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2011年3月 1日 (火)

2011年3月のことば

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誰もが
温もりという願いの中を
生かされています

     
親が子供の名前を考えるとき、そこには願いが込められています。その願いには、温もりがあります。「願い」を「温もり」と言い替えられるのではないだろうか。そのように感じています。
 
「願い」というと、私利私欲に満ちたものが思い浮かびます。「あれが欲しい」「これはいらない」「あのようになりますように」「このようになりませんように」…誰もが「願い」を持っています。誰もが「願い」が叶うように努めます。願うことそのものは止められません。しかし、たとえ「願い」は止められなくても、私利私欲に満ちた「願い」は、その「願い」が叶うとき、悲しみに沈む人がいることを忘れてはいけません。
   
受験・就活・恋愛。行きたい学校・入りたい企業・付き合いたい人。それらが手に入るとき、そこから漏れ溢れ、悲しむ人がいます。「そんなことを言っていたら、何もできない」と思われるでしょうか。
受験で、私が受かるということは、他の誰かが落ちるということです。だからといって、受験をやめるとか、わざと落ちるように解答するなどということはできません。私利私欲に満ちた「願い」は、誰もが捨てられません。生きるエネルギーにもなります。捨てられはしないし、捨てるものでもありません。でも、「願い」が叶うそのとき、悲しみの涙が流れている事実を、感じられる私でいたい。
 
自分の「願い」が叶わないときもあります。そのとき、誰かが「願い」を叶えているのかもしれません。恨み・羨み(うらやみ)のこころが芽生えることでしょう。そのこころも忘れてはいけないと思います。恨み・羨みのこころを、「願い」が叶った誰かに向けていいと言っているのではありません。恨み・羨みのこころが芽生える私であったということを、忘れずに生きていきたい。ずっと人を恨み・羨みながら生きていく人もいるかもしれません。しかし、恨み・羨みのこころが、優しさに変わることもあります。
やましいと言われるこころを持ち合わせている私であった。そのことを知ることは、痛みを知ることであり、優しさの種を持つことでもあります。
   
「名前だって、親の欲が込められているじゃないか」と言われれば、そうですね。でも、そこ(名前)には確かに「願い」が込められている。血のかよった、温もりのある「願い」が。
「こんな子に育てた覚えはない」「こんな親の元に生まれたくはなかった」…子の成長とともに、親と子の間に確執が芽生えることもあります。縁をいただく、関係を持つということは、良い事ばかりではありません。関係を持ってしまったばかりに、つらい出来事も起こります。でも、つらい出来事は、関係を持った人との間だからこそ生じるのです。子の成長と共に、たとえ何が生じても、そこには名前で表わされた温もり(願い)が、確かにあります。生きていていいんだという証が、名前にはあります。
 
私は、私利私欲に満ちた「願い」を超えた、温もりある「願い」と共に生きています。
だからこそ、亡き人を想い、何年経っても、どんなに忙しくても時間を作って、お参りをするのではないですか。名付け親・名付けられた子の関係で語ってきましたが、その関係に限りません。名前を呼び合う仲に、温もりがあったのです。そう考えると、私がお参りしているつもりだったけれど、私がお参りさせていただいていたんだなぁということに気付かされます。いつまでも恩をいただいているのです。
   
「南無阿弥陀仏」を名号(みょうごう)と言います。「名前」です。
阿弥陀如来は、「我が名を称えよ。称えたものは救われる(あなたの救いもなしに、私の救いはありえない)」と 「願い」を建てられました。「私の名を呼んでほしい(念仏を称えてほしい)」…生きとし生けるものすべてに向けられた「願い(温もり)」を。
私は、「願い」の中に生きています。「南無阿弥陀仏」と称えるたび、阿弥陀如来の温もりに包まれて生かされていることを感じます。合わせた手を通して。
   
   
 
掲示板の人形
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コメント

今月もまた、私にとって耳の痛いお話を伺いました。
ズバリ、私の心の中を言い当てられました。
格好良いことを書いても嘘になりますので、以下、本心を書きます。
今なお、私は父親を恨んでおります。確執などということばでは言い表せないくらいの恨みです。
そして、再度の、そして本当に入りたかった大学への来年の再受験合格に向けて、まさに私利私欲の真っ只中に生きております。
私が合格すればそれでいいと思っております。
大方の受験生はみんなそう思っているはずです。自分が不合格になってもお友達が合格すれば嬉しいなどと言う人がいたら、その人はかなりの偽善者です。自分が合格するために受験勉強をしてきたのではないですか。格好つけないでもらいたい。
無理やり入学させられた大学の名前のせいで、これまで冷や飯ばかり食べさせられてきた、日陰ばかり歩まされてきた、下ばかり見させられて生きてきたことへの恨みは、他人にはわかりますまい。
クラスの、そして学校の大多数が名の通った一流大学に進む中、世に言うところの三流四流の大学に進まされ、恥と引け目のせいで、クラス会や同窓会、ひいては成人式にも出席しなかった私の思いは誰にもわかりません。
ですから、先日、鹿児島大学の学生がバスを乗っ取った事件についても、「やってしまったことについては、申し開きのしようが無いことで、きちんとけじめをつけて罪を償わなければならない、しかし、あのような事件を起こすまでに至った気持ちはわかる」というのが、私の思いです。
秋葉原でのことも同じです。
私は、秋葉原でのことを、今でも「自分がやっていたかもしれない」と思っております。誰も止める人がいなければ、おそらく同じことをしていました。
実際にはそうはしなかった。できなかった。
でも、父親への恨みは今後一生消えることは無いです。
死んでから化けて出てやろうと思っております。
今でも、人生を順風満帆に生きている人を見ると羨ましくなります。
羨ましくなるだけではなく、嫉ましくなります。ひいては憎しみを持つに至ります。
今年プロ野球の日本ハムにドラフト1位で入団した選手に対しても「いい気になるなよ」と思っております。
以上が、誉められたことも認められたことも無い、蔑まされてきた人間の一人としての正直な思いです。

