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2010年12月17日 (金)

いのちに出遇う

12月8日(水) 西蓮寺聞法会
暮れのお忙しい中、ご参加くださった皆さま、ありがとうございます。今年も一緒に聴聞できましたこと、ありがたく思います。
西蓮寺聞法会は、私(副住職)が、話をさせていただいています。本山出版の『真宗の生活』をテキストにしています。いつもは参考資料を集めてレジュメを用意しているのですが、今回は話の要旨を文章にしてレジュメに書き著しました。
   
   
『真宗の生活』(2010年版)
12いのちに出遇う

【出遇い】
真宗において、大切な師・友(朋)・教え・出来事との出会いを、「遇う」と表現します。
「遇」には「たまたま」という意味があります。偶然の「偶」の字と同じ意味です。つまり、私が会おうと志して、私が会いたいと願って会えるような出会いではないのです。私の力や想いを超えたところに用意された出会い。その出会いを「出遇い」と言います。会い難くして、出会えた出遇いなのです。
   
 (参考)三帰依文
  人身受け難し今すでに受く
   →人身の針のたとえ
  仏法聞き難し今すでに聞く
   →盲亀浮木のたとえ
   
しかし、だからといって「あぁ出会えてよかったなぁ」と、出会いを感謝しましょうという話ではありません。感謝だけでは言い表せない出遇いが、人生にはたくさんあるのですから。
大切な師・友(朋)・教え・出来事との出会いを、「遇う」と表現しますと言いました。それだけを聞くと、喜ばしい出会いを「遇う」と表現するのだなと勘違いしてしまいがちです。驚くべきことに、「遇」には、「遭」という意味も含まれています。 「遭難」の「遭」です。つまり、自分にとって都合の悪い出来事との出会いも含まれるというのです。
真宗の教えに向かい合った頃、私は分かりませんでした。どうして、大切な師・友(朋)・教え・出来事との出会いを表現する「遇」に、都合の悪い出来事にあうという意味の「遭」という意味が内包されるのかが。
   
人は、誰もが幸せを望みます。不幸な出来事は起きてほしくないものです。しかし、生きていると、自分にとって都合の悪い出来事も起こります。
お釈迦さまの教えは八万四千あると言われています(それほど多くのことを説かれたという意味です)。しかし、それらの教えの根幹には、「縁起の道理」があります。「物事は、すべて縁によって起こる」ということです。
こんにち、自分にとって都合の良い出来事があったときに、「縁」を用います。「良いご縁をいただいて」「良いご縁のおかげで」など。しかし、お釈迦さまがお説きくださった「縁起の道理」ということは、自分にとって都合が良かろうが悪かろうが、すべて「縁」によって起こるのです。つまり、良い縁 悪い縁と区別する私がいますが、「縁」そのものには良いも悪いもないのです。
生きるということは、大切な人との別れがあります。どんなに別れたくないと思っていても、いつかその日は訪れます。でも、別れるという縁に先立って、出遇えたという縁があります。出遇うということがなければ、別れを悲しむということもありません。
  
 (参考)白骨の御文
   
或いは、幸せになりたいという私の想いが成就したとき、周りの人も同様に幸せでしょうか。いえ、私の幸せのために、犠牲になっている人もいるものです。縁を生きる、いえ、縁を生かされて生きるということは、同時に相反することが起きているということです。
或いは、こんな人間 存在しなきゃいいんだというヒトがいたとします。そのように想うということは、そう思わざるをえないことをされてきたということでしょう。仮にそのヒトの手を握る機会があったとします(心情的・物理的に無理なことではありますが)。悔しいことではありますが、どんなに冷徹・冷酷・冷血な人間でも、その手にぬくもりを感じてしまうのです。「いのちとはぬくもりなのだ」という台詞がありましたが(『真宗の生活』12いのちに出遇う)、「ぬくもり」とは、大切な人との間だけに感じることではなく、生きとし生けるものすべてに通じていることなのです。
決して、「こんな人間、存在しなきゃいいんだというヒト」を許せと言っているのではありません。「ぬくもり」の事実を語ったのです。
受け入れがたい事実から学ぶこともあります。「遇」に「遭」という意味が内包されているのは、そういう意味があるのかなと感じています。
  
