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2011年2月22日 (火)

それぞれの大地を、誰もが同じいのちをいきている④ 報われる

私のしたことに対して、それなりのお返しがあること…それを「報われる」と考えられているでしょうか。
   
「報」という字
左は「幸」(部首は「土」) これは、「手かせ(刑具)」を表わしています。
右は「従わせる」という意味を含みます。
 
「報」は、本来「罰を受け、従わされる」という意味です。
「報(むく)い」とも言いますね。
  
今、「報われる」というと、「これだけのことをやったんだから、それなりのいいことがあって当然」というような意味で捉えられているのかもしれない。
でも、「報われる」とは、本来の意味に帰ると、「罰を受け、従わされる」というところから解き放たれるということ。
  
「それじゃぁ、何の罰も受けていない私は、“報われる”ってことはないですね」なんて思われるだろうか。
       
○「これだけのことをやったんだから、それなりのいいことがあって当然」という想いは、「何もしてない者は、何もしてないなりのことしかなくて当然」という想いと表裏一体。
 
○私が「これだけのことをやった」ばかりに、他の人の仕事(やるべきこと)まで奪っていたなんて、思いもしなかった。
(theotherwindさんへ 『怠ける権利』をお教えくださいまして、ありがとうございます。引用してくださった文章、読ませていただきました。興味深いです)
   
「何の罰も受けてない」なんて、思い上がりでした。
 
「報われる」とは、知らないうちに作り上げていた 私の罰に気付かせていただくこと。
私さえよければいい、私は間違っていないという想いからの解放。それが「報われる」ということでした。  
 
「報恩」
恩を報(し)らされて、その恩に対して感謝…ではない。
その恩に対して、知らないうちに罪を重ねている私でした。
そのことに気付き、重ねていた罪と共に生きることが、「報われる」ということ。

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コメント

 東京の本郷にある親鸞仏教センターがやっている輪読会に参加させて頂きました。

 清沢満之先生の「万物一体の真理」。

 この真理から見ますと、たとえば、私が職に就けているというのは、私は、自分の力で獲得したもののように思っていますが、そもそも、そういう会社に通勤できるという場所に住んでいるという境遇に恵まれているということもありますし、その会社の入社試験を受けて通る可能性があるという学歴があったというのも、そうは思いたくはない気もしますが、事実でしょう。そのような学歴を得られたというのは、やはり、これもそうは思いたくない気もしますが、よくよく反省してみると、親の年収であったり、住んでいる場所であったり、という、恵まれた境遇にあったからですね。このように、ずっと考えていきますと、全ては、恵まれた境遇のおかげと考えることもできます。

(「考えることもできる」というのは、とりあえず、理屈として、という側面があるので、そう書いています。)

 そうしますと、ひるがえって、世の中の全ての人を助ける責任を負っていると、理屈としては、なりますね。平等に、お互いに、助け合うということです。

 しかしながら、実際の自分の感情というものを反省してみると、同じ会社の中、同じ建物、フロアで、ちょっと歩いていけば、血の通った人間であって、簡単に面と向かって話せて、たまには、退勤後に飲んだりもできる、そういう、毎日、顔を合わせている、身近な人間、同じ会社ですから、目的を共にしているはずの同僚に対してであっても、日々、私の心の中には……

 私は一生懸命真面目に働いているのに、あいつは、怠けている…

 というような、怒りが、毎日のように、去来しています。

 (さすがに、物凄く、プリプリ怒っているという意味ではもちろんありません。そういう気持ちが、少しのことかも知れないが、また、そのとき、私本人はそう思っているつもりではないが、しかし、よくよく反省してみると、毎日のように、実は、そのような感情が私の中に去来している、という意味です。)

