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2010年7月29日 (木)

副住職の頭の中

寺報7月号の裏面に書いた文章「副住職の頭の中」をアップさせていただきます。

寺報4月号で、「私は、人間は、自分で生まれたいと思って生まれてくるのだと固く信じています」と書いたら、「そんなことあるわけない」という反論を多数いただきました。確かに、生物学的に見れば、「そんなことあるわけない」のかもしれませんが、生まれることに意思があるか否かの話をしているのではありません。「そんなことあるわけない」と言われる方は、こう続けます。「自分で生まれたいと思ったのに、どうして障害を抱えて生まれるのですか」「どうして能力や才能を持つ者と持たない者が存在するのですか」と。平等のいのちのはずなのに、そうはなっていない現実を歎いてのことだと思います。その人にしてみれば、純粋な想いでの反論なのは伝わってきます。 しかし、その純粋な反論に怖さを感じます。「なぜ障害を持って生まれるのか」「なぜ能力や才能に違いがあるのか」という想いの根っこには、「健常者(と言われる者)が良くて、障害者(と言われる者)は可愛そう」「才能があり、功績を残している者は勝ち組。才能もなく、なにもできない者は負け組」というように、無意識な差別意識が内在しています。健常者と障害者、才能の有る者と無い者という差異は、確かにあります。けれど、それらに誰が優劣をつけられるというのですか。どこに優劣があるというのですか。   以前、「実際に殺人を犯した者も、頭の中で誰かを殺したい(あいつさえいなければ)と思った者も、罪は同じである」と書いたら、やはり反論をいただきました。「そんなことあるわけない」と。立法国家に生きる者としては、罪が同じであるわけはありませんが、他者の存在を認めないという意味において、実際に手をかけることも頭の中で思うことも、その罪に変わりはありません。つまりは、誰もが罪を抱えて生きているのです。 「あれはいけません。ああいうことをしましょう」と、道徳的なことを言うのであれば、この寺報は作っていません。閉じこもった思考に対し、少しでも違う視点を与えられれば、ちょっとでもくさびを打ち込むことが出来れば。そんなことを想いながら、毎月筆を執っています。 私の文章は「分からない」と言われます。はじめは、「文章が稚拙だから伝わらないんだ」と、己の文章力のなさを歎いていました。しかし、まったく予期せぬ価値観が現われたから、「分からない」ということもあるのだと思うようになりました。価値観の転換、新たな視点は、人生を面白くすると思います。 誰もが、自分の思い通りになればいいと思いながら生きています。その思いは勝手ですが、「自分の思い通りにしたい」「自分の好きに生きたい」と言うからには、生まれそのものに責任があるということを背負って欲しい。そういう想いも含めて、「私は、人間は、自分で生まれたいと思って生まれてくるのだと固く信じています」と主張しています。

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コメント

世の中の常識に迎合しない、勇気ある言明をされたことに感銘を受けました。

ある能力、才能、によって、俗世間で、収入を得るのに不便という状況というのは、ありますね。

たとえば、男性より女性は差別されていますし、年齢での差別もあります。国籍もあるでしょう。

年齢は全員差別される側にいつかは回りますね。

俗世間の、収入を得やすいか、得やすくないか、市場価値という物差し、価値観において、差別される。

人間に価格がつけられる。安値の値札を強制的に外部から、市場から貼られる。

それは大変に辛いことではありますね。

それがこの娑婆世界の現実(仏教や哲学の用語での現実ではなく、通常の日本語会話用語での現実。意味が真逆)ではないか…となりますが、

宗教は現実以外の全てを変えられるとも言うこともできると思います。

現実を変えられないなら無意味…とは限らず、考えようによっては、現実以外の全てを変えられる…というのは、大変に大きなことであると考えることもできると思います。

俗世間の物差しで、収入を得るのにハンデがある、差別されている、不便である…、それは、考えようによっては、自分がマイナスに位置づけてられているところの…そういう価値観を自分も受け入れていて(もちろん、自ら望んで受け入れているわけではなく、あくまでも通常の生活において強制的に受け入れさせられているわけですが)、その、俗世間の物差し一つだけで、押しつけられた、単一の価値観だけで、自分の価値を考える…ということなのかも知れません。

そのほかに、別様の考え方、別の価値観を持つことはできないのだろうか…と考えることもできますね。

端的に言えば自由ということはないのかと言い換えても良いかもしれません。

俗世間で収入を得るという観点からすれば、その単一の観点からだけすれば、不利である、あるけれども、しかしながらそういう市場価値という物差しをはぎ取ったところ、役職等を全て取り除いたところ…

もはや何者でもなくなったときに、人は自分になる。

役職や役割、誰それの上司であるとか、だれそれの親であるとか、誰それの連れ合いであるとか、そうした、役割を全て外した、そうした何者でもない自分も生かされている。

そうしたものを全て捨てたとき、つまり、本当の私というものは、もう本当になんでもない私ですね。

俗世間の(人間同士の水平の関係の中で)承認のない私。

お内仏のない家庭。

路傍の石。何もない、茫然自失した、迷っている私。

何も所有していない。

人は考えようによっては実は本当には何も所有していないと考えることもできます。

世が世なら…、本当の私は、実際にそうである私より素晴らしい、理想の私はすばらしいはずなのに、実際の私は駄目である…(市場価値だけに自分の価値を見ることこそが辛い…、市場価値という枠組みそのものが苦しみの原因、という考え方は可能)ではなくて。

