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2011年1月28日 (金)

親鸞さまがおわします⑫

【第12回 念仏 出遇いのおしえ】
   
「お上人さま」
善信(親鸞)の呼びかけに、源空(法然)上人は応えます。
「善信よ、どうしました」
「お上人さまが幼い頃、ご両親を亡くされた話をお聞きしました。思い返すことも辛いことだと思いますが、どうしてもお尋ねいたしたく思います。お上人さまは、親の仇に対する恨みをどのように無くされたのでしょうか。どのような修行をなされて、 安穏としたおこころを得られたのでしょうか。どうかお教えください」
「ふむ、私がどのようにして、親の仇に対する恨みを無くす境地に達したのか。そのことを聞きたいのですね。そのような境地があるのなら、私も達してみたいものです。それに、もしそのような境地に達せられる修行があるとして、私がその修行を成就させたのであれば、私は、あなたたちとは位の違う人間になってしまいますね」
「はい、それはお上人さまのことですから」
「善信よ、念仏が、極めることによって上位に辿り着くような教えであるならば、私は、あなたたちよりも上の、安穏とした境地に達しているのかもしれません。しかし、私が口にしている念仏も、あなたたちの念仏も、まったく同じものなのですよ。数を称えたから、懸命に称えたから、それに相応した境地に達するものではありません。阿弥陀の願いを誰もが受けているからこそ、このいのちを生き切ることができるのです。たとえどんなにつらく悲しいことがあっても、そのことを縁として生きていくのです。私は、親の仇に対する恨みを捨てきれずにいます」
善信や共に聞いていた一同はどよめきます。
「しかし、その事実は消せないのです。この事実から延びている道を、私は歩むしかないのです。つらいことです。つらいことですが、念仏の教えに出遇い、阿弥陀という伴走者がいることに気付かされました。両親を亡くしたが、私はひとりではないのです。そして、あなたたちにも出遇えました。念仏申す朋がいる。念仏のおしえは、出遇いのおしえなのでしょう。つらいことも、うれしいことも、すべて私のいのちとして生きていく。そのことを 念仏からおしえられました。ともに念仏申してください。私が お話できることがあるとすれば、それだけです」
源空上人は笑顔で話されました。一同の口から念仏の声が聞こえます。何かを求めての念仏ではなく、自然と溢れ出た念仏が。

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コメント

> 念仏が、極めることによって上位に辿り着くような教えであるならば、私は、あなたたちよりも上の、安穏とした境地に達しているのかもしれません。しかし、私が口にしている念仏も、あなたたちの念仏も、まったく同じものなのですよ。数を称えたから、懸命に称えたから、それに相応した境地に達するものではありません。

素晴らしいです……。感動しました。

朝、ごーーん、ごーーんとお寺の鐘が鳴り、「本堂にてお朝時のお勤めが勤まりま~す」というような言い方を致しますね。

「お勤めが勤まります」

馬から落ちて落馬しました…

違いました。

でも、ちょっと、日常会話、常識的な(?)、主語-述語の構造から言うと、よーーーく、考えてみると、ちょっと、あれっ?という、特殊な日本語になっているとも、言えます。(しょっちゅう聞いていて、聞き慣れていたらそうは思われないかも知れませんが)。

つまり、「みなさ~ん、お勤めいたしましょう」ではないですね。

「報恩講が勤まります」

「仏説阿弥陀経のお勤めが勤まります」

などなどなどなどの言い方がありますが、一般的に言うと「お勤め」が主語、「勤まります」が述語動詞と言えそうです。

「私がお勤めします」ではないのですね。

これは、おそらく、「お勤めが勤まる」ところに居る場合、聞法している、聞いているという意識が、話者にあるからだと、思いました。

いえ、たとえば、口称念仏している場合、自分が発声した声が自分の耳に聞こえているだけではないか…と言われてしまえばそれっきりなので、浄土仏教以外のご宗旨からみると、単に、主語-述語が変、で終わりなのかも知れませんが……。

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