 これを一般化しますと、私が思うに、人間は誰しも、心の奥底では、全くの不合理で、理屈には全然合わない幻想なのですが、よくよく反省してみると…

 <<他人は自分には得られていない、自分には分からない、何らかの秘密の幸福を享受している>>

 という、妙な、何と言って良いかうまく言えませんが、いわば呪術的な幻想を持っているのだと思われます。

 なので不公平だ。自分は無実な被害者だ。あいつらは卑怯だ……となります。

 この幻想は、よーーーく考えてみますと、人間が人間である限り構造的な幻想です。人間が人間であるための幻想です。

 ナチにとっては「ユダヤ人」がそう見えたのだと思います。

 ユダヤ人に「」を付けたのは、これは、事実に反した幻想ですから、実際のユダヤ人ではないという意味で「」をつけました。

 トイレットペーパが手に入らなくなるという根も葉もない噂が立つとします。もちろん私はそんなことに何の根拠もないことは私は知っていると思っています。市場には充分に在庫があるはずなことは私は自分をアホと思っていませんから、自分は知っていると思うわけですね。しかし、私は、でも、世の中にはそういう根も葉もない噂を信じる人もいるかもしれないから、買い占めておこうと思うわけです。ま、結局、火星からみたら、アホなわけですが、全員が、そう行動すると、一人一人は、そんな事実に反することは信じていないのに、効果effectは同じです。実際にトイレットペーパーは店から姿を消します。

 つまり、理性や知恵は役に立たない場合が、われわれの身の事実としては、ある場合があるわけです。

 自分の中に、そして多分、人間誰でも、自分は一生懸命働いているのに、あいつは怠けているという感情は、いつでもつねに、必ずあるのが、身の事実だと思います。

 繰り返しになりますが、これは、もちろん、幻想です。事実に反します。非真理です。虚偽です。けれども、そういう感情はなくせない……。

 悲しいことです。

 もちろん、だからといって、絶望して、「万物一体の真理」なら「万物一体の真理」を聞くこと、思うこと、語ること、語り継いでいくことを、止めてしまえということにはならないですね。


 悲しいとだけ言うと、寂しいので…

  <<他人は自分には得られていない、自分には分からない、何らかの秘密の幸福を享受している>>

 という幻想は、人間が人間である限り構造的な幻想なのは、人間は、自分一人では何ものでもないからですよね。人間の価値は個体に内属しないからです。

 自分の言うこと、書くことの意味、もっと正確には想定される私の意図は、言ったり書いたりする前に、私に内属しているわけでは決してなく、受け手の側にしかありません。

 私は無意味に喋りますが、受け手が、私の意図はこれこれだろうと想像してくれる。その受け手の想像の中にしか私の意図はありません。

 聞き手がいてくれて、反応があってはじめて、「そうそう、それが私が元々言いたかったことなんだよ。最初からそういう意図でした」となっているのが実相ですね。

 人は誰もみなお互いに他人から認められたい、尊敬されたい、愛されたいと思っています。つまり、人間は愛らしい存在でもあるわけですね。

 <<他人は自分には得られていない、自分には分からない、何らかの秘密の幸福を享受している>>

 という幻想は、何故、人間が人間である限り、構造的なのかと言えば、人間は自分の価値を自分一人では知らない、自分が何ものであるかを自分一人では知らないわけですから、つまり、他人は自分の意図を知っていると想定しているからです。

 つまり、他人が知っている秘密、他人が享受している幸福とは、<私>なんですね。

 愛されたい

 ということから全てはきています。

 なので、この原理が、一番、目に見えるのは、恋人同士ですね。

 「何を怒っているの?」
 「そんなことも分からないあなたに怒っているの!」

 というやつです。

 私は私が何を欲しているか知りません。人間は原理的に自己中心的にはなれません。なにしろ自分が何を意図しているのか知らないのですから、自己愛的に行動しようがないです。何が自分にとって良き物なのか、自分は何を欲しているのか知らないのですから。

 人間は根本的に利他的です。

 自分なんてないですから。

 でも、それはいやなんですね。だから認めていません。でも知っています。

 だから、自分には自分がないことを知っているから、他人が、自分が知らない自分を知っていることに嫉妬するんですね。

 でも、自分は他人に知って欲しいんです。これは、愛らしいことです。

 だから、言い訳に聞こえるかもしれませんが、自分は真面目に働いているのに、あいつは怠けている、というのは、一種、可愛いやきもちであって、愛すべき人しかそうは思わない、と原理的には言えます。

