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2011年1月11日 (火)

書くということ

新年をどのようにお過ごしですか。
日記をつけられている方はいらっしゃいますか? 新しい日記帳に、気持ち新たに向かわれている方もいることでしょう。
さて、「○年日記」というものをご存知ですか?
ひとつの日付に一頁を使い、「3年日記」だったら1頁を3分割、「5年日記」だったら一頁を5分割してあります。1月1日から書き始めて、一年書いたら また最初のページに戻って書き始めることになります。
    
2000年の暮れ、坊守(母)が家族に日記帳をプレゼントしてくれました。「10年日記」です。
21世紀を迎えるからというより、「2001」という数字がきっかけとして丁度よかったからだと思います。
  
日記をつける習慣がなかった私には、始めの一年はちょっとしんどかったですが、「10年日記」ですから、書く分量は10分の1頁です。大学ノート4行分程度です。たくさん書ける人には物足りませんが、出来事を箇条書き程度で済ませられるという点では、かなりハードルが低い日記帳です。
頑張って一年書き終えると、2年目以降は楽しくなります。というのも、前年以前の、同じ月 同じ日の出来事を読見返すことができるからです。「去年の今日、こんなことがあったんだ!」とか、「あの出来事はもう○年も前のことだったんだ!」とか、「○○が結婚した日だ」「○○ちゃんが生まれた日だ」とか思い返せます。
数日先の出来事まで読んでおくと便利です。たとえば、前年に披露宴に招待されたご夫婦に、披露宴から一年の記念で花束を贈ったことがあります。そのご夫婦から、「私たちでも忘れていたのに、よく披露宴の日を覚えていてくれたね」とお礼状をもらったことがあります。 大切な日や忘れてはいけない出来事を想い起こさせてくれます。
毎年同じ日に風邪をひいているのには笑えます。少しは予防しろよ!って話です。
        
2010年が終わり、2011年を迎えました。
2001年から始まる「10年日記」が完結したことになります。
あらためて、時間をかけて読み返すことはしていませんが、大切な一冊になりました。
 楽しそうに、詳細に書いてある出来事 
 怒りにまかせて書いてある出来事  
 箇条書きだけで済ませている日
 恥ずかしい誤字脱字
 何も書いてない日
何も書いてない日には、3種類ある。何か書こうにも、特筆事項がなかった日(本当は、人生においてそんな日はないのだろうけど)。書きたいんだけど、忙しくてかけなかった日(そんなに忙しいこともないんだけど)。そして、とても書くことができない出来事があった日。
最初の2種類は単なる怠惰。まぁ、たいしたことがなかったのでしょう。しかし、最後のは、書き残すことも辛かった出来事。日記に書かれてはいないけど、空白が物語ることがある。どうしてこの日が空白なのか、実は覚えている。書けないという事実は、書いてあること以上に意味があったりする。辛い出来事だから、忘れたいのだけど、でも、覚えている。忘れてはいけないよ、ということなのでしょうね。今だから、冷静でいられる。
     
書くという行為(その中から出てくる 書けないということも含めて)は、大切なこと。
日本における昨年の自殺者も、30000人を超えたと発表がありました。自殺にまで追い込まれた出来事があったのでしょう。でも、自分の身に起きたことを書き出すことができたなら、30000という数字は、少しは減ったのではないかと思います。
数年前の新聞記事で読んだインタビューです。ある女優さんが、マスコミ(ということは世間)からバッシングを受けて自殺を考えたとき、師から、「つらいことがあったら、それを書き出しなさい」とアドバイスを受け、実際に書き出しました。書けない想い、書き出せない想いもあったことでしょう。でも、書いているうちに、書いたものを読み返しているうちに、「自分の悩みなんて、くだらないな」と思い、自殺まで考えていたけれど、踏みとどまれました。と、語られていました。
 
同朋新聞 2009年10・11月号「人間といういのちの相」でインタビューを受けられている藤川幸之助さんのお話を聞く機会がありました。藤川さんは、22年前に認知症になられたお母様の介護をされています。その間に奥様を亡くされています。小学校の先生をされていましたが、詩人になる夢を持っていました。しかし、母が認知症になり、自分が介護するとなったときには、仕事や家庭のことだけでも手一杯なのに、詩を書く時間がなくなると嘆かれました。
しかし、詩を書く時間を割かれると嘆いていたのに、母の介護を通して、詩(想い)を書くことができた。「死を遠ざけよう、見えなくしようと考えていたけれど、死は、誰にでも訪れる事実なのだ。死も含めて、生きているということなんだ」と、“死”を見つめられたとき、自分のものの見方が変わったと語られていました。
母に対する想い…つらい感情・怒りの感情がわくときもあります。その想いを、書き出しています(詩としてではなく)。声に出すこともできないような汚い言葉で書き綴っていることもあります。でも、書くんです。介護によって生じたつらい感情を、誰かに話してスッキリさせる人もいらっしゃいます。私の場合は、書くことによってなんです。
と、語られていました。書くという行為は、語る行為なのだなと、感じました。 
  
私も、誰かに想いを語るタイプの人間ではないので、書く行為 「10年日記」の存在は、今となってはとても大切なことがわかります。自分だって、自殺していたかもしれません。自殺された方に対し、「こころが弱いから」と言う人がいますが(この10年間、何度も聞いてきました)、弱い強いじゃないんです。語るにしろ、書くにしろ、一瞬、立ち止まることができれば…。語りかける相手に出遇えていれば、手に持つペン・向き合う紙に出遇えていれば…。
それで自殺者が減るとか、自殺者を減らすために、語れ、書けと言っているのでもありません。ただ、語ること、書くこと(描くこと)で、今まで背けていた自分に遇えると思うのです。それまでは、他者に対する不満しか見えていませんから。他者の行為は、私にはどうすることもできません。そうすると、自分でなんとかしようとする方向に向かいます。他者を殺めるか、自分を殺めるか。
人を殺める道具を、書く道具に持ち替えませんか。
      
