実は、無意識に前提として生きていると。「魂の不滅」と「神の存在」とカントは言っていますが、「魂の不滅」というのは、あるいは人間が皆持っている「魂の不滅」という幻想とは、と言っても良いのかも知れませんが、それは、人間が毎日こつこつ一生懸命生きているのは何故かというと死んで終りとは人は実は無意識には思っていないからだ、頭では死んだら終わりと分かっているつもりかもしれないが、無意識には死んだら終りとは実は誰も思っていないからだ…ということなので、死後の世界があると信じていると言い換えても良いかもしれません。お浄土が実体として実在する、でも良いかも。もう一つ「神の存在」というのは、それぞれの人間は毎日こつこつ一生懸命生きることに没入していますから、自分の人生全体を見渡せる視点は持ち得ないのですが、何か、自分が死んだ後で、決算、反省してみて、いい人生だった…といえるということを前提としているという、これも不思議な前提。自分のお通夜に自分が参加してお酒のんだりお寿司食べたりして、故人をしのぶ…みたいな。死んだ後、人生が完結しないと、人生の最終結果は出ないので、死後の世界にまだ生きていないといけないわけですね。そういうことを、言っているのだと取ることもできるのかなと思いました。
投稿: theotherwind | 2011年5月 8日 (日) 10:04
一般的なカント解釈では、なぜ、「魂の不滅」と「神の実在」を人間がみな無意識に前提しているのかというのを、死んで終りではなくて、死んだ後に、別の生がしばらく続き、そして、最後の審判、最終結論として、最後の最後、第二の死で、結論が出る、それは、善行を積んだ人が報われるはずだ、そうでないと不条理だとなっていると思います。この解釈に対しては私はちょっと違うんじゃないかなぁと思いますが、分かりやすい解釈ではありますね。
なお、なぜ、ちょっと違うかというと、カントは「最高善」を目標として挙げていて、そして、カントは「最高善」の定義を、神の意思と人間の意志の完全な合致としているからです。
この定義だと、普通の意味での現世利益というのとはちょっと違うと思うのですね。
投稿: theotherwind | 2011年5月13日 (金) 23:00