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2011年1月 4日 (火)

誓いに包まれ、今、現に生きています

新年あけましておめでとうございます。
お正月三ヵ日 いかがお過ごしでしたでしょうか。
 
1月2日の話
プリンターのインクがなくなりそうだったので、娘の散歩がてら、八幡山にあるヤ○ダ電機に行きました。買い物を済ませ(今年の買い初めはプリンターのインクでした)、芦花公園のサ○ットに行き、牛乳・ヨーグルト・バナナなど、朝食の買い物をしてきました(お正月はお墓参りの方がたくさんみえるので、朝食はいつも通りパン食です。夜、おせちをゆっくりいただいています)。
サ○ットを出て寺に向かう途中、芦花公園駅の踏切が下りていたので、電車好きの娘と電車が通り過ぎるのを眺めていました。すると娘が、「電車乗る!!」と言い出しました。
寺の最寄り駅「千歳烏山駅」は隣の駅です。普段なら娘の主張を無視し、歩いて帰っていたことでしょう。でも、お正月だし、という理由になってない理由で電車に乗ることにしました。
ホームで電車を待っているとき、「電車に乗っても、ベビーカーからは降ろさないよ」と説得し、娘も「ウン ウン」と頷いていました。ところが、電車に乗り込むと すぐに「降りる!!」と泣き叫びはじめました(予想はしてましたが)。
普段なら娘の主張を無視するところですが、あまりにいい声で泣き叫ぶので、降ろすことにしました。娘をベビーカーから抱き上げたときです。サ○ットで買ったものを、ベビーカーの後ろにひっかけていたので、娘という重しが無くなった途端、ベビーカーが後ろに傾いてしまいました。
ベビーカーが傾いたときに、私たちのそばに立っていた若い男性が手をさしのべてくれました。結局傾きかけたベビーカーは、倒れる前に私が止めることができたので、その男性の手を借りずに済みました。でもその男性は、片手に娘を抱き、片手でバランスの悪いベビーカーを支えている私たちのことを心配してくださっている様子です。
「千歳烏山駅」に着きました。彼もここで降りるようです。ドア側にいた私たちが先に降り(そのときも心配そうにしてくれてました)、優しい彼は他の降車客を先に降ろし、最後に自分が降りてきました。彼が降りてくるのを待っていた私たちが「ありがとう」というと、「なにもできずにすみません」というような口の動きと、すまなそうな顔で、そそくさと行ってしまいました。彼の背に、もういちど「ありがとう」と言いました。
    
「優しいお兄ちゃんだね」と娘に言って、「さ、ベビーカーに乗ろうか」と促すと、娘は「イヤー」と泣き叫びます。
普段なら娘の主張を無視するところですが、お兄さんの優しさに触れた私は、「そうか じゃぁ抱っこして帰ろうか」と、娘を片腕で抱き、片手でベビーカーを押しながら帰ってきました。徒歩15分。寺に戻って娘を降ろし、ベビーカーをしまったら、両腕が震えていました。
     
前置きが長くなりました。彼の優しさに触れ、書きたくなってしまいました。
結局彼としては、何もしてないわけですが、「なにかできることはないだろうか」という雰囲気がとっても伝わってきました。そばにいて、温かい気持ちになりました。
でも実際、彼のように「なにかできることはないだろうか」という気持ちを持っている人って、たくさんいると思うのです。しかし、人と付き合う機会を極力減らそうと考える人が増え、一人っ子として育ち、兄弟という身近な人間との関わりを経ずに成長した人が多くいる現代では、街中でのとっさの出来事に、すぐに体が動かないものです。
「困っていそうだけど、手伝っていいのかな、どうすればいいのかな」と、自分の中で立ち止まっている人って、たくさんいると思う。
哀しいことに、人の目には、悪いことばかりが目に付いてしまいます。悪いことの方がいつまでも記憶されてしまいます。彼のような優しさよりも、誰も手伝ってくれなかったという憤りで、人間のこころは覆われてしまいます。
知らないうちに掃除されている空間に身を置いても、そのきれいさには鈍感なものです。ちらかっていれば、もっと綺麗にしろよと怒るのに。
周りの気遣いの中に身を置いているのに、その気遣いには鈍感なものです。ちょっと気に食わないことがあったときは、もっと気を遣えと怒るのに。
ゴミのポイ捨てをする人がいるけれど、誰も拾わなかったら、日本中ゴミで埋まってしまいます。誰かが片付けてくれるから、ゴミで埋もれずにすんでいるのに。
車を荒い運転する人がいるけれど、事故が起きないことを、自分の腕がいいからと勘違いしてないでしょうか。周りが、安全運転してくれているから、事故にならずにすんでいるのに。
書き上げていったらキリがありません。つまり、世の中は優しさに溢れているのです。ところが、その優しさに気付かない私は、「世の中が乱れて」「最近の若い人は恐いから」「教育が悪いから」「昔はよかった」と歎きます。いちばん歎くべきは、この私自身なのかもしれません。
 
年の初め、「今年はいい年でありますように」「今年こそいい年になりますように」なんて願いをかけますが、考えてもみると、他人任せなお願いですよね。「こうありますように」「こうなりますように」なんて。私が、「いい年にしてみせます」と誓ってこそ、年の初め、身が引き締まるのではないでしょうか。
「いい年にしてみせます」と言っても、そうなるべく行動に移す必要もありません。だって、世の中に溢れている優しさにもっと敏感になるだけで、世の中の印象は変わります。感じ方が変わるだけで、私自身の行動も、自然に変わってくるものと思います。
(他人任せのお願いをするから、「思うこと ひとつ叶えば また ひとつ」と、次から次へと願えるんだなぁ。自分が発した誓いならば、「ひとつ」のことだけでいっぱいだと思います)
      
年頭に、他人任せの願をかけ、暮れに「今年も暗い年だった」と歎きますか?
年頭に、「私がやる」と誓いを立て、暮れに「素晴らしい出会いがいっぱいの年だった」と振り返りますか?
       
電車の中で遇った彼のおかげで、素敵な第一歩をちょうだいいたしました。ありがとうございます。

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コメント

新年を迎え、たいへん有り難いお話を伺いました。「他人の優しさに気付く」素晴らしいことですね。「人を憂う」と書いて「優」という字になるわけですから。昨年に引き続き年賀状の仕分けに携わりましたが、一通の年賀状が実に多くの方々の手を経て届けられているのだなということに、改めて気付かされました。仕分け初日に、日本郵政の支店長さんから「年賀はがき自体は1枚50円ですが、その年賀状を書いた人の思いはお金に換算できないのです。ですから、仕分けに当たっては一通一通の年賀状を丁寧に取り扱ってください」というご挨拶をいただきました。短期間のアルバイトとはいえ、有り難い仕事に携わることができました。一方で、肝心の自分の年賀状を書くのが遅くなり、やっと書き終えてポストに出した次第です。今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

☆がくさんへ
あけましておめでとうございます
暮れにがくさんから年賀状の仕分けについてのお話を聞き、あらためて、新年にちょうだいする年賀状のありがたさを感じておりました。
電車でのお兄さんにしろ、ふだん届く郵便物にしろ、日常の買い物で品物が店頭にならぶことにしろ、実に多くの人々の想いがつまっているのですね。
見えることにしか感謝しませんが(見えることにすらしないことも)、見えないことにより多くの感謝の種が溢れていますね。感謝の花を咲かすのは、私たち自身ですね。
年賀状届きました。奥様との仲睦まじい写真入りの。
本年もよろしくお願いいたします。
年賀状仕分け、ありがとうございます。

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