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2011年2月

2011年2月28日 (月)

親鸞さまがおわします⑬

【第13回 おしえと人と場】
   
苦悩を無くすべく修業に努めていた善信(親鸞)
苦悩を抱えたままで生きていける道を説く源空(法然)
求めていたものと全く正反対の方向に道が開かれていたことに善信は驚きを感じます。阿弥陀如来を信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を称える 源空上人の姿を見て、「この人についていこう」と決心します。上人との出遇い、念仏との出遇いの喜びを、善信は語ります。
  
法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう
(たとえ師 法然上人にだまされて、お念仏を称えて地獄におちたとしても、後悔はありません)
 
源空上人が話を説く吉水の草庵には、多くの民衆が集まりました。
狩りをする者、漁をする者、その家族の姿が多く見られました。自分たちが生きるために、他のいのちを奪わなくてはならない。誰もがそうなのですが、実際に自分の手でいのちの温もりを感じている者にとって、その罪悪感は比べ物になりません。
他のいのちを奪う葛藤や苦悩を、聞いてくれる人も場もありませんでした。比叡の山で修行をするということは、家族や生活を棄てて山に入るということです。しかし、家族を棄てて山に入るわけにはいきません。結局、葛藤や苦悩を抱えたまま、日々の生活を送っていました。そのような人々にとって、源空の草庵は、まさによりどころでした。
実際、源空の草庵に集るのは、狩猟を生業とする人たちばかりではありませんでした。日々の生活の中で苦悩を抱え、よりどころのないままに生きてきた人々が、源空のもとに集りました。狩猟を生業とする者や民衆だけでなく、武士や貴族も足を運んでいました。身分・貧富・性別・年齢の別を超えて、源空のもとに集りました。その中に、後に善信の妻となる 恵信尼の姿もありました。
  
阿弥陀如来を信じ
南無阿弥陀仏と念仏を称える衆生を
阿弥陀如来はおすくいくださいます  (源空上人)
  
日々の生活の中でできる行、お念仏。
おしえの内容のすばらしさもあったでしょうが、何よりも、多くの罪悪を作りながら生きている自分でさえも、受け入れてくれるおしえ、人、場があった。そのことの感動に、人々は惹きつけられたのでした。
 
しかし、源空上人が説かれるおしえを、よくは思わぬ人々もいました…。

2011年2月27日 (日)

孤悲に孤悲して

ブログには、どのようなことばを検索して辿り着いたのかが分かる機能があります。当ブログに「孤悲」で辿り着いてくださった方がいます。5年半前に書いた文章です。「恋」という字は「孤悲」と書いていたと知り、その感動を書いたものです。久しぶりに読み返しました。以下に再び載せさせていただきます。

   
   
万葉の昔 「恋」を「孤悲」と書いていました

ひとり(孤)さみしく あなたを想う 悲しい気持ちです

恋をして わたしを想ってくれる人と出会い さみしさなんてなくなるはず
なのに ますます さみしく 悲しく想う
孤悲の気持ちがわたしを覆う

いつも いつまでも 一緒に居たい
ひとり 悲しい想いが 切なくて

気持ちがあたたかくなるときもあれば
さみしくて 悲しいときもある
どちらも「孤悲」

うれしい 腹が立つ かなしい 楽しい
好き 嫌い 愛しい 憎い

感情はさまざまな想いがごちゃ混ぜになっている
孤悲をして、うれしくて 悲しくて 楽しくて 愛しくて だけど憎いことも
腹が立って、嫌いで 憎くて うざくて だけど愛しい

ひとつの感情に ひとつの性格だけならどんなに気持ちが楽だろう
ひとつの感情に さまざまな想いが同居している だからいつまでも悩んでしまう

でも、
ひとつの感情に ひとつの性格だけならば、
 人は誰とも生きてはいけない
  誰かと居てうれしくても、うれしさは続かない
  腹が立って人を遠ざけて、気付いたらひとりぼっち 
  哀しさがわたしを覆った後
  楽しくない現実に出会う

ひとつの感情に さまざまな想いが同居している 
 だから人は誰かと生きていける
  誰かと居てうれしくて、腹が立って、哀しくて、でも楽しくて、
  憎さの中に愛があり 愛の中に憎さがある
  優しさの中に憂いがあり 憂いの中に優しさがある
  濁った心に清流が流れ 清流の中に濁りは取り込まれる
 
さまざまな感情があるようだけれど 実は感情ってひとつだけ
ひとつだけの感情に さまざまな想いが詰まってる

孤悲しい…
「悲」という字は、心を両手で引き裂いている様を表わしています
うれしさも かなしさも 心引き裂かれるほどの 想いの 表われ

2011年2月26日 (土)

たからもの

ある晩、娘(2歳)がゴミ箱でガサゴソ探し物をしています。
「なにしてんの?」と尋ねると、
「あったー」と言ってゴミ箱から葉っぱが5枚ついた枝を取り出しました。
その日の昼間、境内を一緒に掃除中に、娘が拾って持ってきたものでした。枝も葉も乾き始めたので、私が捨てたものでした。
 
ある朝、「(境内の)掃除に行くよー」と娘を誘うと、「パパこれ持って」と、ドングリを持ってきました。
自分が着ているものにはポケットがないので、パパのジャンパーのポケットに入れておいてというのです。
ドングリは、昨秋、近所で拾ってたものです。今でも大事にしています。 
 
その人にしか分からない大事・大切なものってあるものですね。
お金や資源など普遍性のある貴重品を「たからもの」というのではなくて、その人にしか分からない想いが一緒に込められているからこそ「たからもの」なんだろうな。
 
娘よ、勝手に「たからもの」を捨ててごめんね(なんて書きつつ、葉っぱのついた枝は捨ててしまいましたが)。

2011年2月25日 (金)

暖かな一日でした

今日、東京は暖かな一日を迎えました。
春一番も吹いたそうです。
 
暖かい日和
晴れた空
境内の紅白の梅が、きれいに咲いています。
      
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明日からしばらく寒い日が続くそうです。
季節の変わり目、お体お大事になさってください。

2011年2月24日 (木)

