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2011年3月 3日 (木)

手が合わさる

33回忌をお迎えされるご門徒からお尋ねがありました。 
    
「今度33回忌をお勤めするんです」って近所の方に言ったら、「33回忌は最後の年忌だから、親族をちゃんと集めてお勤めしなきゃダメよ」って言われました。都合で息子が来られないので、日を改めて、もう少し親戚にも声をかけた方がいいでしょうか。 
    
    
お尋ねに関しては、「その必要はありません。どうぞご都合つく方だけで、お参りなさってください」とお答えいたしました。
近所の方は親切でおっしゃったのでしょうが、仏事に関して不安にさせるような親切・迷信って多いですね。仏事を、祟りと結びつけて考えておられるからでしょうか。
   
お亡くなりになってから、何年にもわたって、その方を偲び手を合わせる。私にとって、それだけ大切な人なのです。相手にとっても同じでしょう。祟るとか祟られるとか、そういう関係ではありません。
 
お亡くなりになって、そこで関係も想いも途切れるのであれば、ご法要をお勤めすることはありません。
でも、ご葬儀をはじめ、ご法要をお勤めしてきた歴史というのは、寺がそうさせてきたからではなくて、そういう営みをさせる想いが、人間にあったからではないでしょうか。
 
生きている私が 亡き人に対してお参りしているつもりが、
亡き人から、なにか大切な呼びかけをいただいていた。
限りあるいのち、どのように生きていますか?と。
そのことに気付かせていただくのが、日々のお内仏(お仏壇)でのお参りであり、ご法要なのだと思います。

ご法事は、しなければいけないことだからするのではなく、せずにおれないことなのです。
形式的なことをいえば、33回忌で終わりではなく、37回忌・50回忌と続きます。
しかし、手を合わせるのは、お参りするのは、常のことです。
一周忌からだんだんと年回が重たくなっていくというものでもありません。だから、33回忌だから、親族そろって最後のお送りをして、という考え方もしなくていいのです。
私といういのちが続く限り、亡き人のいのちも続いています。
私の姿を見て、手を合わせる人が相続されていく。そこに、いのちの連続性があります。始めも終わりもないいのちが。
  
その、いのちが受け継がれてきた表われのひとつが、「宗祖親鸞聖人750回忌御遠忌」です。一個人・歴史的偉人のご法要ではないのです。
御遠忌を迎える縁の中に、「南無阿弥陀仏を、教えを、人を、場を」大切にしてきた人々のいのちがあります。「今、いのちがあなたを生きている」のです。そのことを教えていただくのが、御遠忌であり、私たちの日々のお勤めでもあります。
    
年回をお勤めするということは、人との出会いがあったということ。
私が、なにを感じるかという宿題をいただくということ。一生かけて問いをもち続ける宿題を(答を出す宿題を、ではなくて)。

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