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2010年11月 2日 (火)

遇うは再会なり

2010年11月のことばの文章(前の文章)でも触れていますが、「遇う(あう)」ということについて いろいろ考えています。
御遠忌に際し、東京教区では「親鸞聖人に学ぶ講座」が開催されています。私も、2ブロックでお話をさせていただきました。そのおかげで、「親鸞聖人に遇う」ということで思索を深めました。
 
真宗では、善き師、自分を仏教に導く善き出来事に「あう」ことを、「遇う」と表現します。
しかし、私にとって「あぁ、出遇えてよかった」と言える出会いなど、自己満足にすぎません。そのような出会いは、ちょっと風向きが変われば、すぐに「なんで こんな目に遭うんだ」と愚痴が出ます。
 
そうではなくて、極端な話、この世におけるすべての出会いが(私的に善かろうが悪かろうが)、私を生かしめるために大切な出遇いなのです。
「親鸞聖人に人生を学ぶ講座」の講師を仰せつかって、話を重ねるうちに、そのようにいただくようになりました。
 
「遇う」とは、この世におけるすべての出遇いのことである。たとえ自分にとって都合の悪い出来事であっても、嫌な人であっても、そこには、出遇うべくして出遇った大事な意味がある。
そのように感じます。以来、私の話は、そこを基点としています。
   
11月2日(火) 存明寺報恩講逮夜にお邪魔させていただきました。
2日の報恩講逮夜と、3日の報恩講のお話は、今年は佐野明弘先生です。お世話になった先生であり、「人間として生きることから逃げるな」というメッセージが込められたお話をされる先生なので(私の受け止めとして)、一聴衆として参加させていただきました。
お話の最後の最後に、「遇う」ということについてお話くださいました。
 
(佐野先生)
「遇う」とはですね、初めて会うんじゃないんです。以前にどこかで会った。そして、また会うことができた。それが「遇う」なんです。阿弥陀との「出遇い」です。初めて会うんじゃないんですね。すでに遇っているんです。そして、また遇うことができた。そういう出会いを、「遇う」というんですね。
(以上、私のノートより) 
    
  
そうか、「遇う」とは「再会」なんだ。
私が信心を持って 阿弥陀如来を信じる…のだと思っている人も多いと思いますが、私が信心を得ようが得まいが、信じようが信じまいが、既に出遇っているんです。阿弥陀如来に。すでにすくわれているんです。
なのに、そのことに気付かずに、自身が起こす迷いの中を彷徨っている。
「遇う」とは「再会」であり、「気付き」であった。自身が起こす迷いを彷徨う自己であったという、私との出遇いが、阿弥陀如来との出遇いなのです。
「遇う」ということばの持つ大切さを、あらためて感じさせていただきました。ありがとうございます。
明日は、法中として参詣させていただきます。 
  
ついでの話になります
今年の夏でしたか、日本テレビで「となりのトトロ」を放送して以来、娘がトトロにはまってしまい、毎日見ています。でも、テレビの放送を録画したので、コマーシャルが映っています。
コマーシャルカットで見たかったので、DVDを買ってきました。そのときに、「千と千尋の神隠し」も一緒に買いました。私的には、宮崎アニメは「ルパン三世 カリオストロの城」と「千と千尋の神隠し」が好きなもので。
  
でも、娘がトトロにはまっているので、「千と千尋」はずっと見ずにいました。
が、妻が留守の昨日、娘が「トトロ」と催促するのを無視して、「千と千尋」のDVDをつけました(いけない父親です)。
娘は、主人公の女の子の お父さんとお母さんが豚になってしまうところなどを恐がっていましたが(ネタバレは気にしなくていいですよね)、「大丈夫 大丈夫」といって、一緒に見ました(う~ん、いけない父親です)。
    
好きと言いながら、何年も見ていません。「あれ、こんな話だったっけ?」と内心でつぶやきながら、娘と見ていました。娘は、トトロの体型に似たキャラクターが出るたびに「トトロ トトロ♪」と喜んでいます。ごめんね。
   
主人公の女の子は、人間の世界から神々の世界に迷い込んでしまいます。不安な少女を、助けてくれる少年がいるのですが、彼は魔法をかけられ、自分のことをなにも思い出せません。でも、その少女のことは「昔会ったことがある」と、覚えています。
少女は、「昔会ったことがある」と言われても、思い出せません。「会ったことあったっけ? いつ? どこで?」。思い出せないとはいえ、自分の数少ない味方です。少女も、必死で彼のピンチに立ち向かいます。
クライマックスが近づき、少女は彼との出会いを思い出し、そのことを告げることによって、彼自身も自分のことを思い出し、魔法の呪縛から解き放たれます。
    
「あぁ、こんなストーリーだったんだ!!」と感動しました。娘も、恐がりつつも、最後まで一緒に見てくれました。
好きな宮崎作品だって思っていたわりに、なにも覚えていませんでした。
「カリオストロの城」も、数え切れないほど見ているのに(宮崎アニメに限らず、おそらく一番何度も見た映画です)、見るたびに感動があります。先日テレビで放映したときも、見てしまいました。  
映画(映画に限らずドラマでもそうですが)って、なにも覚えてないものですね(私だけ?)。
    
   
さて、「遇う」ということですが、
佐野先生のお話を聞く前日に、「千と千尋の神隠し」を数年ぶりに見たことによって、「昔、既に出会っていて、そして再会を果たすこと。そこに、私を生かすための大事な意味がある」ということを学びました。親鸞聖人との出遇いも、南無阿弥陀仏のおしえとの出遇いも、阿弥陀如来との出遇いも、すべて再会なのです!!
       