それぞれの大地を、誰もが同じいのちをいきている⑥ 平同感

平等を望みながら、平等を嫌う心を持ち合わせている私
平等を望みながら、平等だと不快な思いをする私
誰もがすくわれると説く教えが、受け入れられないはずです。
       
えらび きらい みすてる
そんな生き方をしている私。そんな生き方しかできない私。
  
えらばず きらわず みすてず
私たちをすくおうと誓いを立ててくださった阿弥陀如来(法蔵菩薩)
 
「えらび きらい みすてる」生き方をしている自己に直面すると、
「えらばず きらわず みすてず」なんてことは信じられないだろうか。
   
いえ、
「えらび きらい みすてる」生き方をしている自己に直面したからこそ、
「えらばず きらわず みすてず」に包み込んでくださっていたはたらきに出遇えるはず。
   
「えらび きらい みすてる」心を捨てる必要はない(そんなことはできない)。
でも、
「えらび きらい みすてる」私でしたと痛切に感じる心を失ってはいけない(なぜか こっちは簡単に捨ててしまえるのです)。
    
痛切に感じられた心とは、「自分こそ正しい」という思いが破れた心。
「自分こそ正しい」という闇が、「えらび きらい みすてる」平等を作り出していた。
    
「平等」(平らなようで、平らでない)を作り出している私に、
「平同」(誰も選ぶことなく 誰も嫌うことなく 誰も見捨てることもなく)のはたらきが届いていました。
南無阿弥陀仏
(了)
   
    
   
(ちょっと つぶやき
2月19日に書いた「平等感」  単発のつもりで書いたのだけれど、いただいたコメントのおかげで、想いを超えて いろいろと考えさせていただきました。毎日お読みの方はお気づきと思いますが、2月19日の「平等感」から今日の「平同感」まで、内容(想い)はつながっています。
私は、「自分こそ正しい」なんて思いながら文章を書いてはいません。このブログで教化しようとも考えていません。親鸞聖人のおしえに出遇わせていただいた者が、日々の想いをつぶやいているだけです。
読まれて、納得できないこと 不愉快なこともあるでしょう。でも、納得できること、耳障りのいいことなら、わざわざブログや寺報でつぶやく必要もありません。
「そういう考え方もあるかな」「ちょっと こころに引っかかるな」というふうに思ってもらえたら…そのような想いで書いています。
なんて書き様が、「“自分こそ正しい”ところに立ってるじゃないか!」と指摘されてしまえば、返す言葉もありませんが。
思い立って、2月になってから出来るだけ毎日更新しています。ですが、以前はコメントのひとつ一つに返事をしていましたが、返事はご勘弁ください。コメントは きちんと読ませていただいています。コメントをくださり、つまりは私の文章を読んでくださり、ありがとうございます。

2011年2月23日 (水)

それぞれの大地を、誰もが同じいのちをいきている⑤ びょうどう

「平等」の「等」…「等しい」という字ですね。
「等しい」というと、「イコール」という感覚を持ちます。
でも、本当に「イコール」ならば、「同じ」といえばいいのです。
つまり、「等しい」とは「同じ」ではないのです。
    
「平等」とは、「平らに等しい」とでも読めましょうか。
私たちは「平等」を望みます。「平等」を大切にします。
突出して蔑まれる者、貧しい者がいないように。
(ということは反面、突出して敬われる者、富める者の存在も認められないという想いが内包しています)
誰もが同じ環境・条件・境遇の中を生きられることを「平等」ということばで表わしているのでしょう。
     
でも、実際はそうなっていない。いえ、実際にそうなっては困るのです。私の想いは。 
   
「平等」の意味を本来に帰って考えると、「平らに等しい(ということは同じではない)」という意味を表わしていることに気付かされます。
私たちは「平等」を望みます。「平等」を大切にします。
といいながら、認められない。
「平らに等しい」大地を生きたいと望みながら、よくみると凸凹の大地を望んでいる。作っている。
  
「びょうどう」という漢字を、「平同」ではなく「平等」としたところに、私たちの生き様がリアルに表現されているような気がします。
  
  
もしある朝目を覚ますと、全ての人間が同じ人種、同じ宗教、同じ肌の色になっているとしたら、
我々は正午までに別の偏見のタネを捜し出すことだろう

ジョージ・エイケン

2011年2月22日 (火)

それぞれの大地を、誰もが同じいのちをいきている④ 報われる

私のしたことに対して、それなりのお返しがあること…それを「報われる」と考えられているでしょうか。
   
「報」という字
左は「幸」(部首は「土」) これは、「手かせ(刑具)」を表わしています。
右は「従わせる」という意味を含みます。
 
「報」は、本来「罰を受け、従わされる」という意味です。
「報(むく)い」とも言いますね。
  
今、「報われる」というと、「これだけのことをやったんだから、それなりのいいことがあって当然」というような意味で捉えられているのかもしれない。
でも、「報われる」とは、本来の意味に帰ると、「罰を受け、従わされる」というところから解き放たれるということ。
  
「それじゃぁ、何の罰も受けていない私は、“報われる”ってことはないですね」なんて思われるだろうか。
       
○「これだけのことをやったんだから、それなりのいいことがあって当然」という想いは、「何もしてない者は、何もしてないなりのことしかなくて当然」という想いと表裏一体。
 
○私が「これだけのことをやった」ばかりに、他の人の仕事(やるべきこと)まで奪っていたなんて、思いもしなかった。
(theotherwindさんへ 『怠ける権利』をお教えくださいまして、ありがとうございます。引用してくださった文章、読ませていただきました。興味深いです)
   
「何の罰も受けてない」なんて、思い上がりでした。
 
「報われる」とは、知らないうちに作り上げていた 私の罰に気付かせていただくこと。
私さえよければいい、私は間違っていないという想いからの解放。それが「報われる」ということでした。  
 
「報恩」
恩を報(し)らされて、その恩に対して感謝…ではない。
その恩に対して、知らないうちに罪を重ねている私でした。
そのことに気付き、重ねていた罪と共に生きることが、「報われる」ということ。

2011年2月21日 (月)

それぞれの大地を、誰もが同じいのちをいきている③ 思えば

「一生懸命がんばっても報われない、ほめられない」と零すけど、
一生懸命頑張れるように、そうさせてもらってたんだなぁ。
 
報われるため、ほめられるため じゃなかった。

2011年2月20日 (日)

