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2010年7月28日 (水)

親鸞さまがおわします⑦

【第7回 夢告(むこく)】
六角堂への百日間の参籠を決めた範宴(親鸞)は、比叡の山から洛中にある六角堂への参籠を続けます。
参籠を始めて95日目の寅の時(午前4時頃)、範宴は夢を見ます。六角堂のご本尊、観音菩薩が、悩み苦しむ範宴の前に立ち、次のように語りました。
   
行者宿報設女犯
 (ぎょうじゃしゅくほうせつにょぼん)
 (行者宿報にてたとい女犯すとも、)
我成玉女身被犯
 (がじょうぎょくにょしんぴぼん)
 (我玉女の身となりて犯せられん。)
一生之間能荘厳
 (いっしょうしけんのうしょうごん)
 (一生の間よく荘厳して、)
臨終引導生極楽
 (りんじゅういんどうしょうごくらく)
 (臨終に引導して極楽に生ぜしむ。)
   
「仏道を修行しているあなたが、前世の宿業によって、女性を求めるのなら、私が玉のように美しい女性となって添い遂げましょう。一生の間あなたの生活を美わしく飾り、臨終の際には、あなたを極楽に導きましょう」
  
人は、煩悩を断ち切れず、欲望に振り回されながら生きています。煩悩を断とうと仏道修行に励むのですが、どうしても断つことができません。夢の中での観音菩薩のことばは、性的欲望で表現されてはいますが、あらゆる煩悩を含んだ意味でもあります。
二十年にわたり比叡の山で修行してきた範宴でさえも、女性に対する想いは断ち切れませんでした。また、衆生救済を願っての修行は、新たな迷いを生み出してもいたのです。
   
 衆生救済の願い
 想いを成就したいという欲求
 想いを成し遂げることができない焦り
 いのち尽きることへの恐れ
   
これらの迷いが範宴の身にのしかかっていたのですが、観音菩薩は、それらすべてを受け入れてくださったのでした。 そして、源空(法然)のもとへ踏み出すことを勧めます。

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コメント

先頃、NHKテレビを見ていたら、奈良県の法隆寺の聖霊院に仏教の講義をする聖徳太子像が秘宝として納められており、太子の命日に開帳されるとありました。

仏教の講義をしているところというので、口がちょっと開いているような太子像なのですが、X線撮影をしてみたところ、中に、救世観音像が、入っていることが分かったそうです。

中に入っている救世観音像の顔が、太子像の口のところに来るように、入っているそうです。(救世観音像の身長が小さい)

感動しました。

> 衆生救済の願い

これは私の勉強不足による大間違いなのかも知れないのですが…

浄土真宗というのはもしかすると、ものすごくシンプルなものなのではなかろうかと思うことがあります。

仏教とは仏になる教えである。

大乗仏教とは利他行である。

何故、仏になりたいという欲望、仏になりたいという執着、仏になりたいとう煩悩があるのか…。

それは、利他行したいからだと思います。

見返りを求めることなく純粋贈与として利他行をしたい。

けれども見返りを求めないで純粋に利他行をすることは、非常に悲しい事ながら、凡人には不可能である。

純粋に利他行をすることは、普通に頭で考えると仏様にしかできないことである。

なぜならば、自分には真実のかけらもない。自分は徹頭徹尾、虚偽である。

大変悲しいことである。

うまく言えませんが、実は、真宗というのはものすごくシンプルなことを見つめているのではなかろうかと思うことがあります。

人は誰でも、自分は、他人を救済するために死ぬ覚悟はできていると思っている、そういうつもりになっている…。

けれども、いま死んだら、仏様になって、他人を救済できますよと言われて、今、心筋梗塞になって倒れて平気か?というと、いやだなぁ、と思うわけです。

いつでも死ねるということが一方にありながらも、今日はいやだなぁ、じゃあいつなら良いのかというと、いつでも、今日はいやだなぁ~だと思います。

☆theotherwindさんへ
「けれども、いま死んだら、仏様になって、他人を救済できますよと言われて、今、心筋梗塞になって倒れて平気か?というと、いやだなぁ、と思うわけです」
  
通称ポックリ寺という、お参りしたら、死ぬときにポックリいけるというお寺へのツアーがあるそうで、そこへは多くの方が参詣に出かけられるそうです。
でもある日、ポックリ寺へツアーでお参りに来られた方が、帰りのバスの中でポックリ往ってしまわれたそうです。普通なら、そのご利益にもっと人が集まるのが話の筋だと思うのですが、それ以降、参詣者が減ったそうです。
という話を聞いたことがあります。苦しまずに死にたいし、そんなご利益があるならすがりたいけれど、今すぐポックリは嫌だな…というのが、一般的な、素直な感情なのかもしれませんね。

二十五菩薩お練り供養で、お釈迦様の像がある本堂から、阿弥陀様の像がある上品堂の間に渡された二河白道を渡る真言宗とか浄土宗の法会というのは、仏教民俗学では、昔は、秘密の祈祷のようなものがあって、蓮台の上に、人間が座って、光背を背負わせてもらって、一旦死んで、生き返るみたいな儀式をしてもらっていたみたいですね。
長患いをせず、下の世話にならない、というのをポックリと言うわけですが、いまここで…という意識ではなくて、ある意味、健康で長生きしたいということなのでしょうね。

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