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2011年4月16日 (土)

おしえに生きてきた人々に出遇い、おしえに生きている現実を知り、念仏称える私の姿が後の人々に念仏を相続していくこととなる

本年は宗祖親鸞聖人の750回忌の年にあたります。
真宗大谷派では、真宗本廟(京都 東本願寺)において、3月4月5月、それぞれ19日~28日に御遠忌法要をお勤めします。
しかし、3月11日の東日本大震災によって、3月に予定されていた第1期御遠忌法要は中止となり、「被災者支援のつどい」として、法要が勤まりました。
このことについて、いろいろなご意見があったと聞いています。「このような災害が起きた時に、大きな法要をするものではない」「このようなときだからこそ、親鸞聖人のおしえを聞き開くために法要をお勤めするべきだ」
 
人の数だけ考え方はあるもの。どちらが正しいなんてことはありません。
話が変わってしまうかもしれませんが、ある百貨店にお勤めの方からこのようなことを聞きました。
震災後、百貨店を開店すれば「大勢の人が困っているときに、開店するとはなにごとだ」(百貨店は、華やかなところというイメージからでしょうか)と言われ、休業すれば「物が必要なときに休業するとはなにごとだ」と怒られるそうです。
自然災害という、人間の想いではどうすることもできない出来事に遭い、どうすることもできない中で、生きる道を必死で探している人々がいるのに、自分の思い通りにしよう思い通りにしようとする人がいる。どうしたらいいの?という話ですね。 
   
さて、3月のゴタゴタを経て、4月5月の御遠忌法要のお勤めが決定しました。
私の個人的な考えです。誰かを批判したり、それこそ自分の思い通りにしたいという話ではありません。
親鸞聖人の750回忌法要が、歴史に名を遺す一個人のご法要であるならば、延期や中止にすればいいでしょう。しかし、750回忌を迎えるご縁をいただき、そこから親鸞聖人のおしえを訪ねる動きが出てきました。
その動きは、親鸞聖人のおしえを教学的に捉えるということではないはずです。
親鸞聖人在世の頃の京の都も、戦乱の影響や飢饉によって、多くの民衆が亡くなったとききます。まさに、現代の、地震・津波によって被災しているかのように。そのような時代に、親鸞聖人のおしえ、南無阿弥陀仏の響き、阿弥陀如来の温もりを感じ、「南無阿弥陀仏」と念仏を称えて、一生を頑張って頑張って生き抜いた人々の歴史が、今に伝わっているのだと思います。
つまり、宗祖親鸞聖人のご法要をお勤めするということは、親鸞聖人一個人のご法要をお勤めするということではなく、そこに、おしえに生き抜いた人々を見出し、今もなお、この私におしえが届いていることの証として、ご法要が勤まるのだと思うのです。
「今、いのちがあなたを生きている」という御遠忌テーマも、このような意味が、現実が、想いが込められたものといただいています。
今回の災害を経て、会ったことも、話したこともない被災された方々に対し、日本という枠を超えて、多くの国の人々が祈りをささげています。いのちが軽んじられている時代などと言われもしますが、そんなことはない、いのちがつながりといて生きている事実が、如実に表れているではないですか。こういう事実も、御遠忌テーマは私たちに訴えているのだと思います。
今頃このようなことを言わなければならないのは、親鸞聖人の750回忌を迎えるに当たり、何もしてこなかったことの表われのような気がします。今からでも遅くはない。困難に立ち向かっていった人々の歩みは、私たちの足下に届いているはずです。そうでなければ、私たちは立ち上がっていないでしょう。なにもできずにいるだけでしょう。でも、そうじゃない。見えていなかっただけです。南無阿弥陀仏のお念仏の大地に、今、立ちましょう。  
  