2010年暮れ、坊守が2冊目の「10年日記」をプレゼントしてくれました。次はどんな出遇いが待っていることでしょう。
「あと10年生きるつもりか?」なんて言われそうですが、尽きたら尽きたとこまでが我が人生。その後の頁は、後の人が紡いでいくことでしょう。
今年に入って既にに10日以上経っていますが、今からでも、日記を始められたらいかがでしょうか。複数年の日記は楽しいですよ。「こんなことで悩んでたんだ」って、後で(後だからこそ)笑えます。
その“後”のために、一瞬立ち止まる時間をいただけます。一瞬一瞬の積み重ねが、10年であり、人生なのですね。
   
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コメント

「一瞬一瞬の積み重ねが、10年であり、人生なのですね。」有り難いお話を伺いました。「人は皆、昨日を悔やみ、明日を夢見て、今日を忘れる」ということばを聴いたことがあります。また「一大事とは今日只今の心なり」ということばも聴いたことがあります。今日一日を大事にすること、どんな小さな事でも疎かにしないで真摯に取り組むことを心がけてまいります。今回も有り難いお話を有り難うございます。

> 自殺された方に対し、「こころが弱いから」と言う人がいますが(この10年間、何度も聞いてきました)、弱い強いじゃないんです。語るにしろ、書くにしろ、一瞬、立ち止まることができれば…。語りかける相手に出遇えていれば、手に持つペン・向き合う紙に出遇えていれば…。

この世に一つだけの存在である「私」の、生も死も、誰にも代わってもらえないものであり、どんな生き様も死に様も尊厳があるものですから、「こころが弱いから」という一般化はできないですよね…。

そもそも言葉は一般的なもので、いわば辞書に載っている一般的な意味で、かけがえのない「私」の人生を、「こころが弱いから」でも、なんでも、言葉に還元してしまうことはできないということはありますね。

一方で、言葉しかない、言葉が人と人をつなぐ紐帯であって、言葉で人は救われる、ということもあるわけですが。

東京のどこでしたか、今は暗渠になっているのかな、昔、何か用水ができたら、フラッと、気がついたら入水自殺をはかっていましたというか、気がつかずに、考えずに、反省なく、意識なく、魔が差して、入水ということがあったらしく、用水ができたときに、近所の方が、物干し竿を用意していて、人が飛び込んだら差し出すというのをかなりの頻度でやっていたという話を聞いたことがあります。

全員、必死でつかまり、助かった、有り難うございました…となったという話。

どれだけの頻度だったのか、どれだけ、その人の話が大袈裟になっているのかは、それは確かに分かりませんが、その人が経験から確信しておられたのは、人間、ふと、自分でも気がつかずに、自分なんていない方が、周囲の人は幸せなのかなぁとか、自分なんていらないんじゃないのかなぁとか、なんとなく頭の中だけで考えながら歩いていたら、知らない間に、身体が動いていて、フラッと、入水…というようなことはあるんだ…というお話。

そこで、たとえば、たまたま、柵から針金が飛び出ていて、服が引っかかったら、おおーーー自分は一体何をしてるんだ、あぶないあぶない、気がついたら飛び込もうとしてたよ、恐ろしいことだなぁ…、こういうことってあるんだなぁ~

というケースは、おそらく、本当に、そして、かなりの頻度であるんじゃないかという気はします。

最初に言ったこととは、矛盾はしてしまいますが…。


☆がくさんへ
「一瞬一瞬の積み重ねが、10年であり、人生なのですね」のことばに気付いていただけて、嬉しいです。
日記のことを取っ掛かりで文章を書いてますが、伝えたかった気持ちは、そのことばに入ってますので、共感していただけた気がして、嬉しいです。
本年もよろしくお願いいたします。

☆theotherwindさんへ
言葉で表現してしまうと、画一化というのか、一元化というのか、一方的というのか、物事にはいろいろな側面があるということを見えなくしてしまいがちです。「ことば こころのはな」なんて題でブログや寺報を書いている者の言うことではないのかもしれませんが。
ことばは、人と人を結びつけもしますし、傷つけもします。それだけに、発する側・聞く側、双方に、感じるこころが必要なのだと思います。
 
「フラッと」
私も、そんな感覚なのだろうと考えていたのですが、
これもまた曖昧な記憶なのですが、どちらかの、なんらかの研究グループが、自殺にふみきる人のこころの動きについて、決して「フラッと」ではない…という研究結果が出たと発表されていました。
その内容を読んでいませんし、曖昧な記憶ですが。
  
ことばで表現できないことは、たくさんあります。
でも、感じることは(感じようと努めること)は出来ます。感性を大事に生きたいと思います。

書くということで私も聞法させています。かつさんの
ブログは本当に素晴らしいですね。書くことによってのみ私は聞法させていただいていますが、かつさんのブログの方がより多くの方々を導いているようですから、もう少し頻繁に更新された方が良いと思います。余計なことですが、申し訳ありませんでした。私も毎日書くことしか出来ない身となっていますが、書くことに由って聞法の内容がより明瞭になります。

☆やすさんへ
書くということは聞法
ホント、そうですね。書くこと、話すこと、発することで聞法させていただいています。南無阿弥陀仏
 
更新が滞り申し訳ありません。
イクメン中なもので

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