それぞれの大地を、誰もが同じいのちをいきている② なにを学ぶか

昨日の文章を書いてから、昔書いた文章を思い出していました。加筆訂正して、あらためてアップさせていただきます。
 
   
   
境内の掃除をしていたら、3匹のアリが、自分たちの何倍も多きなイモ虫を運んでいました。
巣が近づくにつれて仲間のアリたちが寄ってきて、イモ虫の周りが真っ黒になるくらい大勢のアリが、巣まで運んでいきました。
それぞれのアリを観察していると、一生懸命運ぶアリ。手伝っているんだけど、みんなと違う方向に引っ張るアリ。近くまで来るものの加勢しないアリ。まったく我関せずといったアリ。いろいろな個性があります。
    
聞いた話では、アリは「8:2」の比率で、「はたらくアリ:はたらかないアリ」がいるそうです。
(読む資料によって比率はいろいろです。「7:3」と書いたものや、「7:2:1」で、「よくはたらくアリ:まぁまぁはたらくアリ:はたらかないアリ」なんて細かく書いてあるものもありました)
     
これからが面白い話なのですが、「8:2」のアリの中から、「はたらかないアリ」を取り除く実験をしたそうなのです。どのような結果が出たと思いますか?
   
はたらかないアリを取り除いたのだから、みんなはたらくアリばかりになるだろうと思ったら、ちゃんと2割の比で、はたらかないアリになったそうです。
生き物にはちゃんと役割があるんだなぁと思いました。人間の世界では、はたらけることがいいことで、はたらけないことはいけないことと思われています。
だから、「あいつらは役にたたない」なんて理由にもならない理由でホームレスと呼ばれる方々が襲撃を受け、時には殺されてしまったりします。
病気や老齢で、はたらけなくなったり寝たきりになったときに、周りの人間はその人のことを迷惑だと思ったり、本人は自分の存在を否定してしまいます。
 
「8:2」の、「8」でなければいけないという思いが、いつの間にか誰にも植えつけられているのではないでしょうか。「8」には「8」の、「2」には「2」の役目があるのに。
 
ある学校の先生が、ご自身のコラムに、このアリの例えを書いていました。
「人間はアリとは違うのだから、キチンと目標を持って、努力することが大事です」と書いてありました。
たしかに、学校の先生はそのように言わなければいけないでしょうね。「“2”でいいんだよ」なんて、言えないのでしょう。(すいません、コラムの否定しているわけではないんです。ただ、「そうなのかなぁ?」って思ったのです)
「2」も大事な役目があるのではないでしょうか。その「2」を取り除く教育を、学校でも職場でも、もしかしたら家庭でもしているのではないでしょうか。
      
私は、アリの話を初めて聞いたとき、アリも人間も同じだなぁって思いました。
「8:2」がなんの比率であっても、「はたらき者:はたらかない者」、「善:悪」、「社会の規律を守る者:守らない者」・・・「2」を取り除けば人間世界ははたらき者ばかりで、善人ばかりで、規律を守る者ばかりになるかといったら、やっぱり「8:2」の比率に戻ってしまう。それは、「2」にも役割があり、必要だからなのだと思うのです。
はたらき者ばかりで、善人ばかりで、規律を守る者ばかりの世の中は暮らしやすいだろうなと思っていたら、きっと人間社会が動いていかなくなると思います。きっと、窮屈なことでしょう。きっと、今よりも争いが増えることでしょう。
 
人には、その場、その環境において、今のわたしという役割がある。
いのちの意味・輝きがあることを、アリから教えていだきました。

2011年2月19日 (土)

それぞれの大地を、誰もが同じいのちをいきている① 平等感

「頑張ったものが恩恵を受け、頑張らないものは何も恩恵を受けない。それが平等でしょ」
と言われたことがある。
  
確かに、それが普通の感覚なのだと思う。
「こんなに頑張ってるんだから、報われて当然」
「どうして何もしていない人が良い思いをするの?」
そういうふうに思ったことは、多々ある。
    
働きもののアリは、寒い冬を乗り越え、
遊び続けていたキリギリスは、寒い冬に、飢え 凍え死んでしまう。
頑張った者が報われ、なにもしない者は報われない。それでこそ平等。
   
でも、そういうことを果たして “平等”っていうのかな。
頑張っている人も、頑張っていない人も、同じ恩恵を受けてこそ、“平等”というのではないだろうか。
   
アリがキリギリスを恨むことも、羨ましいと思うこともなく、
キリギリスが「遊んでいたのに、申し訳ないなぁ」と萎縮することもなく、
寒い冬を乗り越えることができました。
めでたし めでたし  

そういうことが “平等” なのではないだろうか。 
そんなことを、ふと想いました。

2011年2月18日 (金)

仏の顔も三度

昨日、お釈迦さま涅槃のお姿「頭北面西右脇臥」を書いたとき、お釈迦さまの母国滅亡についても触れました。そのときのエピソードを由来として、「仏の顔も三度」という諺ができました。
ブログには、どのようなことばを検索して辿り着いたのかが分かる機能があります。当ブログに辿り着く検索ワードで多いのが「仏の顔も三度」「仏の顔も三度まで」です。
以前も、そのエピソードについて書いたことがあるのですが、加筆訂正して、あらためて書かせていただきました。以下の文をご覧ください。
  
   
   
「枯れ木でも親族の木陰は涼しい」は、お釈迦さまの ことば です。
   
お釈迦さまがお生まれになった国カピラヴァスツは、隣国のコーサラ国に滅ぼされてしまいます。夏の灼熱の盛りだったといわれています。
お釈迦さまは、自分の生まれた国が滅ぼされそうになっていることを知り、駆けつけます。
コーサラ国の兵士がカピラヴァスツに向かう 街道沿いに立つ枯れ木の下でお釈迦様は座されます。兵の行く手を阻むかのように。
兵士の先頭に立つコーサラ国の王は、お釈迦さまの姿を見つけると、声をかけます。
「世尊(お釈迦さま)よ、どうぞ日が当たらない森の中で座禅をなさってください」と、暗にその場から去られることをすすめます。
しかしお釈迦さまは静かに応えます。
「王よ、枯れ木でも親族の木陰は涼しいものですよ」
その ことば を聞いた王は、兵をコーサラ国に返します。
    
