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2011年3月24日 (木)

ひとりで頑張る必要はありません

3月24日(木) 春彼岸7日目(最終日)
春のお彼岸も終わりました。
例年と比べたら参詣者の少ない春彼岸でしたが、震災後、あらゆる環境が不安定なことを考えると、多くの方が参詣されたと思います。
無事を伝えた方もいることでしょう 神仏に祈った方もいることでしょう とにかくお参りせずにおれないからという方もいることでしょう。
想いはさまざまです。でも、そこには、なにか見えない大きなものをよりどころとして生きたいという願いを感じます。
願いを持てるということは、願われて生きている真実があるから。
真実(よりどころ)と共に、生きていきましょう。
南無阿弥陀仏

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コメント

日本の歴史上、最近、日本人が忘れていたことかと思いますが、今、日本人は久しぶりに、世界から見たら日本人はどうなのかということを意識していますね。そんな中、テレビで日本在住の外国ご出身の方をインタビューがありました。そのトピックの締めくくりは、今、何を一番したいか、何ができるか、という問いに対するダントツ一位、と、申しますか、誰もがそれは言った、誰もはずさなかった答えは、「祈る」でした……でした。

これは、普通の意味での現世利益、すなわち、商売繁盛、家内安全、等、を祈るという意味ではないと思います。

ただ祈る。

祈ることが何か祈りの外部にある他の目的のための手段として祈るのではなく。

祈りたいから祈る。祈らずにおられぬから祈る。

それは、世界のどこの国でも、人間というものだと思います。

> 願われて生きている真実

北陸弁の、「与わり(あたわり)」ですね…。

「ご縁と与わり」と言った場合には、多分、「ご縁」がやや共時的、水平的、いまここにいる私が、万物に支えられているという感覚になるのに対し、「与わり」は通時的真理で、垂直な関係という感覚かと思います。

(こればっかりは、一人一人の「与わり」か…というような言い方の場合、「ご縁」が万物との一体を表すのに対し、「与わり」は、この私、という個別性でしょうか。)

「与える」が動詞の能動に対し、「与わり」は受動で、体言化。

「与わりもん」は、賜物。

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