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2010年8月27日 (金)

敬語で話せる場

こんにちは 白山勝久です。
本山(京都 東本願寺)発行の「同朋新聞」8月号 4面「現在(いま)を生きる」に取材記事を載せていただいています。
9月号が発行されましたので、8月号の記事をここで紹介させていただきます(出版部さん、アウトだったら連絡ください)。
        

敬語で話せる場
  ~髙德寺「寺子屋の時間」~
   東京教区東京5組 髙徳寺同朋の会

 「ご法話を聞きに、ぜひ報恩講にお参りください」。報恩講を目前に控えた秋のお彼岸でも、報恩講を終えた年の暮れでも、副住職の新井義雄さんは同じ誘いの言葉をかけてきました。
 親鸞聖人の教えに出遇ってほしい。新井さんのその想いに偽りはない。手書きにこだわった寺報「おかげさん」は、13年で50号に達します。寺報は続けてきたけれど、髙德寺において、聞法に誘う場は報恩講だけ…。そこで新井さんは、聖人の教えに出遇える場を作るため、同朋の会を立ち上げました。講師を、日ごろお世話になっている本多雅人蓮光寺住職に依頼すると、「お引き受けいたします。しかし、あなたが、聖人の教えを伝えたいという想いで立ち上げられる会です。あなた自身のいただきを、あなたの口からもお伝えください」という言葉をかけられ、交互にお話をすることにしました。2007年1月、髙德寺同朋会「寺子屋の時間」が誕生しました。
 同朋会の参加者は、寺報によって副住職の想いを元々感じ取っていました。その土壌があり、参加者どうしが仲良くなることに時間はかかりませんでした。悲喜こもごもの自分の想いを語りあえる場として、寺子屋は笑顔の絶えない場となりました。
 だからといって、馴れ合いはない。参加者の一人が言いました。「ここは、敬語で話せる場なんです」と。決して、年功序列とか、自分より経歴が上だから敬語を使うという意味ではない。自分の経歴・身に起きたこと・今抱えている悩み。そういったものを吐き出せる場であるからこそ、寺子屋に集う人々は、相手に対する敬意が自然にわいてくる。寺子屋を通して、教えに触れる人が一人また一人増えていく。相手を敬う気持ちに目覚めながら。
 同朋の会の結成を教務所に申請し、提灯が授与されました。「提灯」は、私たちを照らし出す法の灯を表しているのでしょう。他者を敬う気持ちを持つことによって、その人自身の存在の尊さが照らし出されてきます。
(東京教区通信員 白山勝久)


   
      
日ごろお世話になっている髙德寺様ですが、よそのお寺の同朋の会に顔を出すということは、なかなかありません。取材という形ではありましたが、温かな場に加えさせえていただきました。
  
さて、紙面では伝えきれなかった想いを少々。
「敬語で話せる場」などと言うと、こんにち 敬遠されそうですよね。「どうして敬語で話さなくてはいけないのか」「堅苦しい場だ」などと思われてしまうかもしれません。しかし、記事の題名を「敬語で話せる場」としたのは、寺子屋に身を置いていて、参加者のみんなが自然に相手を敬っているような空気に触れたからです。「敬語」といっても、国語の文法上の「敬語」をみんなが使っているというわけではなく、他者を認めながら接しあっているというような場の空気・雰囲気です。
親鸞聖人のおしえにふれ、つどう人々を、「御同朋御同行」と言います。聖人のおしえをよりどころとし、そこに集う仲間といった意味です。しかし、その「御同朋御同行」ということばが、ただの仲良し程度の意味になってはいないだろうかと、感じていました。もっと深いつながりが自然に築かれていくような関係。それを、「御同朋御同行」というのではないだろうか、と。
   
そんなことを日ごろ思っていた中で、寺子屋の参加者の方がポツリと言われたのが「ここは、敬語で話せる場なんです」でした。ビックリしました。
さっき、「敬語で話せる場などと言うと、こんにち 敬遠されそうですよね」と書きましたが、なんてことを書くということは、私自身が、敬語で話すことは堅苦しいことという想いを抱いていたのでしょう。
そんな私に、「ここは、敬語で話せる場なんです」という一言。「敬語で話せる」ということは、けっして堅苦しい関係ではなく、尊敬の念があるからこそ、自然にできることなんだと感じました。
その一言に感銘を受けて、今回の記事は、「敬語で話せる場」という題で書かせていただきました。
  
「御同朋御同行」とは、「敬語で話せる関係」。法に集う場で、他者を敬う気持ちが自然に築かれていく。
        
      
  
取材をして、以上のような想いをしたことを妻と話していました。
そういう背景があって過ごしたこの夏。   
        
妻が、秋田の実家に帰省していたときのこと。
妻と娘が散歩をしていると、向かいから小学生の子供たちが歩いてきました。子供の手には、ダンボールが。
妻と子供たちが対面したとき、子供たちから声をかけてきたそうです。
「こんにちは」
「こんにちは。なにを持っているの?」
「子猫を拾ったんです。見てください」
子供たちが持っていたダンボールの中には、まだ目も開いていないくらいの子猫が数匹。
「むこうの公園で拾ったんです」
「そうなの。元気になるといいわね」
「はい」
と、会話をして去って行ったそうです。
  
子猫たちのその後が心配ですね。
子供たちの話し方が、とても素敵だったと妻が言っていました。きっとご家庭でも、家族がお互いを敬いながら生活を共にされているのではないでしょうか。
子猫を飼うことを許してもらえたら、あるいは、誰か引き取ってくださる方が見つかっていればいいのですが。
                  
    
    
「敬語で話せる」って、敬うとか尊ぶとか、そのような意味合いで言っているのではありません。人と人とが、人と人としてお話ができる。逆に、敬うとか尊ぶとかいった感情が入るまでもなく。そういう関係が、「御同朋御同行」なのかなぁと、感じた夏でした。    
髙德寺様及び「寺子屋の時間」に集う皆さん、取材の際はお世話になりました。大切なことを感じるご縁をいただきました。ありがとうございます。夏の疲れもたまっているころです。まだ暑さが続くそうですが、お体お大事に。

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コメント

同朋新聞に知っている名前が二つも出てくるとなんだかこちらもうれしくなります。

同朋新聞のあの記事、かつさんがお書きになられたものだったのですね!いえ、もちろん署名記事だったのですが、ピンと来ていませんでした。

良い文章だなぁと心には残ったのですが。

敬語で話せる場、いいなぁと思ったのですが、今またブログを拝見させて頂いて、思いました。

いいなぁじゃなくって、職場でも家庭でも、相手を敬えば良いのですね…

☆ナカノブさんへ
同朋新聞が身近に感じたかな?

☆theotherwindさんへ
「相手を敬えば良いのですね…」
それがなかなかねぇ

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