枯れ木に、日陰を作り出す繁った葉はありません。ありませんが、どんなに枯れてしまっていても、親族の木陰、世話になったものの作り出す木陰は涼しいものである。
お釈迦さまは母国の滅亡を感じられていたのだと思います。今にも滅びてしまいそうな わが故郷。たとえ滅びてしまっても、故郷・親族・ご縁をいただいたものは、私を守り育ててくださった大切なものに変わりはない。それらの縁によって、今の私があるのだから。
そのような想いが「枯れ木でも親族の木陰は涼しいものですよ」の ことば には含まれていると思います。コーサラ国の王も、ことば の意味を汲み取り、兵を返したのでしょう。
   
その後、コーサラ国の王はカピラヴァスツ国に向けて 二度出兵します。
1度目は、またお釈迦さまと同じようなやりとりをして引き返します。しかし、最後に出兵したときには、お釈迦さまも母国最期の因縁を悟り、兵を阻止することはしませんでした。終にお釈迦さまのカピラヴァスツは滅びてしまいます。

滅びる縁だと分かっていた母国だけど、母国は滅んでしまったけれど、私を育ててくれた恩に変わりはない。受けた恩は計り知れない。枯れ木でも親族の木陰は涼しい 。この想いが続く限り、身は枯れ果ててしまっても、木陰はいつまでも私を涼しくしてくれている。守ってくれています。
      
    

お釈迦さまの生まれた国カピラヴァスツを滅ぼしたカーサラ国王。何が王を、お釈迦さまの母国滅亡に駆り立てたのでしょうか。
  
お釈迦さまの母国を滅ぼしたカーサラ国王のお母さんは、実はお釈迦さまの母国 カピラヴァスツから嫁いできました。そんな大切な国を、どうして滅ぼしたのでしょうか。

カーサラ国は絶大な武力を背景に栄えていました。ある時、隣国のカピラヴァスツに、王女を嫁がせるように遣いを出します。カピラヴァスツの王や家臣たちは、その縁組を快く思いません。武力にものをいわせる国に、王女を嫁がせるわけにはいきません。かといって、断れば武力を盾に出兵してくるのは分かりきっています。
そこでカピラヴァスツの家臣は、国内で美しいと評判の娘をカーサラ国に嫁がせることにします。実は娘は、卑しい身分と蔑まれていました。身分を偽って、カーサラ国に差し出されたのです。
やがて、娘とカーサラ国王との間に王子が生まれます(その王子がカピラヴァスツを滅ぼします)。
王子が8歳のとき、父王は言います。
「お前も王子として、射術を身に付けなくてはいけない。お母さんの生まれた国に行き、射術を習ってきなさい」
王子は、生まれて初めて 母の母国カピラヴァスツに行きます。
ところが、王子は軽蔑の眼で迎えられます。
「卑しい身分の娘から生まれた息子だ!!」
王子は、自分が生まれた経緯を知ることとなります。
このとき、王子はカピラヴァスツを滅ぼすことを誓い、王位を継いでから出兵したわけです。

武力を盾に縁組を迫った国
自国を守るために嘘をついた国
どちらが正しくて、どちらが悪いという話ではありません。そのようなことを論じても、お互いが自己の正当性を主張するだけのことですから。
お釈迦さまは今から2500年ほど前の方。その頃と今と、やっていることに違いがありません。このような姿は、国と国だけが行っていることではありません。個人レベルで見ても同じことです。実際に 殺されてしまう(殺してしまう)ほどの争いには発展しなくても、このような争いで神経すり減らしていませんか? かけがえのない いのち を無駄にしていませんか? 滅亡への道を自ら歩んでいる私です。
   
     
  
お釈迦さまとカーサラ国王のやり取りを由来として「仏の顔も三度」という諺ができました。
こんにち、「仏の顔も三度」といったら、「どんなに優しい人でも、失礼なことをしても笑って許してくれるのは3度までですよ」というような意味で使われます。そのためか、「仏の顔も三度まで」と間違って覚えている方もいます。
でも、お釈迦さまは3度まで許して、4度目に怒りが爆発したわけではありません。カーサラ国4度目の出兵の折、お釈迦さまが「テメエラ、これだけ言っても分からないのか!!」と怒って、弟子やカピラヴァスツの民衆を伴って兵を挙げたというのなら「仏の顔も三度」ですけど…。
  
お釈迦さまは、母国滅亡を避けられぬ因縁であると悟っていたのだと思います。しかし、黙って見ていることも出来ず、カーサラ国王を諭します。でも、カーサラ国3度目の出兵の折、逆らうことが出来ない因縁を受け入れたのではないでしょうか。
  
悟りとは、つらいものなのかもしれません。
私たち、「先のことが分かったらなぁ」なんて思うこともありますが、先のことが分かったら つまらないですし、知った内容が哀しい出来事だったらどうしますか? そこから避けられないんですよ!
私たち、先のことが分からないから 希望を持てるのだと思います。先のことが分からないから 一生懸命になれるのだと思います。先のことが分からないから 生きられるのだと思います。
お釈迦さまは、すべてを見通されていた。それ故に苦しまれたのです。形あるものはいつか滅びる。そんな分かりきったことを受け入れるのに、カーサラ国3度の出兵が必要だったのです。
悟りを得た人であっても、物事の道理を知った人であっても、すべてお見通しの人であっても、現実を受け入れるのは容易ではありません。
生きるとは、悟ってもなお苦しみの連続。悟って楽になるのではありません。
 
「仏の顔も三度」とは、「受け容れ難い人生を受け容れて 生きていくこと」を表現した諺のように感じます。

2011年2月17日 (木)

頭北面西右脇臥

インドに行くと(インドだけではありませんが)、「涅槃像」といって、お釈迦さまがお亡くなりになったお姿の像があります。
お釈迦さまは、頭を北に 顔を西に向けて 右脇を下にしてお亡くなりになられたと言われています。
「頭北面西右脇臥(ずほく めんさい うきょう が)」とは、お亡くなりになられたときのお姿・状態です。
   