 ちょっと無理矢理に聞こえるかも知れませんが…

 言ってみたら、自分が寝ている間に、他の家族が、ケーキ屋さんでケーキ食べているのに、自分だけ、取り残されていた。自分が知らない間に、他の人が、抜け駆けしていた…という気持ちなので、かわいらしいやきもち、と言うこともできるわけです。 

 

自宅のパソコンが壊れてしまいました(><。)。。

携帯から投稿してます。

清沢満之先生のテクストの輪読会で、ほんの少し読ませて頂いただけなのですが、清沢先生は東大でヘーゲル哲学を学ばれたのではなかったかと思ったのですが、なら、葬儀について書いて頂きたかったなあ~と、ちょっと、思いました。

ヘーゲル哲学で、確か、一番人間的な行為は、葬儀、お葬式ですね、他人が亡くなったときに、まだ生きている人々が行う、宗教儀礼。

これが一番、尊い行為だったはずなんです…。

何故なら、人はみんな死にます。その事実に向かい合う、ひとつの形式だからなんですね。

死は自分が経験できない(経験するときには死んでますから)、理解できない究極のもの、不如意の最たるものです。

そこに、葬儀という形で、自分もまた死んで行くものとして参加するわけです。

葬儀は自分たちが、事実としては、自分たちの自由意思で、亡くなった方を殺したわけではないのに、葬儀という形で、人はみんなつながっているから、あたかも自分たちの責任であるかのように、亡くなった方の死に参与する儀式。
否、正に、他人の死に、自らも死んでいく者として、責任を取る、我々は罪人だと、取れるはずのない責任を引き受ける行為だと言うんですね。

全宇宙の全生命に責任を取る行為がお葬式だと。

死を象徴的に反復する行為。

だからお葬式で初めて泣くとか、改めて、みんなで泣くとかは、理にかなっいるんです。
動物じゃなくて、人間として死ぬのは、お葬式なのであって、お別れをするのはお葬式だからです。
いいなあ、哲学。

哲学の極北。最高潮なのに…。

清沢先生には、是非、葬儀について書いて頂きたかった…。

清沢先生ご自身が、長生きされたら、書いて頂けていたのではないかと思うと残念です。

そうしたら、葬式不要論なんて、簡単に論破できたのに…

携帯電話からの投稿には物凄く無理がありました…。すみませんでした。

 父のパソコンを借りました。キーボードが違うのでタイプミスが大量に発生してしまい、これはこれで全然思うようにタイプできません(T_T)。が、少しはましです。

 現時点のWikipediaから

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 アンティゴネー

 アンティゴネー(Antigone, 希:Ἀντιγόνη)はギリシア神話に登場するテーバイの王女。長母音を省略してアンティゴネとも表記される。父はオイディプース、母はその妃で母親のイオカステー。

 あらすじ

 父オイディプースが自分の出生の秘密を知り、目を潰した後、イオカステーの兄弟クレオーンに追放されると、妹イスメーネーとともに父に付き添って諸国を放浪した(ソポクレース『コロノスのオイディプス』を参照のこと)。

 父の死後、テーバイに戻ったが、兄の1人、ポリュネイケースは隣国の助けを借りてテーバイの王位を取り戻すべくテーバイに攻め寄せてくる(アイスキュロス『テーバイ攻めの七将』)。しかし、闘いむなしく、テーバイの七つの門に攻め寄せた軍は悉く打ち破られ、ポリュネイケースは兄弟エテオクレースと相討ちで戦死。

 クレオーンは反逆者である彼の屍を葬ることを禁じるが、アンティゴネーは自ら城門を出て、市民たちの見ている前でその顔を見せて兄の死骸に砂をかけ、埋葬の代わりとした。そのため彼女は、クレオーンによって死刑を宣告された。アンティゴネーは牢で自害し、その婚約者であったクレオーンの息子ハイモーンもまた自刃した。