もう3月になりました。
月日の流れの速さに驚いている毎日です。

私もちょうどかつさんのおっしゃるようなことを考えていました。
自分の「願い」が叶う向こうには叶わなかった誰かがいる、ということ。
だから、私は大切なことは「願う」のではなく「祈る」ようにしています。
大好きな人達の健康と幸せと未来を祈る・・・。

自分自身のことは運命のなすがまま生きていけば、と。
もうこれ以上「願う」ものもないような気がしています。
それでもどこかでだれかを悲しませているかもしれませんが・・・。
しっかりと人の心を見つめられる自分でいたいと思います。

人様のブログで、ゲストのコメントに、ゲストの身分で、コメントをつけるのは、多分、ルール違反なのですが……

私も同じようなことがあるので、本来、遠慮すべきなのですが、許してください。

> 私は父親を恨んでおります。確執などということばでは言い表せないくらいの恨みです。

私と父親との確執も本当に酷いです…。
例はあまりに私自身にとって辛く、とても、書き表せません。
父親の視界に私が入るたびに、父親は、私に超大激怒、ブチ切れます。罵詈雑言を浴びせられます。
そうなっていることから予想がつくかとも思いますが、母親は、私が幼いときから、100%父親の肩を持ち、かばってもらったことは一度もありません。二人して、私にしっちゃかめっちゃか、です。

でも、絶望して、理想論を捨ててはいけないなとは、頭では、理性では、やっぱり思いますよね。

それは、非常に困難なことで、もちろん、私も達成できていません。私はできた、だから、あなたもできる、とは、全く言えません。

でも達成できていない=理想や理念が真理ではない、とはならないですね。

人に憎しみを持つことで、苦しいのは、自分だけというのは、永遠不変の真理ですね。

また、救われるには、自分の憎しみをただ捨てるだけ、というのも、永遠不滅の真理です。

習慣、くせ、シナリオ、物語、設定ですから、変えられる、というのは真理ではありますよね。

嘘のような話なのですが、途中までタイプしたところで、両親、大激怒で、罵詈雑言を浴びせられるのに呼び出されたので、途中で送信してしまいました。

[なんと、二世帯住宅なんですよ…。もちろん、だいぶ悩んだのですが、これから両親も年寄りになっていくし、と、自分の理性、頭脳、理想、理念から、選択してしまいました…。罵詈雑言浴びてます。いつになったら和解できるのか……(^0^;)]

で、一旦、自宅(部分)に引き上げてきたので、本来、他人様のブログで、ゲストの方のコメントに、ゲストでコメントをつけるのはルール違反だとは思いつつ、続き書かせてください。

ま、今の今、両親から、ぼろっかすに言われたところなので、心情的には説得力は全くないのですが、理屈としては……


> 自分が不合格になってもお友達が合格すれば嬉しいなどと言う人がいたら、その人はかなりの偽善者です。

> 恨みは、他人にはわかりますまい

> 父親への恨みは今後一生消えることは無いです。


これらは、理屈としては、あなたやわたしの「設定」ですよね。私が同様な「設定」をしていないという意味は全くありません。私も凡人です。が、そういう上から目線ではなくて、でも、理屈から言えば、これは、そういう仮説に過ぎませんよね。別の仮説、たとえば、少なくとも法蔵菩薩さんは、あなたやわたしとは異なり、そうは思わないだろうという仮説、世の中を見る枠組み、世界観、物語、フィクションにコミットすることも、不可能ではないはずです。理屈からすると。私にとって、それは大変に困難なことではあります。全くできてもいません。私はできた、あなたもできるはず、とは、全く言いません。でも設定なのは永遠不変の真理ではありますよね。

繰り返しになりますが、そういうフィクションAを捨てて、別のフィクションBに取り替えることは、理屈としては、可能ですが、実行は、極めて困難だと思います。

例が悪いかもしれませんが、私は、次のように思います。

たとえば、あなたやわたしが、誰かをものすごく愛していたとします。けれども、相手から別れを切り出され、やむなく、会えなくなったとします。絶交されてしまったわけですね。すると、あなたやわたしは、大変に苦しむわけです。

苦しみから救われる方法は、理屈から言ったら、実に簡単ですね。

そうです。

その人を愛する事を止めてしまえばよいわけです。

が、そうすることは、極めて困難になることが有り得ます。

苦しんでいるのは自分だけ、しかも、その原因は自分だけなのに、理屈では解決方法は実に簡単なのに、実行できないことが有り得ます。

何故でしょうか?

それは、「そのひとを愛している自分」という、アイデンティティを、自分が捨てたくないからです。その人を愛しているという、習慣、物語、主観的な自分の人生の意味づけを、捨ててしまったら、自分が誰だか分からなくなってしまうからです。

苦しんでいる自分を捨てたくないのです。

もっと、正確に言うと、苦しむとか、あるいは、電話が鳴ったらもしかしたら、あのひとからの、またおつき合いしましょうという電話ではないかと勝手に思った瞬間の歓喜、等々、喜んだり、悲しんだりする、枠組みそのもの、私というものの設定を捨てられないのです。

ですから、客観的に見たらというか、仏様からみたら、なんというのか、アホなわけなのですが、実行は、本人に取っては、とてつもなく困難になることは、大いに有り得る、というのが、私の考えです。

以上、ルール破りですみませんでした。

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