お釈迦さまが顔を向けられた西方には、カピラヴァスツという国がありました。お釈迦さまがお生まれになった国であり、すでに滅ぼされてしまった国です。
お亡くなりになるにあたり、思い出の地・亡き国のことを偲ばれていたのです(という説があります)。
   
3月には春のお彼岸があります。
春・秋のお彼岸は、春分の日・秋分の日を中日(ちゅうにち)として、1週間あります。
春分の日・秋分の日は、太陽が真西に沈む日…つまり、春分の日・秋分の日の日没の方向に、浄土があるという信仰です。
実際は、浄土・仏の国は、十方(あらゆる方角)にあります。しかし、いつからか分かりませんが、「浄土は西方にある(西方浄土)」という思想だけが強調されるようになりました。
お釈迦さまが、故郷を想い、西を向いて亡くなれらたエピソードも、そこに加わっているのかもしれません。 
  
    
 
「頭北面西右脇臥(ずほく めんさい うきょう が)」
お釈迦さまがお亡くなりになった寝方だから「北枕は縁起が悪い」なんて迷信がありますが、一切気にしないで下さい。諸行無常の身を表わす、尊いお姿なのですから。

2011年2月16日 (水)

無形の力 南無阿弥陀仏

快晴の元、日差しを浴びながらパソコンに向かっていると、昨日朝方までの降雪が嘘のようです。
昨日朝5時から雪かきをはじめました。境内参道・水汲み場の雪かきを終え、寺の前の歩道の雪かきにとりかかりました。人が通って雪が踏み固められてしまう前にと思ったのですが、そんな時間でも、けっこう人は通るものですね。
歩道の雪かきをしているせいか、みんな声をかけてくださいます。
「おはようございます」
「ありがとうございます」
「寒いですね」
初めて会う人と、すれ違いざまに ひと言ふたこ言 ことばを交わす。
寒い中、温かさを感じました。力をもらいました。ありがとうございます。
 
挨拶だけでも、人は 人に力を与えられる。
ことばの中に、温もりを感じる。
 
無形のものだけど、そこには確かに、私を生かす力がある。
南無 阿弥陀仏
           
       
           
雪かきを終え、朝食を食べ、従兄弟と一緒に娘に雪だるまを作りました。
雪って重たいなぁと、あらためて思う。頭をのせるのに一苦労でした。
  
午後は「コールリンデン(仏教讃歌を歌う会)」
足元の悪い中、お出かけくださり、ありがとうございます。
いつも楽しい時間を過ごさせていただいています。
  
コールリンデンが終わって、2月半ではあるけれど「新年会」に出かけました。
2011年を迎え すでに顔を合わせた面々ですが、本年の歩みに向けて 気持ちが引き締まりました。
長い一日の終わりに、久しぶりのお酒。美味しくいただきました
 

     

2011年2月15日 (火)

涅槃

2月15日は涅槃会。
お釈迦さまがお亡くなりになられた日です。
実際にお釈迦さまが亡くなられた日は分かっていないのですが、いつの頃からか、2月15日をご入滅の日とするようになりました。
 
お釈迦さまのご入滅を涅槃(ねはん)といいます。
「涅槃」とは、焚き火の火・ロウソクの火が消えるように、煩悩が消えること…つまり悟りが開かれた状態を意味します。
もちろん、お釈迦さまは いのちあるときに悟りを開かれたのですが、いのちあるということは、食事もするし、眠りもします。お釈迦さまといえど、いのちある間は、完全には悟りの境地に達していなかったという考え方もあります。だから、お釈迦さまも、お亡くなりになって(煩悩がなくなって)初めて完全に悟りをえたと捉える考え方もあります。
そのような考え方から、「涅槃」とは、「さとり」を意味するとともに、「入滅(お亡くなりになる)」の意味もあります。
現代では、「涅槃」というと、「死」をイメージするでしょうか。でも、決して「死」のみを意味することばではないのです。「さとり」の状態なのです。 
煩悩・執着心・しがらみ…私のこころから、無くなりそうもないですね。
 
筋書き通りのおしえなら、「煩悩・執着心・しがらみのこころを無くしましょう」なんて言い出しそうですが、親鸞聖人は、そんなこと おっしゃいません(と、私が言っていいのだろうか)。
 
文章を書いてから、想像してみました。
美味しそうなご馳走がならんだテーブル。一緒に燭台もあり、ロウソクが煌煌と灯っています。テーブルの周りには、仲間がいて、楽しそうにしています。
「美味しそうだな」「早く食べたいな」「お酒呑みたいな」「話したい話題があるんだけどな」…煩悩だらけです。
でも、そんな状態が嫌ですか。何も感じずにいたいですか。
ロウソクが消えても食事はできるけど、たとえ煩悩だらけでも、ロウソクが煌煌と灯っている中で、いろんなこと考えながら、仲間とペチャクチャしゃべりながら、食事をする。それが、生きているということなんじゃないかなぁ。
涅槃とは、明かりが消えた状態ですが、そのことによって、明るさの有り難さを感じる。はじめから明かりがなかったら、明るかったとも、暗くなったとも感じないのだから。

2011年2月14日 (月)

無縁のつどい

昨日 2月13日(日) 白骨の会(西蓮寺仏教青年会)開催しました
参加者どうし、普段考えていること 疑問に思っていることなどを語り合っています。
日常よく顔を合わす仲間だと、かえって言いづらいこと 尋ねづらいことでも、月に1回顔を合わす程度の中だと、不思議と語れることってあるものです。
「しがらみ」がないからかもしれません。そういう意味では、真宗の法座において、座談会が大切だとされるのは、日常のしがらみを越えて語り合う場(語ることができる場)だからなのかもしれないなぁと思いました。まさに「無縁」の場です。
(「無縁」については、前の文章をお読みください)
次回 白骨の会は、3月29日(火) 午後2時からです。
   
  
明日 2月15日(火) 西蓮寺コールリンデン(仏教讃歌を歌う会) 午後1時30分より開催いたします
仏教讃歌だけでなく、季節の童謡も歌っています。
たまには大声を出して歌いませんか。スッキリしますよ。

2011年2月13日 (日)

