« 寺報を書いてたから、たくさんの人に遇えたんだなぁ | トップページ | 真宗本廟 »

2010年9月 1日 (水)

2010年9月のことば

  Dsc_1335
  前(さき)に生まれん者は後(のち)を導き
  後に生まれん者は前を訪(とぶら)え
         『安楽集』

   
春分の日と秋分の日を中日とした 一週間を「彼岸」と言います。インドの言葉の「パーラミター」(意味:渡る・越える、など)が中国で「到彼岸」と訳され、日本に伝わり「彼岸」となりました。
「彼岸」とは阿弥陀如来の浄土の世界。「西方浄土」と表現されるように、浄土は西にあるという思想が、日本には強くあります。太陽が真西に沈む春分・秋分の日に、日の沈む方角、真西に浄土を想うのです。
「彼岸」とは、「彼の岸」へ「渡る」ということです。では、どこから渡るのでしょうか。「此岸」です。「此岸」とは、私たちが生きている この迷いの世界です。
「此岸」から「彼岸」へ、迷いの世界から阿弥陀の浄土へ渡ることを「彼岸」といいます。
   
さて、迷いの世界を生きる私ですが、迷いといっても、個人的欲望を原因として生じる迷いではありません。私が生きるということ、そのこと自体が迷いなのです。
   
私の人生は、誰も代わる者がいません。ひとり生まれ、ひとり生き、ひとり死んでいくのです。
お釈迦さまは、「すべては縁によって起こる」と、縁起の道理を明らかにしてくださいました。あらゆる縁によって物事は起こり、今、私はここにいます。 
  
「つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるる」(親鸞聖人)
私中心に考えれば、人との出会いもあれば別れもあるというだけのことです。しかし、「すべては縁によって起こる」中を生かされて生きている私です。私ひとりだけの話ではありません。私が誰かと出会うとき、同時に別れが起こっているのです。私が誰かと別れるとき、同時に出会いが生じているのです。
幸せを望んで生きるというけれど、私が幸せを享受すると同時に、哀しみに暮れる人がいるのです。
 
自分さえよければいいという視点で見ていては見えないことが、同時に起きているのです。そのことが、生きるということの持つ事実。「此岸(迷いの世界)」を生きるとは、そういうことなのです。
このような此岸(迷いの世界)を生きる私に、阿弥陀の浄土への道は開かれています。阿弥陀の道は、迷いを消してくださる道ではありません。迷いの世界を生きながらも、私が歩むべき道、踏みしめられる大地が、確かにあるのです。
この迷いの世界を、私に先立って「南無阿弥陀仏」と称えながら生き抜かれた人たちがいる。その歩みが、今、私に届いています。そして、私の歩みが、後の人を導きます。
 
「南無阿弥陀仏」と称えることで、会うことの叶わぬ古の人とも、未来に生まれる人とも、この念仏の道において、共に歩めるのです。
縁を生きる中で出遇った、先に逝く人。その人との出会いによって、私の中に何が生じたのか。その人の死から、何を受け止めたのか。そして私は、どう生きるのか。先逝く人は、私に問うています。
「彼岸」は、亡き人を偲ぶ仏教週間ではありません。自分自身を見つめ直す時間を、足元を確かめる視線を、先逝く人からいただいているのです。南無阿弥陀仏の念仏とともに。
    
   
 
今月のギャラリー
Dsc_1321 Dsc_1324

« 寺報を書いてたから、たくさんの人に遇えたんだなぁ | トップページ | 真宗本廟 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 寺報を書いてたから、たくさんの人に遇えたんだなぁ | トップページ | 真宗本廟 »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