 論説

 アンティゴネーはギリシア悲劇の題材とされ、ソポクレース『アンティゴネー』が最も著名。

 アンティゴネーの悲劇は、兄への弔意という肉親の情および人間を埋葬するという人倫的習俗と神への宗教的義務と、人工的な法律の対立から来るものである。哲学者ヘーゲルは『精神の現象学』の人倫(Sittlichkeit)の章にて、アンティゴネーを人間意識の客観的段階のひとつである人倫の象徴として分析している。

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 男性の掟があって、それは政治というか、戦争ですね。多分、言ってみたら国民皆兵なのではないかと思います。国民と言っても男性だけでしょうが。あるいは、もっと言ったら、さすがに他国を侵略して、奴隷にしたり、食糧などを奪ったりする軍隊だけが空中に浮いているわけはないので、奪うことができるためには奪われる人がいないといけませんから、男性でも奴隷はいないといけない理屈でしょうから、直接民主制と言っても男性だけ、かつ、一国の人口の2割とだけが参加でしょうね。で、戦争をするだけのために国家が存在している、戦争をするためだけに男性は生きている。これは、そういう支配階級の男性がみんなで決めたことで、直接民主制なのだからというよりも、まあ、そもそも近代的自我というものが元々成立していませんから、私の考えとか、自我とか、心理とか、内面というものが、元々ないので、原理的に、自分はやだなぁとか、個人的には反対なんだけどとか、思いようもない、別の考えがあるということがあり得ずに、戦争しています。戦争機械、ウォーマシンというやつです。お国のために死ぬためだけに生きている。殺すために生きている。それ自体は無意味であるところの掟のロボットですね。自我も個人もそもそもないので、表現が難しいですが、何個人として理由とか意味が有って戦争しているわけではないです。

 けれども、そういう男性の掟だけが掟としてあるのではないのですね。そういう男性の掟とは別に、あるいは、その裏側にというのか、表裏一体というのか、裏打ちしている掟があります。いわば女性の掟なのですが、血族の掟というものです。

 人間が何か現実に働きかけるより前に、人間にとっての現実に現実化させておくことが、論理的に要請されます。人間にとっての現実になっていないもの、実体化されていないものに、人間は働きかけることはできません。(実体化されていないものってなんだよ、と言われると、それは人間の認識の外部になってしまいますので、言語化されていないものは、説明できないわけで、まあ、強いて言うと虚無でしょうか。ないのも同然というか、人間にとっては、原理的に、ないものの現実化、実体化というのは、無から有への創造のフリ、真似、制作でしょうか。単線的な原因→結果という文法では説明がほぼ不可能ですが。)

 人間が働きかけることのできる、人間にとっての現実は、いつでも、つねに、すでに、あらかじめ、人間にとって、実体化、物質化、現実化された現実だけです。

 ですから人間社会が人間社会となる、最初の行為、人間社会の起源は、葬儀です。お葬式。宗教儀礼です。

 ま、言ってみたら、動物は、不可解にポックリいってしまい、そこに、意思がが働きかける余地はないと考えることもできないこともないですね。自然発生的な現象。認識の外部。認識不可能。行為に無関係に自然死。行為の結果ではないので認識できないため、死は存在しないのと同じです。その意味では動物は死にません。

 人間社会が人間社会になった起源、はじまりは、お葬式です。

 これは、まあ、確かに、いままで生きていたものが、不可解に、止まってしまうというのは、人間の認識、知覚、理解の範囲外ではそういうことは、起きている、火星人から見たら、人間は死んでいるのだと、空理空論では、言えないことはないでしょうが、それは、認識不可能ですので、空語にしかならないので、こういう起源神話というのは、言語化が難しいのです。

 発見される前から無人島は外在していたというのは、空理空論、証明不能、形而上学です。それは妄念というか幻覚。人間にとっては、無人島を発見した瞬間に、初めて、その無人島が実体として外在を始めるわけで、発見以前から、その無人島があったなどという考えは、非論理的です。

 お葬式というのは、人はみんなつながっている、人はみんないつか死ぬ、自らも死ぬものとして、参列して、生きとし生けるものはみなつながっているので、われわれがある人の死に責任を持つ、血縁共同体というフィクションの中に、死者を入れてあげるという身振り、ふり、まね、形式です。

