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2011年2月23日 (水)

それぞれの大地を、誰もが同じいのちをいきている⑤ びょうどう

「平等」の「等」…「等しい」という字ですね。
「等しい」というと、「イコール」という感覚を持ちます。
でも、本当に「イコール」ならば、「同じ」といえばいいのです。
つまり、「等しい」とは「同じ」ではないのです。
    
「平等」とは、「平らに等しい」とでも読めましょうか。
私たちは「平等」を望みます。「平等」を大切にします。
突出して蔑まれる者、貧しい者がいないように。
(ということは反面、突出して敬われる者、富める者の存在も認められないという想いが内包しています)
誰もが同じ環境・条件・境遇の中を生きられることを「平等」ということばで表わしているのでしょう。
     
でも、実際はそうなっていない。いえ、実際にそうなっては困るのです。私の想いは。 
   
「平等」の意味を本来に帰って考えると、「平らに等しい(ということは同じではない)」という意味を表わしていることに気付かされます。
私たちは「平等」を望みます。「平等」を大切にします。
といいながら、認められない。
「平らに等しい」大地を生きたいと望みながら、よくみると凸凹の大地を望んでいる。作っている。
  
「びょうどう」という漢字を、「平同」ではなく「平等」としたところに、私たちの生き様がリアルに表現されているような気がします。
  
  
もしある朝目を覚ますと、全ての人間が同じ人種、同じ宗教、同じ肌の色になっているとしたら、
我々は正午までに別の偏見のタネを捜し出すことだろう

ジョージ・エイケン

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コメント

2月19日の求道会館親鸞講座にて、蓑輪秀邦先生が、次のように仰っておられました;

親鸞聖人という方は、面白い方でしてね、『正信偈』というのがあるんですね。
 
 凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味

 凡夫も聖人も五逆も謗法も、ひとしく大海に回入すれば、もろもろのみずの、うみにいりて一味なるがごとし

 という言葉があります。これ同朋社会というものの一番大事なところを押さえておられるんですね。

 金子大榮先生という方が仰って、あ、そうかと思ったんですが、「斉」には、ま、ひとしいんですけども、「斉下」と「斉上」があると。こう仰るんですね。これはどういうことかというと、「斉下」というのはね、下の方がひとしいんです。言ってみたら。みんな違うんです。みんな背の高さが違う、みんな特徴がある、だから、頭の良い人、悪い人、意地悪い人、非常に正直な人、これは性格だけではないです。人生の生き方もみんな違う。同じ人間なんていないですね。それを同じ人間にしてしまおうとするならば、「斉上」なんです。ひとしいということは下においてひとしいんです。どんな人間もみんな性格は違う、生い立ちも違う、人生も違う、考え方も違う、全部違うけども、それは、一つの大地に生きている。大地です。命の根源のところで、全部共に生きているんですね。これを、「根帯」という言葉があります。根を一つにする。だからこのひとしいというのは「根帯」なんです。
 
 そうすると親鸞聖人がいつもですね、仏法を頂いた人にとって一番大事な心は懇ろなる心だと、こう仰いますが、念仏者は懇ろなる心を頂いた人だと。

 もとあしかりしわがこころをもおもいかえして、ともの同朋にもねんごろのこころのおわしましあわばこそ

 「懇ろ」というのは、これ「ねもころ」というんですね。「根も凝(こ)ろ」という言葉から出てきていると言われます。「根も凝(こ)ろ」というのは、土を掘って、根っこを、土の下の、地下の世界を見ると、バラの花の根と、キクの花の根は絡んでおるんですね、みんな。バラはバラに咲き、キクはキクに咲くんだけれども、地中ではその根が、みんな絡んでいる。絡み合って一つの命に生きている。つまり養分を吸い、「お前は吸ったらあかん」といってですね、他のものを排他するんではなくて、全部が共に生きている世界。ねもころな世界、これを連帯と言いますね。だから、ひとしいというのは、「ねもころ」の「根帯」の世界を言うんであって、「斉上」というのは逆ですね、上の方が一緒、下の方が違うということになりますと、これは、喧嘩になる世界です、これは。頭が一緒ということは。みんな偉くなりたい。位も全部一緒にならなきゃならない。そうじゃないですね。人間というのは、やっぱり人から尊敬されて生きる人もいるし、馬鹿にされて生きている人もいる。それを一緒にすることがひとしいということではないですね。みんなそれも特性です。だけど、馬鹿にされたものも、尊敬されているものも、下において、大地において、結びつけられる。これが、「斉下」ということこそ、ひとしいということ。大地に生きるものとしての、そこに共に生きているという、根を共に生きているという懇ろなる心を持ったものの集まりを「同朋」だと。同朋社会と言う形で、言われているのではないか、と。ま、こういうことが考えられるわけでありますが、

それをですね、これはあの『教行信証』の中にですね、こういう、言い方がございます。

 諸仏世尊、もろもろの衆生において、種姓・老少・中年・貧富・時節・日月・星宿・工巧・下賎・僮僕・婢使を観そなわさず。

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 「斉上」「斉下」という言葉は、初めて聞きました。出典は分かりません。

> いえ、実際にそうなっては困るのです。私の想いは。

 残念ながら、私も、自分の中に、そういう気持ちがあると思います。
 
 人間、自分はなかなか良い奴だな等思いたいものだと思います。

 そのときに、ただそう思えれば良いのですが、必ず、誰かと比較して、あいつは○○だが、自分は違う、という考え方をどうしてもしてしまいます。

 恐ろしいのは、この考えは、事実では一切反証できない、原理的に事実は全く無関係ということです。

 たとえば、第二次世界大戦直前のドイツを想像してみます。お隣さんがユダヤ人の家族でした。非常に良い人たちだなぁと思っていました。ところが、ある日から、ユダヤ人は狡猾で、自分の不幸の全ての原因はユダヤ人にある、という観念が出てきた途端に、これまで、お隣さんは良い人だなぁと思っていた、その根拠となっていた全ての事実が、今度は逆に、ユダヤ人の狡猾さの根拠になってしまうわけです。ああして、謙虚なふりをしている、演技している、正にそのことが、ユダヤ人の限りないずるがしこさ、陰険さを表していると、自分の主観的な想像だけによる「意味」の現象、表現として、意味づけされ、認識され、理解されてしまうわけですね。

 人間にとって、「意味」の全ては主観的な意味づけ、つまり、いつでもつねに、偏見以外のなにものでもないため。

 そうすると、人間は、原理的に絶対に、偏見の外部には解脱できませんので、結局、人間にできることは、物語Aにコミットするか、物語Bにコミットするか、つまり、幻想Aを幻想Bに取り替えることしかできません。幻想の外には出られないので。

 先人には、真宗という物語にコミットして、生き切った人々はいらっしゃると思います。

 が、それは、何か、即身成仏したりはされてはおられないと思います。

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