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2010年12月 1日 (水)

2010年12月のことば

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如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし
         親鸞聖人

    
今月のことばは、親鸞聖人が詠まれた ご和讃「恩徳讃」です。つどいや法話会の閉式の際に唱和されます。
    

阿弥陀如来の大悲の恩徳は
身を粉にしても報ぜずにはいられません
お釈迦さまや導いてくださる祖師たちの恩徳も、
骨をくだいても感謝せずにはいられません。
    
(真宗大谷派宗務所出版部発行
「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌同朋唱和勤行集」より)
 
     
素直に現代語訳すれば、このようになります。しかし、私は違ういただき方をしています。
    
生きるということには、人それぞれ苦悩が付きまといます。苦悩を抱えながらも生きていく姿、その姿自体、「身を粉にしても」「ほねをくだきても」の姿なのです。つまり、私たちの生き様は既に、「身を粉にしても」「ほねをくだきても」生きていることを体現しているのです。
「阿弥陀如来の大悲の恩徳に、身を粉にするほどに報じましょう」「師主知識の恩徳に骨を砕くほどに感謝しましょう」と言った場合、「信じたから、恩に報いる」「有り難く思ったから、感謝する」という受け取りになってしまします。ということは、「信じられないから恩に報いられない」「どうしてそれほどまでに感謝しなければいけないのか」という否定・疑問・自己肯定が生じます。
あるいは、消えることのない苦しみに、「これだけ恩に報いているのに、これだけ感謝しているのに、なぜ苦しまなければならないのか」と、報恩の想いを翻しかねません。私たちが思い立つ報恩や感謝には、そのような危うさがあります。
宗教を頼りにするといっても、我が身を中心において、より良い境遇を願う我執があります。これだけのことをしているのだから、報われて当然。自分の行いに対して、利益・対価を得ようとすることが、果たして信仰でしょうか。
     
   
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし(そうなるべき縁がもよおすならば、どのような振る舞いでもせざるをえないのです)」と説かれた親鸞聖人。
このことばは、親鸞聖人と弟子の唯円さんとの会話で出てきます。
「聖人の仰せならば、背きは致しません」という唯円に、聖人は「人を千人殺して来なさい」と命じます。「それはできません」と唯円が返せば、「人を殺さないのは、善い心を持っているからではありません。また、決して殺害はしてはいけないと思ったとしても、殺すということもあるかもしれないのです」と聖人は諭します。
このお話を紹介すると、「人を殺すことはよくない」「人は、もっと強い心を持っている。戦争や殺人を避けることもできる」と反論されることがあります。しかし、想いを超えた縁を生きているのが私です。戦争や殺人を避けることができたとしたら、それは、戦争や殺人を犯さずに済むご縁をいただいたということなのです。それにこのお話は、殺害の是非や縁の仕方なさを伝えるためのおしえではありません。
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という聖人のことばは、「ここに、人がいる」 そのことに気付けよ! ということばなのだと感じるようになりました。
   
「縁起の道理」を説かれたお釈迦さま、「縁を生かされて生きている私の姿」を説かれた親鸞聖人。その教えの背景には、「ここに、人がいる」という響きがあります。
「ここに、人がいる」。何を言っているんだと思われるかもしれません。しかし、そんな当たり前のことに気付かずに、自分さえよければいという生き方をしているではないですか。人(いのち)というものが、全く見えていないではないですか。
「ここに、人がいる」自覚によって、人に優しくなれるなどと訴えようというのではありません。さまざまな縁が織り成す人生模様の中を生きている私たち。嬉しく、楽しいことばかりではありません。つらく悲しいこともあります。悲しみは忌避し、楽しいことを求めますが、そのことは生きている事実を覆すことではありませんか。
先に、宗教によりよい境遇を求めていると書きましたが、そのような要求は、つまりは自分で自分の人生を否定しているようなものなのです。「ここに、人がいる」自覚とは、このような生き方をしている自分自身への警鐘(目覚め)でもあります。
   
私を悲しみもろともに包みこんでくださる阿弥陀如来の大悲
私に先立って、いのちを生ききられた師主知識
それらの礎があるからこそ、私は、悲しみのままに生きていける。「ここに、人がいる」ことを感じながら。
その姿は、身を粉にするほどに尊く、
骨をくだくほどに美しい。
(「恩徳讃」拝受 西蓮寺副住職 釈勝願)

     
     

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コメント

小学生の頃からテレビのニュースで事件の報道を見るたびに、加害者となってしまった人の気持ちをおもいました。もちろん、想像しきることは不可能です。本当に分かることはできません。コミュニケーションの不可能性、孤独をおもいました。自分も知らない間に大きな罪を犯しているかも知れません。日本はいわゆる先進国ですから日本人として、のほほんと生きているだけで、広~い意味では、世界のどこかで、誰かの命を奪っているかもしれません。また、自分も明日、大きな罪を犯してしまうかも知れません…。