 お葬式という儀式は、あたかも、われわれの行為、儀式、形式を原因として、お葬式というわれわれの行為の結果としてその人が死んだと、その人の死を象徴的に反復して、ある人の死が自分たちの行為の結果であるかのような真似、ふりをするという形式です。火星人から見たら、すでにおきてしまっていることをタイムマシンで巻き戻して、もう一回、お葬式という儀式で、みんなの行為で、象徴的な死を反復しなくたって、あたかもある人の死が自分たちの行為の結果として、自分たちで、ある人の死に責任を取るという形式を取らなくたって、物理的には先に現実に死んでいるじゃないか…と言えないこともないのですが、それは言ってみただけで、純粋な抽象、純粋な観念、形而上学にすぎません。お葬式というフリ、真似、形式がなければ、人間は死にません。

 で、男性の支配階級の、ただ戦争するために生きている、これは、また別の観点からは一般と言うのですが、男子たるものお国のために死ね、という形式(というのは、掟はそれ自体としては無意味なので、形式と言います。理由があって服従しているわけではないです)は、個人ではなくて、「男子たるもの」一般だからです。男はみんな何処を切っても金太郎飴なので、自律の個人ではないわけですね。全体として戦争機械なわけです。おいそこの二等兵というわけで、名前とかどうでもよいです。実際に、全員、同じですし。

 一方で、女性からすると、自分の息子とか、自分の兄とかというのは、男一般ではないです。やや個別的です。ある程度は、かけがえのない存在(まあ、お姉さんが若くして死んでしまったら、妹が、お姉さんの旦那さんと、自動的に結婚するとかを考えたら、そういう意味では、かけがえは、ありまくり、ではあります。ただ、カテゴリーがやや個別的。)。名前とか大事なわけですね。ですから、言ってみたら、ちゃんと名前を過去帳に書かないといけません。個人というのとはまた違う概念ではありますが。

 国家=戦争機械の掟と表裏一体な別の掟が、血族の掟であって、家族の掟ではないのは、血族のメンバのほとんどが死者だからですね。家族という言葉ですと、なんだか生きている人だけのようなニュアンスになってしまいますが、血族というのは、伝統の系譜です。

 で、国家の掟で、こいつの葬式はしちゃだめ!というのは、国家の掟としては完全に正しかったのですが、血族の掟には完全に反していたというのがアンティゴネーのお話。個人という概念なんてない時代の話なので、国家対個人の対立ではないです。アンティゴネーさんは、血族の掟に従ったまでで、肉体化された掟です。掟と掟が対立しました。

 あくまでも、精神というのは、実体であり、現実であり、実在であり、人間の内面にあるのではなくて、人間の外部に実体として実在する機械です。心理とか内面とか、本当の私とかいった、幻想ではないです。形式です。内容つまり意味ではなくて、無意味な掟です。

 二つの掟の対立の結果、両方が没落しちゃったんですね。

 アンティゴネーさんの婚約者がクレオーンさんの息子さん、つまり後継者だったのですが、アンティゴネーさんが死んだので息子さんも自殺してしまいます。血筋が途絶えちゃったんですね。もっと言うと、息子が自殺しちゃったのでクレオーンさんの奥さんも自殺。

 で、血族の掟のことを神々の掟とも言いますが、そうとらえると、まあ、男性の支配階級だけを、そう呼んでよいかどうかはありますが、国家の掟は、人間の掟とも言えますね。

 なので、エンゲージド・ブディズム、仏教の社会参加というようなことが言われますが、人類社会の長年の知恵と言いますか、人類社会が人類社会である、起源としては、最大の社会参加は、葬儀です。

 もちろん、ほかのエンゲージド・ブディズムをやった方が、念仏を称えられるのであれば、やるなという意味は一切ありませんが。結婚した方が念仏を称え易いなら結婚して念仏しなさい、独身の方が念仏を称え易いなら結婚して念仏しなさい、と言いますね。ですから、仏教者だからという理由で、葬儀以外の社会参加をしてはいけない、まで言うと、それは言い過ぎとなります。

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