迷惑を、かけて かけられて生きています

はたらく場を追われ、帰る家も、頼る身内も、語り合う仲間をも失った人が、この日本に溢れているといいます。このような社会状況を「無縁社会」と表現されています。
   
「無縁」という言葉を聞いて、「縁が無い」…「天涯孤独(あるいはそれに近い状況)」の人が増えているのかと思いましたが、そうではないようです。「縁」「つながり」は持っているのです。しかし、自分が苦境に立ったときに、頼れる人・弱音を吐ける人・助けを求められる人・迷惑をかけられる人がいないのだそうです。
「人に迷惑をかけられない」「弱いところは見せられない」 いざというとき、自分をさらけ出せる人がいないのですね。そういわれると、私も不安です。
そのように、いざというときに頼れるつながりがない人々が溢れている状況を「無縁社会」と表現されています。
  
「無縁」…確かに、「縁」や「つながり」がないことを「無縁」と言うのですが、仏教に立ち返ると、他の意味が見えてきます。
「無縁」の「縁」とは、「しがらみ」の意味もあります。人と人とのつながりに、本来「しがらみ」などないはずです。しかし、他者を見るときに、地位や学歴・収入・容姿など、いろいろなもので見ます。自分を表現するときも、地位や学歴・収入・容姿などで取り繕います。結果、相手を見下したり高望みをしたり、自分を偽ったり卑下したりすることになってしまいます。そして、他者との関係を築けなくなってしまいます。
そのような「しがらみ」が無くなる社会も、「無縁社会」と言えます(つまり、現代日本を表現されている「無縁社会」とは全く違う意味になります)。
 
いろいろな要素があった結果、(現代社会を表現されている)「無縁社会」が形成されているわけですが、私自身のものの見方・考え方が、自らを「無縁」化させている側面もあります。
 
周りの人を、人と思わない傍若無人な振る舞いが問題となっている現代日本ですが、
「他者に迷惑をかけたくない、かけてはいけない」という、対人関係に真面目すぎる方が多いのも現実です。
 
既に互いに迷惑をかけ、かけられながら生きています。「迷惑をかけたくない」「迷惑をかけてはいない」という思い上がりを捨てて、人に向かい合いたいものです。

2011年2月12日 (土)

うるさいと感じるか 賑やかと感じるか

積もるほどの雪は降りませんでした。
カラカラに乾いた地面に、降る雪はみるみる染み込んでいきます。
地面に潤いが戻りました。
 
乾いた地面に潤いを与えてくれる雪
 
家屋を押し潰すほどの積雪
 
スキー場では、雪が降ってくれないと困りもの
 
処分しきれないほどに降る雪も困りもの
 
同じ雪なのに、時と場、環境や状況によって、捉え方(捉えられ方)は違うもの。
 
人だって、時と場、環境や状況によって、犯罪者にもなれば英雄にもなる。
 
雪も、人も、その雪自体に、その人自体に違いはない。
けれど、時と場、環境や状況、受け取る側の想いで、悪にも善にもなる。

2011年2月11日 (金)

雪や こんこ

東京では朝から雪が降り始めました。
昨晩の天気予報では「朝には雪が積もっているでしょう」と言っていたので、早く起きて雪かきかなと思っていたのですが、朝起きたときには、まだ雪も降っておらず、もう少し寝ました。
でも、次に目を覚ました時には雪がチラチラ降っていました。地面が雨で濡れ、通勤通学の方々が歩いていたので、積もるほどではありませんでした。
午後、雪の形が大きくなってきました。どうやら明日は早起きして雪かきになりそうです。
   

  
東京は、この程度の雪ですが、日本海側の地域では積雪に頭を悩ませておられます。例年と雪質や気候が違うらしく、とけて屋根から落ちてくるはずの雪が、いまだに屋根に残り、家屋に負荷がかかっているそうです。潰れてしまった映像も流れていました。
東京程度の積雪で対処に困っていることが、恥ずかしく思います。
秋田で生まれ育った妻は、「どうしてこれくらいの雪で滑って怪我するのよ」と嘆いています。危機意識も、まるで違いますね。

2011年2月10日 (木)

悪人正機説

2月9日(水) 西蓮寺聞法会
午前中の雨天曇天にもかかわらず、ご参加くださった皆さま ありがとうございます。
西蓮寺聞法会は、私(副住職)が、話をさせていただいています。本山出版の『真宗の生活』をテキストにしています。
    
『真宗の生活』(2011年版)
2 親鸞聖人の「悪人正機説」
 
親鸞聖人のおしえの特徴的なお話として捉えられている「悪人正機(悪人成仏)説」。
お話するにあたり、あらためて「悪人正機説」について考えました。
 
今まで、「悪人正機説」とは「悪人こそ救われるおしえ」といただいていました。
でも、間違ってました。
「悪人正機説」とは「阿弥陀の本願は、まさしく悪人をすくいの対象とされている」のでした。
 
つい、私(私たち)を主語において、私(私たち)を中心にして、おしえをいただいておりました。
阿弥陀如来の本願あっての十方衆生であることを、いつのまにか忘れていました。

お話させていただくことを通して、教えられます。南無阿弥陀仏
 
   
  
参考にお読みください
善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや

2011年2月 9日 (水)

月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の こころにぞすむ

昨日書いたように、お寺と分かっていながらも、宗教の勧誘はやってきます。
「あなたのとこの宗教はダメだから、うちに改宗しなさい」と言われているようなものですよね。
    
ご法事の際、お施主さんは当然真宗の門徒さんです。けれど、ご法事に呼ばれる方の中には、お他宗の方もいます。お他宗とはいえ、批判を受けることはほとんどありません。批判どころか、興味深そうに本堂を見学されたり、ご法話に感動されたりします。
しかし中には、ご法事中ずっと腕を組んでいたり、明らかに法話を聞いていなかったり、お寺には来ているのに「他宗のご本尊の前にはいきません」と本堂に入らなかったりされる方がいます。
自分の宗派に対する信心の強さの表われなのかもしれませんが、他を受け入れない姿は、「おしえって、そういうものなのかな?」と思ってしまいます。
   
蓮如上人(本願寺8世)の「御文」には、他の教えを誹謗してはいけないという教え(戒め)がたびたび出てきます。
神社をかろしむることあるべからず
諸仏・菩薩ならびの諸堂をかろしむべからず
諸宗・諸法を誹謗すべからず
   
   
これら戒めとともに、「お念仏の教えや、自身の信心の話を公にすることはつつしみなさい」とも言われます。
批判もしない、かといって自分のところの話もしない。蓮如上人が言われる 念仏者の生活とは、どのような生活なのでしょう?
 
