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2010年11月 1日 (月)

2010年11月のことば

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 やり直しがきくのが真宗だ!
    
先月号では、「人生やり直すことなど不可能なこと」と書きました。すると、今月のことばと矛盾するようですが、いえいえ、矛盾などしないのです。
先月の文章を書くとき、人生やり直したいと言う人は、過去に戻ってやり直したいのだろうと思っていました。しかし、過去に戻ってやり直すのではなく、今、立っているこの場からやり直したいという人もいることに気がつきました。
やり直したいという想いは、どうして出てくるのでしょう。今への不満・過去への悔恨もあるでしょう。自分自身への不信・嫌悪感もあるのかもしれません。
原因はなんであれ、リセットすることを念頭においての「やり直し」は不可能な話です。縁を生かされて生きていることへの否定でもあります。それは、自己否定でもあり、生きとし生けるものすべての否定でもあります。
先月から、どうして人生のやり直しにこだわっているのか。べつに、私自身がやり直したがっているわけではありません。「やり直したい」と考えるとき、「ありがとう」の一言を忘れてはいないだろうか、という想いがあったのです。
御礼の意味の「ありがとう」だけではありません。私が私であるために(私が私になるために)、どれだけのいのち・事柄との出遇いが必要であったことでしょう。それらとの出遇いが、どれだけ有ること難い事実であるか。「有ること難い」事実との出遇いに目をつぶっているのではないですか? そのような意味で、「ありがとう」の一言を忘れているのではないかと書きました。
「出会いに感謝ですね」と納得されてしまいそうですが、感謝できるような出会いだけの話ではありません。
人生における出遇いには、さまざまな出遇いがあります。「会えて良かった」と思える出会いもあれば、「こんな人に会いたくなかった」「どうしてこんな目に遭わなければならないんだ」という出遇いもあります。良い出会いばかりを望みますが、そうはいきません。
私としては良い出会いのつもりでいても、相手にとっては悪い出会いだったということだってあるでしょう。
火葬場で、ご主人との別れに、嗚咽・号泣されている奥様を見かけたことがあります。別れは辛く悲しいものです。どうしてこれほどまでに悲しい想いをしなければならないのでしょうか。でも、人目もはばからぬほどに嗚咽・号泣してしまう人と出遇えるなんて、誰にでもあるわけではありません。大切な人との別れという悲しみと共に、大切ななにかを受け取られたはずです。
 
親鸞聖人の教えを受ける私たちは、善き人・善き教えとの出会いを、「出遇い」と表現します。しかし私は、「出遇い」とは、嬉しいことも悲しいことも含めて、すべての出遇いを包み込んだことばであるといただいています。
このようなことを書くと、「悲しんでいる人に、面と向かってそんなことをいえるのか!」とお叱りを受けます。しかし、私にとって嬉しいことも、悲しいことも、「出遇い」とはすべてを含んでいるのだという想いに変わりはありません。だからこそ、「やりなおしがきくのが真宗だ!」なのです。
人生におけるすべての出遇いが、私を私とするために必要なことであった。そのいただきが、新たな一歩を踏み出さしめます。リセットする必要のない「やり直し」が、親鸞聖人のおしえにはあります。生きる勇気・踏みとどまる力を与えてくださいます。
   
   
   
今月のギャラリー 親鸞聖人
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