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2010年12月28日 (火)

親鸞さまがおわします⑪

【第11回 闇を照らす光】

長い間暗闇だった部屋が、明るさを取り戻すまでに、どれくらいの時間がかかるだろうか。暗闇であったのと同じだけの時間がかかるか。いや、どれだけ長い間暗闇であったとしても、そこに光が射したならば、部屋は瞬間に明るくなる。
苦悩の世を生き、自身の迷いのこころに縛られてきた。その時間がどんなに長くても、そこに光が射せば、たちまち人生に光明が満ちてくる。
だからといって、暗闇そのものがなくなったわけではない。光は、接するものがあって初めて光の事実が現れる。接するものとは、私の迷いのこころ。迷いがあるところに、光が満ちてくる。暗闇そのものがなくなったわけではない。状況はなにも変わらない。けれど、迷いのこころ…自身に向き合うときに初めて、光を、阿弥陀の慈悲を感ずる。その光は、自身に向き合った者だけを射すのではない。光は、生きとし生けるもの すべてを照らしている。今までずっと。その光を感じることなく、苦悩に沈み、迷いに埋もれている私。しかし、暗闇を作り出しているのは、実は私であった。苦悩を取り除くことによって、明るい人生を求めていた。けれど、苦悩あるからこそ、光を感じることが出来る。
   
親鸞聖人の師 源空上人は、一切の経文を何度も繰り返して読むうちに、善導大師の『観経疏』の一文に出遇われました。
 
一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥、時節の久近を問わず。念念に捨てざるをば、これを「正定の業」と名づく、かの仏願に順ずるがゆえに。
    
ただ南無阿弥陀仏。何度も読んだはずなのに、あるとき、この一文が上人の目を奪いました。
親の仇に対する怨みを消すことに努めていた上人。怨みを消せない自分を許せない上人。が、怨みを持ったままの私を待っていてくださる光があった。阿弥陀如来の慈悲の光明にすでに照らされていた。そのことに気付かぬ私であった。
ただ南無阿弥陀仏。源空上人43歳、専修念仏の道をあゆむことに、こころが定まりました。
   
月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ(源空上人)
   
  
   
(雑記)
親鸞聖人750回御遠忌を前に、親鸞聖人の生涯にふれてみようと書き始めた この「親鸞さまがおわします」。
1年で終わるつもりで、昨年の暮れには1年分の構想を練っていたのですが、いざ書き始めたら、書ききれませんでした。
「親鸞さまがおわします」という題でありながら先月と今月は、師 源空上人のことについてふれました。親鸞聖人が私たちにお示しくださった念仏の教えは、源空上人の幼少期の出来事を抜きに語れないと思ったからです。
「親鸞さまがおわします」は、私の頭の中で膨らんだ想いも加わっていますので、必ずしも、現代に正当として伝わっている通りの“親鸞伝”ではありません。そのことも加味しながらお読みいただければと思います。
来年もお楽しみに。

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コメント

たとえば千歳の闇室に、光もししばらく至ればすなわち明朗なるがごとし。闇あに室にあること千歳にして去らじと言うことを得んや。

来年も楽しみにしています。

☆theotherwindさんへ
「たとえば千歳の闇室に、光もししばらく至ればすなわち明朗なるがごとし。闇あに室にあること千歳にして去らじと言うことを得んや」
はい、その通りです
  
本年もお世話になりました。
来年もよろしくお願いいたします。

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