 
あるお朝事(朝のお勤め)で、先に書いた戒めのことばが出てくる「御文」を住職が拝読しました。その「御文」を拝聴しながら想いました。
 
阿弥陀の本願は、十方衆生(生きとし生けるもの すべて)にそそがれている。阿弥陀を信じる者のみを、すくいましょうというおしえではない。
誰もが すでに阿弥陀の慈悲のこころの中…相手を批判したり、自分のところの教えを誇ったりする必要などない。
「戒め」とか「誇り」とか書いたけれど、それは人間の側の事情。阿弥陀からすれば、すべてひっくるめて十方衆生。
信者としての態度について書かれた「御文」ではなく、阿弥陀の本願について書かれた「御文」だったんだ!
住職の拝読も終わり、自然に手が合わさります。南無阿弥陀仏

2011年2月 8日 (火)

願いの中に生きている

ドアフォンが鳴り、玄関を開けると数人の男女がズカズカと屋内に入ってきました。
「なんですか!」と尋ねると、
「なにか願いごとがあるでしょ。この宗教に入れば、願いが叶いますよ」の返事。
     
願いが叶う宗教は、要りません。
願いの中にいる宗教に居ますから。
    
彼らはスゴスゴと帰ってゆきました。
       
   

「願いが叶う」なんて言われて、そんな話に乗らないでくださいね。
願いが叶えば、また次の願いがわいてきます。エンドレス。
私の願いが叶うとき、他の誰かの夢が壊されています。罪作りなわたし。
 
そんな衆生を生かしめる、大切な縦糸の中に、私は居ます。
そんな衆生を立たしめる、豊かな大地の上に、私は居ます。
「生きて欲しい」 阿弥陀(縦糸・大地)の願いの中に、私は既に生きています。

2011年2月 7日 (月)

はなの季節

今年も花粉症が始まり、風邪までひいてしまい、声が出なくなってしまいました。
5日(土)6日(日)のご法事は、まったくお経が読めず、住職からストップがかかりました。
 
こちら側とすれば、何回もお勤めするうちの数回。
でも、ご法事をお勤めになられる方々からすれば、人生中に数回しかないご法事のひとつ。
ご法事は、常に万全の体調で臨むように努めていますが、今回はかないませんでした。
 
大切な仏縁に、こんな声でお勤めしてしまったお家の方、お勤めすら出来なかったお家の方、真に申し訳ありません。
 
大雪で悩まされている地方もあるかと思えば、東京は異常なほどの乾燥状態が続いています。風邪もひきやすいです。お気をつけ下さい。
花粉症に悩まされている方、同情致します。昨日、鼻腔をひろげるテープを買ってきて、さっそく付けました。鼻の通りがよくなって、スッキリします。
花粉症にかかっていない方、今後もかからないことを念じております。 
 
(追記)
自分は大きい声を出せなかったので、迦陀の発声を住職にしてもらいました。
住職の声を聞いていて、「あぁ、かなわないなぁ」と思いました。

2011年2月 6日 (日)

多くを語る必要はないですね

○○のせいで やりたいことができない
という生き方を変えて、
やりたいことはできなくなっても ○○のために生きたい
と思うようになりました。

   
前の文章を書いていて、槇原さんのことばにふれて、思い出していたことがあります。
TBS「獣医ドリトル」というドラマのワンシーンです。
 
獣医を目指す、動物が大好きな優しい高校生がいました。しかし、自宅で祖母が飼っている犬の面倒見が大変で、受験勉強も手に付かずイライラしていました。そのため、犬の体調が悪いことに気付かずにいました。
主人公 獣医鳥取は、その高校生を一括します。
なにかを言い訳にして、できないというのなら、始めからするな!
(註、正確なセリフではありません。ドラマを見ているときは、自分のことを言われているようで、印象に残りました。しかし、書こうとしたら、あまりセリフを思い返せませんでした)
 
なにかを言い訳にして、できないというのなら、始めからするな!
    


2011年2月 5日 (土)

忙しい 忙しい けれど、なにもしていない私

○○のせいで やりたいことができない
という生き方を変えて、
やりたいことはできなくなっても ○○のために生きたい
と思うようになりました。

      
   
数日前、TBS「はなまるマーケット」を ながらで見て(聞いて)ました。
はなまるカフェのゲストは槇原敬之さん。
槇原さんは、今、犬を8匹飼われているそうです。
ホストの薬丸さんが「これだけ飼っていると、世話が大変じゃないですか? ツアーで留守にすることもあるでしょ」と尋ねると、
「大変です」と槇原さん。
 
でも、どうして8匹も犬を飼っているのか。
以前、犬を1匹飼っていたのですが、やはり面倒を見るのが大変で、実家のご両親にその犬を託したそうです。
犬のいない生活は、自分の仕事に専念できたそうですが、なにか物足りない。
そんなある日、友人が留守中、犬を槇原さんに預けたそうです。
犬を預かった槇原さん、かわいくてかわいくて仕方なかったそうです。
そのとき、先に書いたように想いが変わったそうです(ながらで聞いていたので、正確ではありません)。
 
この忙しいのに…
こんなに大変なら…
       
ペットを飼うこととか、子供を育てることとか、結婚生活を送るとか、
今までの生活が一変し、今まで出来ていたことが出来なくなる。
  
つい 元の 一人身勝手な生活がいいなと思い返してしまうけど、大変なら大変な 不自由なら不自由な生活の中で、私を私ならしめている大切なことがある。
   
それに、元の一人身勝手な頃に、自分のやりたいことが本当にできていたかというと、そんなことはない。
 
本当にやりたいことなら、どんなに忙しくたってできる。
本当にやらなければならないことなら、どんなに時間がなくても、なんとか手をつけられるもの。
 
不思議と、そんなものですよね。

2011年2月 3日 (木)