「同朋新聞」12月号でインタビューを受けている藤原新也さんはおっしゃいます。
「結局自分の目の範囲内でしか世界を見られない人が非常に多い。生きている限りたくさんのことと出会う。それが生きているということなんですね」
「生きている限りたくさんのことと出会う」…それが、「遇う」ということなのではないでしょうか。「たくさんのこと」には、私にとって都合の良いことも悪いことも含まれます。それが、「遇う」ということなのです。でも、多くの人はそれが見えていない。見ようとしていないのです。
藤原さんは、「メメント・モリ(死を想う)」という写真集を出されています。人が、一番避けて通りたい出来事…「死」という出来事について、真正面から受け止められた作品です。
生が正しくて、死は負のことと位置づけられる現代社会において、大切な人との別れに直面したとき、私たちの思考は停止してしまいます。なにも見えなくなってしまいます。
正しいことのみを望み、負の側面を排除しようとしている現代社会。しかし、世の中、正ばかりでは成り立ちません。負の側面もあって成り立っています。それに、何が正しくて、何が間違っているのか。その答えだって、本当はないのです。その証拠に、どうしてこれだけ平和を希求する世の中で、いまだに争いが起こるのでしょう。それは、誰もが自分の正義を掲げるからです。一人ひとりの、一国一国の掲げる正義は、理の通ることなのかもしれません。しかし、ふたつ以上の正義が出会えば、そこにはたちまち争いが起こります。争いは、正義と悪がぶつかって起こるのではありません。正義と正義がぶつかっておこるのです。自分にとっての正義しか見えない。つまりは何も見えていない。つまり つまりは、生きるということの本質が見えないままに生きているということなのです。「ただ単に生命活動をしている」(『真宗の生活』12)だけなのです。
人間が生きているということの事実です。でも、こんなつらい事実なのに、私たちは、今、生きています。どうして生きていられるのか。そこには、私たちの想いを超えたはたらきがあるからです。そのはたらきを、親鸞聖人は「阿弥陀如来」と教えてくださいました。
「生きること、死ぬこと。どちらも不思議の中にあります」(『真宗の生活』12)…「不思議」とは、目の前の出来事にビックリ仰天という程度の話ではありません。「私たちの想いを超えた」という意味です。現代は、「生」と「死」を分断して考えますが、「生」も「死」も、ひとつなのです。仏教では、「生死一如(しょうじいちにょ)」と教えてくださっています。
「ぬくもり」ということも、体温の「ぬくもり」のみを言うのではありません。体温のぬくもりのみを温かいと言うのであれば、生きている間は温かく、死んだら冷たいというだけの話になってしまいます。しかし、『真宗の生活』12で書かれているように、亡くなられたおじいちゃんと生きているお孫さんが、ともに眠り込んでいる姿から、いのちのリレーというぬくもりが伝わってきます。亡き人から教えられることがたくさんあるのです。だからこそ、「父を失った悲しみだけではない涙が、あとからあとからこぼれ落ち」(『真宗の生活』12)たのです。
  
「いのちに出遇う」とは、「生を望み、死を遠ざけている私の姿」「幸せを望み、そのことによって他人を不幸に追いやっている私の姿」「平和を望む、結果争いを生み出している私の姿」に出遇うということなのだと思います。
それゆえに、真宗では「遭」という意味を内包する「遇」の字を使ってまで、「あう」ということを大切にしているのだと思います。
この事実の中を、生かされて生きている。くじけそうになる私を生かすはたらきを「阿弥陀如来」という。そうまでして生きている姿を、親鸞聖人は「身を粉にしても」「ほねをくだきても」と、感動をもって表現してくださったのだと、私はいただいています。
   
 (参考)西蓮寺寺報
  「ことば こころのはな」12月号
   「恩徳讃」から教えられること

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コメント

縁に由って生かされていることを痛切に感じさせられます。偶々(偶然)のことが必然であると感じさせられる毎日です。人は自分だけで生きているとは、到底あり得ないことですね。順縁・逆縁共に恵まれて生かされています。

☆やすさんへ
今年前半はお会いすることができませんでしたが、後半は聞法会・白骨・おみがきにも参加していただけて、有り難く感じております。
 
「偶然は必然」ということを、痛切に感じます。
「縁に恵まれている…順縁・逆縁共に」いのちあるものの真理ですね。すばらしい

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