3月の御遠忌が中止となり、「このようなときだからこそ、親鸞さまのご法要に参詣したかった」というご門徒の声も、多く聞かれたといいます。
オウム事件以降、「日本人の宗教離れが進んでいる」などとよく言われます。果たしてそうなのだろうか? 実際のところは分かりませんが(宗教心はあると思うのですが)、「そのように言われている」という憶測・マスコミが声を大にする情報から、私たち寺に住まう者は、宗教離れが進んでいると思い込み、親鸞聖人を大切に想う人も少なくなっている、お念仏を称える人も少なくなっている。さぁ大変だ、親鸞聖人のお念仏のおしえを復活させなければいけない!などと考えてはいなかっただろうか。
宗祖親鸞聖人を、念仏のおしえを大切にしている人々が、今の世にもこんなにいる。それなのに、「誰もいないから」「誰もいないだろう」という前提に立ってしまっていたのではないだろうか。
中越の震災後にボランティアで炊き出しに行った際に、家具等が倒れてしまったお宅の片づけを手伝わせてもらったことがあります。家の中に入ってびっくりしたことがあります。地震で、家具や食器や飾り物や、あらゆるものが散乱していたのですが、そんな状況の中、1か所だけきれいにされ、輝いているところがありました。お内仏(お仏壇)です。どこよりも先ず、お内仏を整えられていたのです。整えられているお内仏と、そのおこころに自然に手が合わさりました。
大切にしている人たちと、おしえの復活や再興を試みる人たち…前提がまったく違っていました。かみ合うはずがありません。
この未曾有の出来事によって、いろいろなことを感じさせていただきました。逆の言い方をすると、これほどのことがないと目が覚めなかったのか!ということにもなります。
 
3月の御遠忌が中止になったことをブツブツ言っているのではありません。何年もかけて準備してきたものを、自分たちの決断で中止にせざるを得なかったこと、お察しします。作る側の気持ちも分かるので(テーマがわかりづらいだの、マスコットが必要なのかどうかだの、盛り上がりに欠けるんじゃないかだの、問うべきことはそこか?ということで この何年間か浪費してきてしまいました)、苦情を述べているのではありません。
 
御遠忌法要をお勤めするということは、親鸞聖人一個人を偲ぶという意味ではない。おしえに生きてきた人々に出遇い、おしえに生きている現実を知り、念仏称える私の姿が後の人々に念仏を相続していくこととなる。
また、名称は「御遠忌法要」ではなくなっても、そこに親鸞聖人はいるのです。「被災者支援のつどい」と銘打っても、「御遠忌法要」であることに変わりはないのです。「ここに、人がいる」という自覚において。
 
4月5月の御遠忌法要をお参りするだけが、そのお参りではありません。いつでも、京都の東本願寺をお参りください。
京都の東本願寺をお参りすることがかなわなくても、阿弥陀如来のご本尊をお参りください。そのことを通して、過去の人々とも、いのちを亡くされた人々とも、目の前を生きる人々とも、この私自身とも、遇うことができます。 

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コメント

「津波は天災ですが原発は人災です」という日本語フレーズをときどき聞きます。

本当でしょうか?

考えて、言われているフレーズなのでしょうか?

単なる枕詞、意味なく、なんとなく、本題に入る前に、言ってみただけのフレーズではないでしょうか?

この世に天災(他の人間が傷ついているのに自分の罪でないこと、仕方が無いこと、自分が悪かったと後悔しないこと)なんてあるでしょうか?

地球の裏側で地震があったら自分が悪かったと罪の意識を持つのが人間でしょう。

この世に起きる全てのことについて「自分が悪かった」と思うのが人間。

だから、日本の外で、外国の人たちが、祈ってくれている。日本人の代理として、罪を許してくださいと祈ってくれている。(当事者が自分が悪かったと思えとはならないからです。当事者でない人が、誰かが傷ついたのは自分たちが悪かった、自分たちを許してくださいと祈ってくれる。それは天罰という発想とは全く違うものです。)

だから天災なんて一つもない。

津波は天災ではありません。

津波は私の罪です。

つまり堤防が低すぎたとか町を高台に作っていなかったとかは、そこに住んでいない私の罪なのです。(当事者の罪ではないです。)

津波は人災だから避けられる。高台に町があって津波が届かなかったら、津波が起きていることに気がつかなかったら、津波は起きていないのです。被害があるから津波。

 ことば こころのはな様
 ブログ拝読いたしました。貴殿の「親鸞聖人一個人の御法要をお勤めするということではなく、そこに、おしえに生き抜いた人々を見出だし、今もなおこの私におしえが届いていることの証として、御法要が勤まるのだと思うのです。」と仰ることまことに同感です。親鸞さまが生きておいでになれば何と言われるでしょうか?被災地で「親鸞聖人七百五十回御遠忌」を勤めてはどうかと思うのです。なぜなら、慰霊と鎮魂ではない≪生きた教え≫を伝える事が「親鸞さまの御恩に報いること」ではないかと思うのです。京都(御本山)に全国から御門徒を集めて御法要を勤める事には「疑問」が感じられます。僧としてのなすべきことを考えていましたが、あなた様のブログを拝読しなんとなく、このように感じられました。合掌