こころの響きは鏧(きん)とともに

お朝事やお夕事(朝晩の勤行)
普段は住職が鏧(きん)を叩く
 
住職が留守のときは、私が鏧を叩き、お勤め。
本堂で、私が鏧を叩く音を聞く妻と娘
 
「かっちゃんの鏧は、音が厳しいよね。棘があるっていうか。住職の鏧は、控えめで、穏やか」
と、妻の感想。
 
的を射ているので、グサッと突き刺さる。
同じ鏧を、同じバチで叩いているのに、叩く人によって、その音色は変わる。
こころの表情が、鏧にそのまま反映される。
 
自分でも気付いていた。
こころのトゲが、鏧の響きとなって表われた。 
鏧や音木や読経の声や、いろいろなところで表われていることでしょう。
 
住職のように控えめで、穏やかな鏧が叩けるように…いつなることでしょう。

2011年2月 2日 (水)

優しさとは 見えないところで起きているものです

調子を崩し
お朝事に出ていなかったにもかかわらず
久しぶりにお勤めしたお朝事で
声明集を開いたとき
繰り読みしているご和讃の
その朝に読むご和讃に
葩のはさまれている うれしさよ
 
 
住職 ありがとうございます

2011年2月 1日 (火)

2011年2月のことば

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 語られるに値しない人生はない
 書かれるに値しない人生はない

    井上 憲司
   
「同朋新聞」(真宗大谷派宗務所発行 2011年1月号)でインタビューを受けられている篠﨑一朗さん(葛飾区 蓮光寺門徒)は、余命一年弱の胃がんと診断されてから、それまで以上に親鸞聖人のおしえに 真向かいになられます。病にかかり、死を意識することを通して、自分を見つめることやいのちのことを深く考えることができたと語られています。『人生に何一つ無駄はない―末期ガンから見えてきた世界―』(東本願寺出版部)という本を書かれています。

39歳で癌告知を受け、41歳で命終された坊守の平野恵子さんも同じことを語られています。「人生には、無駄なことは、何一つありません」と。
   
「人生に何一つ無駄はない」と言われたとき、「そうですね」と頷けるか、「そんなことはない」と認められないか、自分の頭で分別してしまうのではないでしょうか。
しかし、篠﨑さんや平野さんが感得したことばは、「無駄と思われることも、実は無駄ではないんですよ」と諭しているわけでも、「考え方を変えてみましょう」と提案しているのでもないと感じます。
   
うちの娘(2歳)は、家族が合掌念仏する姿を見て育ち、今では自分から進んで合掌念仏をしています(ご本尊の前以外でも)。その姿に、「いいことがありますように」 「親が喜ぶから」「褒められるから」などといった損得勘定をまったく感じません。
無駄か無駄じゃないかなどという、分別のこころを越えたところで、篠崎さんも 平野さんも「人生に何一つ無駄はない」と感得されたのだと思います。
今月は「人生に何一つ無駄はない」と掲示しようと思ったのですが、「無駄はない」ということの意味を深く考えていたときに、ピタリとはまることばに出遇いました。
   
 語られるに値しない人生はない
 書かれるに値しない人生はない
  (「サンガ」№109 東本願寺真宗会館発行
    連載「リアルタイム」
     井上憲司さんの文章より
       元新聞記者・世田谷区存明寺門徒)
    
誰もが、筋書きのない人生(ドラマ)を生きています。つまらない人生などありません。「どうしようもない人生だ」「最悪の人生だ」と酷評する人(自分・他人)はいることでしょう。しかし、それぞれの人生に、数えきれないほどの登場人物がいて、その物語を描いている。傍観者が、無責任に評価を下せる人生はありません。
   
「短い人生、悔いが残ったことだろう」と歎く他人はいる。しかし、どんな短編であっても、あるいは一編の詩であっても、そこに、書かれた人生が確かに存在する。たとえ書きかけに思われる小説であっても、そのような表現方法もある。その続きは、残された者が紡いでいけばいい。たとえ 一編の詩であっても、そこには人に響き伝わるメッセージが込められている。そのことに喜びを感じたい。
   
いのちの数だけ、語られてきた人生、書かれてきた人生がある。それらすべての人生に、星の数ほどの人物が登場する。一人ひとりの人生は一冊の本だけれど、それぞれの本に登場する人物は、本を越え、あらゆる人物の人生に関わっている。この私も。
   
ある本ではヒーローでも、他の本では悪役かもしれない。ただの通行人役ということもある。名前が出てくる役もあれば、大勢の中の一人ということもある。役は何であれ、欠かすことはできない。
   
善導大師は、人生を織物に譬えてくださいました。織物は、縦糸と横糸から成ります。模様として表層に現れるのは横糸。そう、私の人生は、横糸なのです。星の数ほどの人々と共に織り成しています。しかし、織物は縦糸がなければ成り立ちません。その縦糸とは、阿弥陀如来。阿弥陀如来という縦糸があるから、模様(人生)が織り成されていきます。
   
幼子が手を合わすことができるのは、 人生に阿弥陀如来という縦糸があることを知っているからなのでしょう。だからこそ、損得勘定なしで手が合わさる。成長と共に損得勘定で物事を見る目が養われた者に、縦糸の大切さは感じ得ません。
私の人生中に出遇った出来事。無駄と思われる悲しみでさえ、そこに辿り着くまで書かれてきた人生と、人生模様を織り成す縦糸を感じたとき、「人生に何一つ無駄はない」と、念仏の声と共に出るのでしょう。
    
平野恵子さんは3人のお子さんにメッセージを遺されました。
「深い悲しみ、苦しみを通してのみ、見えてくる世界があることを忘れないでください。そして、悲しむ自分を、苦しむ自分を、そっくりそのまま支えていてくださる大地のあることに気付いてください。それが、お母さんの心からの願いなのですから。」
    
「人生に何一つ無駄はない」…ひとりの人生において考えると、「無駄はない」とは、ある事柄を連想しがちですが、生きとし生けるものすべてのいのちを見たとき、語られるに値しない人生、書かれるに値しない人生などないことに気付かされます。
  
 縦糸が張られている
 大地に支えられている
 語られるに値しないいのち
 書かれるに値しないいのちはない
   
   
    
掲示板の人形
Dsc_0415

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