娘が「となりのトトロ」に興味を持っていなかったら…いや、その前に、娘がいなかったら…いや、そのまた前に妻と結婚してなかったら、
佐野先生との出遇いがなかったら…いや、その前に、東京五組推進員養成講座がなかったら…いや、そのまた前に、私が寺に戻ってなかったら、生まれてなかったら、
存明寺さんが佐野先生を呼んでくださらなかったら…いや、その前に、存明寺さんと同じ真宗大谷派でなかったら、
などと、「こうでなかったら、出遇えなかったかもしれない…」と考えることもありますが、いえ、出遇うことができたからこそ、「出遇えなかったかも」なんて考えられるのです。
出遇えた・・・つまり「再会」なのです。私的に喜べる出遇いも、つらい出遇いであろうとも…
再会を祝して乾杯
   
11月3日、報恩講法要に先立って、ご法話を聴聞させていただきます。再会を喜ぶために。 
南無阿弥陀仏

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コメント

>2日の報恩講逮夜と、3日の報恩講のお話は、今年は佐野明弘先生です。

お参りさせていただきたかったんです…。WebサイトからPDFダウンロードして印刷してあったのですが…3日、うちの会社、普通に出勤日だったのでした(T_T)。無念。

 
>(佐野先生)
「遇う」とはですね、初めて会うんじゃないんです。以前にどこかで会った。そして、また会うことができた。それが「遇う」なんです。阿弥陀との「出遇い」です。初めて会うんじゃないんですね。すでに遇っているんです。そして、また遇うことができた。そういう出会いを、「遇う」というんですね。
(以上、私のノートより) 


おーーー、近代西欧哲学とまったく同じ考え方ですね。あるいはフロイト精神分析とまったく同じ考え方。

基本中の基本。

初めて会うものは認識できない。

認識とはいつでもつねに再認である。

There is a pen on a table.(外在判断)ということを再認できるためには、This is a pen.(属性判断)が権利的に、論理的時間において先行するものとして要請される…というやつですね。

(ここにペンが外在しているということを認識できるためには、何がペンなのかという属性を、先験的に、知っていないといけないことに論理的にはなるよね…という哲学の基本。でも、そうすると現実にはどこにも外在しないペンの属性、本質みたいなものを、人はその全経験に先立って既に知っていないといけなくなりますね…というような議論。時間論、言語論、起源神話論、真に論理的な論理はつねにその外部の内部に無から有の創造を含むというような議論、実体化の誤謬議論……等々)

フロイト精神分析だと、絶対的他者からの呼びかけが、「いつでもつねにすでに」、自分に届いていたということの再認。

(でも絶対的他者からの呼びかけは、無意識の主体が叫んでいるから、助けてぇ~と呼んでいるから、要請される。無意識の主体は「どこでもない場所にある」議論…)

お参りさせていただきたかった…(T_T)

☆theotherwindさんへ
佐野先生のお話を久しぶりにお聞かせいただき、感謝でした。

ポニョの、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称名念仏しているところが好きだったりします。

阿弥陀様がお出ましになられたのではなくて、観音様のお渡りだーーーっ、というシーンなんですけれども

念仏と言ったら南無阿弥陀仏と称えることが代表なんでしょうね…

☆theotherwindさんへ
実は、「ポニョ」は見たことがないのです。
ポニョの称名念仏…見てみたいです。

> ポニョの称名念仏…見てみたいです。

ポニョがナンマンダブ、ナンマンダブと称えるわけではないです(^0^;)、すみません。

無から有の生成力が出てくるお話なのですが、如来そのものが実体としてお出ましはありません。

全宇宙、不老不死になって、生命力があふれてしまうと、死をなくしてしまうと、宇宙がカオスになり、意味、宇宙の構造が壊れてしまいます。

うわーもーだめだー。

観音様が、どーーーーーーん。

で、観音様に向かって、ナンマンダブ、ナンマンダブと称える人が、多分、役の名前もないような登場人物が出てきます。

なんで阿弥陀仏なんだ…というと、多分、何か口で称えると言ったときの、民俗。

>「ルパン三世 カリオストロの城」

打ち上げ花火みたいので、塔にロープをひっかけようとしたら、急勾配の屋根の上で落っことしてしまうところ、好きです

>「千と千尋の神隠し」

これはやはり「よきかな…」というシーンが最高

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