最近、怖いのは、何か、テレビに自分が映らない限り、自分が本当に生きているのか分からない…と言っているだけとしか思えない理由で、今、目に見えないが、この人も家に帰れば家族がいるだろう等の、目に見えないことに対する想像力が限りなく薄いとしか思えない、無差別な暴力のようなことが増えているように思えることです。

確かに町を歩いている人の中には家族と一緒に歩いているわけではない人はいます。家族はその場で目に見えません。けれども、この人も家に帰れば家族いるだろうと目には見えないものを想像するのが普通なはずなのに、無差別に、ナイフで刺してしまってから、

☆theotherwindさんへ
今年はたくさんコメントを頂戴し、ありがとうございます。すぐにお返事できなかったり、しなかったりで申し訳ありません。
 
文章後半「ここに、人がいる」を連呼していますが、theotherwindさんがおっしゃるように、想像力の欠如に対する警鐘でもあります。
人を傷つけてしまうことは、“縁”によることです。でも、想像力は、もっとはたらかせられるとおもうのです。
「日本人として、のほほんと生きているだけで、広~い意味では、世界のどこかで、誰かの命を奪っているかもしれません」と思います。
今、上手くいっていることがあったとしたら、その背景には周りの人の努力や犠牲もあるものです。
今年は「無縁社会」なることばが出てきましたが、そうはいっても、誰にでも家族や友人がいて、私のことで悲しんでくれる人は、まだまだいるものです。個人を見つめると、複数の人がいることを感じさせられます。
  
「ここに、人がいる」
目の前に人がいる、と存在として言っているのではなく、様々な背景によって成る人が生きていること。もっと想像力をはたらかせて、人を感じなければいけないこと。
聖人のおしえは、そういうことを訴えているんじゃないかなぁと想っています。

師走のお忙しいときに、有り難うございます。今、私のコメントを見ましたら、忘年会の帰りに携帯電話から投稿しているので、文字制限で、途中で文章切れておりました…。失礼いたしました。

> 町を歩いている人の中には家族と一緒に歩いているわけではない人はいます。家族はその場で目に見えません。けれども、この人も家に帰れば家族いるだろうと目には見えないものを想像するのが普通なはずなのに、無差別に、ナイフで刺してしまってから、

……もっと言えば、自分が容疑者となって、自分のことがTVの画面に映って、TVという装置の画面の枠の中に出て、テロップや、ナレーション、解説がついてから、初めて、そこで、TVという機械の無機質な解説、神の声をダイレクトに、直接に、お告げとして聞いて、素直にそのまんま、神の声として聞いて、「大変なことをしてしまいました」と気づいたと、言っているとしか思えない、そういう事件が起きてきている気がします……。加害者に主体がありません。恐ろしいことです。

良く挙げられる有名な例として、地震がありましたと、自分の家が海岸から近いですと。が、何をしたかというと、即時、自分の身、身体が先ず動いて高台に逃げました…ではなくて、TVという神様から津波が来るから高台に非難せよという直接の指示、お告げが来るまで待っていましたと。当然、TVにテロップが出るよりも津波の方が早く来るので、死にかけました……という例。

はぁ?という話なのですが、だんだんにボディーブロウで効いてきます。本当にそういう傾向はあるのかもしれないと。ものすごく変わった人だけではなくてと。そう思うと、上記の例、ものすごく恐ろしいことです。

伝統的には、先ず、身が動いてしまう。何かやらかしてしまう。つまり、神様に背いている自分の身体がある。たとえば高台に逃げるとか。けれども、本当にベストの選択だったどうかは、自分勝手に身体が動いているだけだから分からない、そういう自分に罪の意識とか危うさとかを実感もするという、神様から見たら間違いかもしれないなというのと、先ず、やらかしてしまう自分、神様の呼び掛けに逆らっている、耳を傾けていない自分があるという二重の視点があったわけですが、今は、自分の身体というのが希薄になっている気がします。

今はTVという神様のお告げがないと、TVの中に自分が映らないと、自分が生きていることさえ気がつきませんでした…と言っているとしか思えない事件があり、被害者はもちろんのことなのですが、加害者になってしまった人にも、何か、悲しみを覚えます。

自分の視野は限られていると思うから、自分には見えていないものがあって、見えていないものは大事だからとあって、想像力があるわけです。

> 今年は「無縁社会」なることばが出てきましたが、そうはいっても、誰にでも家族や友人がいて、私のことで悲しんでくれる人は、まだまだいるものです。個人を見つめると、複数の人がいることを感じさせられます。


自分を信じてくれている人がいる、ということ、人間としての、一番、底のものが壊れつつあるのかもしれない思います。応仁の乱以降のような状況なのかも知れません。具体的、個別的にはもう誰も自分を信頼してくれている人を名指しできない、自分が何をしてしまっても悲しんでくれる人を、具体的、個別的には名指しできない…という世の中になってきつつあるのかも知れません。

法然上人や親鸞聖人の時代に、現代は近くなってきているのかも知れません。

それでも、全ての人は願われている…という受動態の文は成り立ちます。確かに主語は具体的には立てられませんが…。だったらその願っている人を見せて見ろと言われても、すがたかたちの問題ではないですけれども…

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