« 願いの中に生きている | トップページ | 悪人正機説 »

2011年2月 9日 (水)

月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の こころにぞすむ

昨日書いたように、お寺と分かっていながらも、宗教の勧誘はやってきます。
「あなたのとこの宗教はダメだから、うちに改宗しなさい」と言われているようなものですよね。
    
ご法事の際、お施主さんは当然真宗の門徒さんです。けれど、ご法事に呼ばれる方の中には、お他宗の方もいます。お他宗とはいえ、批判を受けることはほとんどありません。批判どころか、興味深そうに本堂を見学されたり、ご法話に感動されたりします。
しかし中には、ご法事中ずっと腕を組んでいたり、明らかに法話を聞いていなかったり、お寺には来ているのに「他宗のご本尊の前にはいきません」と本堂に入らなかったりされる方がいます。
自分の宗派に対する信心の強さの表われなのかもしれませんが、他を受け入れない姿は、「おしえって、そういうものなのかな?」と思ってしまいます。
   
蓮如上人(本願寺8世)の「御文」には、他の教えを誹謗してはいけないという教え(戒め)がたびたび出てきます。
神社をかろしむることあるべからず
諸仏・菩薩ならびの諸堂をかろしむべからず
諸宗・諸法を誹謗すべからず
   
   
これら戒めとともに、「お念仏の教えや、自身の信心の話を公にすることはつつしみなさい」とも言われます。
批判もしない、かといって自分のところの話もしない。蓮如上人が言われる 念仏者の生活とは、どのような生活なのでしょう?
 
 
あるお朝事(朝のお勤め)で、先に書いた戒めのことばが出てくる「御文」を住職が拝読しました。その「御文」を拝聴しながら想いました。
 
阿弥陀の本願は、十方衆生(生きとし生けるもの すべて)にそそがれている。阿弥陀を信じる者のみを、すくいましょうというおしえではない。
誰もが すでに阿弥陀の慈悲のこころの中…相手を批判したり、自分のところの教えを誇ったりする必要などない。
「戒め」とか「誇り」とか書いたけれど、それは人間の側の事情。阿弥陀からすれば、すべてひっくるめて十方衆生。
信者としての態度について書かれた「御文」ではなく、阿弥陀の本願について書かれた「御文」だったんだ!
住職の拝読も終わり、自然に手が合わさります。南無阿弥陀仏

« 願いの中に生きている | トップページ | 悪人正機説 »

コメント

私はいい加減な人間ですから、神様や仏様はたくさんいらっしゃった方が有り難いと思っておりますし、どの神様や仏様もみんな有り難いと思っております。それぞれの教えはそれぞれみんな良いことを言っているなと思いますし、どれが正しくてどれがそうではないということもないと思っています。ですから、クリスマスにキリスト教会に御呼ばれして牧師さんのお話を拝聴したり、神社の神主さんのお話を拝聴する機会があると、行きます。みんな有り難いお話です。みんな私のこころに響くお話です。いい加減な人間と思われる方もいらっしゃると思いますが、私はこれまでずっとそうしてきました。みんな有り難くてそれで良いと思います。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 願いの中に生きている | トップページ | 悪人正機説 »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