会社のお休みを頂いてご本山におまいりさせて頂きました。椅子席というのは何か違和感、特に、御伝鈔は、上から目線(?)になってしまうので、あるのですが、しかし、体が大変に楽なのは事実です。と言っておいて、明日、晨朝に遅刻したりすると爆笑ですが…

☆theotherwindさんへ
お参りいただき、有り難いことです。
椅子席は、もはや世の流れですね。上から目線になってしまうのも仕方ありません。
うちの本堂も椅子席なのですが、年に何人か、椅子に座らず正座をしておられる方がいらっしゃいます。あるいは、読経中は椅子に座っていても、御文さんがあがるときには椅子から下りて正座をされる方とか。
あぁ、日ごろのお勤め(勤行)を大事にされている家庭で育った方なんだなぁと、感動してしまいます(それだけで判断していいことではありませんが)。
どうぞ ご本山に身を置ける贅沢を満喫ください。

> うちの本堂も椅子席なのですが、年に何人か、椅子に座らず正座をしておられる方がいらっしゃいます。あるいは、読経中は椅子に座っていても、御文さんがあがるときには椅子から下りて正座をされる方とか。あぁ、日ごろのお勤め(勤行)を大事にされている家庭で育った方なんだなぁと、感動してしまいます(それだけで判断していいことではありませんが)。

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哲学とか思想においては、いまだかつて、誰も言っていないことを言うことによって、学会に貢献するという考え方があると思います。みんなの議論によって…と言いますか、私はこれこれのことが本当のことなんじゃないかと思います…とみんなを説得していくことによって、みんなで本当のことを探求していく…と言いますか…。オリジナルな意見が尊ばれるわけですね。へー、なるほどねぇ~となる。


一方で、道徳心とか宗教心というのは、「模倣」によるのだと言われます。

たとえば、「念仏者には品格が与えられる」と言った場合、品格というのは副産物ですね。副産物でしか有り得ません。念仏すると品格が与えられるらしいから念仏しよう…ということでは与えられないです。品格が念仏することの目的にはならないわけですね。念仏することそれ自体、自己目的的。念仏することが念仏することの外部にある他の目的のための手段として念仏するのではなくて、そういう意味では、無意味に念仏する。

すると、あくまでも副産物として、つまり、望んで得られるのではなくて、品格が与えられる。


と、いうことは、実は、当該の念仏者本人はただ一生、念仏に没入しているだけですから、仮に品格が与えられているとしても、そのことには気がつかないということでもあります。

じゃあ、品格というのは、本人が自覚していない、本人にとってはないのと同じなら、どこにあるのか?

その念仏者の背中を見ている周囲の他の人のまなざしの中にあるわけですね。

これが「模倣」を惹き起こすわけです。

「ああ、あの人のようになりたいなあ」

「なれないけれども、せめて、まねしよう」

と。

たとえば、勤行本のかばんからの出し入れの所作が美し~い~~おばあさんを見た時に、それを見た人々のまなざしに、道徳心や宗教心は始まるわけです。

自分は、勤行本を持ち上げちゃってるからかっこ悪いんだなと。本当に美しい所作は、逆だと。勤行本の高さは一定に固定。自分の頭が下がるのが美しいんんだな、と。

「模倣」ということ、馬鹿にできません、というか、ものすごく大事なことなんですね。尊いことなんです。

逆に、模倣を馬鹿にするから、オリジナルばかり尊重して、自分独自であることばかり尊重するから、満員電車にリュックサックしょったまま乗ってきたりするわけでしょう。全く気がつかないことに、立ち至るわけです。周囲を見ていないからそうなるんです。

> どうぞ ご本山に身を置ける贅沢を満喫ください。

有り難いことですね。

幸福。ハッピー。ハッピーというのはハプニングですから。偶然ですね。

最近の日本語(?)で言うならば「らっきーーーー」というやつです。

そもそも、大変な数の宇宙がビッグバンしたらしいのですが、われわれが住んでいるこの宇宙以外は全部、消滅したらしいですね。ビッグバンによって生じた膨大なエネルギーから、物質が生成され、銀河や惑星ができて、太陽のほどよく近くに地球ができて……というときに、最初のエネルギーの大きさや分布、物質の割合、太陽と地球の距離などが、ほんの少しでも違っていたら、地球の存在の可能性はなかった。確率論的に考えると奇跡に等しい出来事。

つまりわれわれは、「宇宙福引きに大当たりした」らしいです。

想定の範囲外。

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