実際の私、あるがままの私も、あるがままにあることを、いつでもつねにすでに、許されて、ある。

すると、人は自由自在に利他的になれる可能性があると思います。

私が差し出す手は空。私は何も持っていない。あなたの手も何も持っていない。

私があなたに、同胞に差し出す両手は空である。

慈悲とは、自分が持っていないものを他者に与えることである。

………但し、実際にそう信じるのは難しいことではあります。

普通の考え方では、

自分が信じていることを信じることが必要だから

です。

人間というのは、どうしても、頭でっかちで、たとえば時宗で、念仏の功徳はあまりにもすばらしいから、行者の側の信心すら不要である…と言われても、でも、信心すら不要ということを自分が信じられないと駄目だよね…と無限後退して、考えてしまうのも普通のことだと思います。

迷っている私を、自分が受け入れるのは難しいことです。

法然上人は一つ前の前世では善導大師、そのもう一つ前の前世ではインドでお釈迦様の説法を聞いた人…というお話がありますが、何故、法然上人は三回も娑婆世界に生まれたのでしょうか…。

法然上人ご本人はもしかすると、私が愚かだからです、けれどもどんなに愚かな人でも3回も娑婆に生まれれば、次は解脱します…とか仰られるのかもしれませんが…。

私が勝手に思うに、わざと、だと思います。

極楽浄土に行けば、阿弥陀如来ご本人(?)の説法も直接に聞けるかも知れませんし(註)、寒くもなく暑くもなく、環境も最高なので、するするするする修行が進み、あっという間に、もう二度とどんな仏国土にも生まれ変わらない、輪廻を完全に解脱するということは可能なのだと思うのです。

解脱することは法然上人にもできたはずだと思います。

しかしながら、わざと、娑婆世界にお戻りになられることを選ばれたのだと思います。

慈悲行。

それは、人はみな阿弥陀如来から使命を帯びて娑婆世界に生まれているのだ…と考えても良いかと思います。

それは楽しい考え方かなと。

註:一遍上人はどこかの神社に参籠されて、夢の中で、極楽浄土をご覧になられたときに「阿弥陀様はどちらにいらっしゃるのでしょうか?」と質問したら、「はあ?そりゃ娑婆に決まってるでしょうが。諸々の菩薩ですらしょっちゅう娑婆世界に行っているのに、阿弥陀如来のお慈悲を考えたら、一年365日、娑婆世界にご出張中で、救済に励んでおられるのは当たり前でしょう。蓮華の上に座っているわけないじゃないの」と言われ、「おお、そりゃそうだな」と思われたというエピソードがあったはずですので、であれば、阿弥陀様はいつでもつねに娑婆世界におられるということもあり得るとも思います。理屈にはあってますね。

☆theotherwindさんへ
お久しぶりです。パソコンが、ネットにつながらない病にかかってしまい、コメントのお返しもブログの更新もできませんでした(8月16日の文章は、携帯から投稿しました)。失礼致しました。
 
携帯からブログへのコメントを見たとき、この文章に対して、theotherwindいただいたコメント…泣けました。
「世の中の常識に迎合しない、勇気ある言明をされたことに感銘を受けました」
と。仰っていただけたからです。
この文章は、ある意味意図的に、反感を買うことを承知で書きました。実際は何の反応もありませんでしたが、「私は、人間は、自分で生まれたいと思って生まれてくるのだと固く信じています」と、私が言い続けてきた中で、いろいろと言われることは多かったです。
この意見・意思に同調してもらったとか、そういうことではなく、迎合していない(できない?)私というものを感じてくださる方がいたことが、嬉しかったです。(同調したか否かは、分かりませんものね)

> 携帯からブログへのコメントを見たとき、
> この文章に対して、theotherwindいただいた
> コメント…泣けました。
> 「世の中の常識に迎合しない、
> 勇気ある言明をされたことに
> 感銘を受けました」と。
> 仰っていただけたからです。

そう仰って頂けて、私は大変嬉しく思いました。

家族に対しても、会社の同僚に対しても、友人に対しても、われわれがよくありがちなのは、これは日本人の悪い癖なのかもしれませんが、先ず、相手が言ったことは分かっているというのが大前提になったいる日本文化(?)のようなものがあるのか、先ず、「言っていることは分かる」といちいち言わない、言うとわざとらしいというようなことがあるのか、


「そう考えることもできるよね」

という、言っていることはちゃんと聞きましたという確認のステップをすっ飛ばしてしまって

「でも、別の考え方もあるよね」という次のステップの話をいきなりしてしまうということですね。

自分なんて生きている意味があるんだろうか、自分は世の中に必要な人間なんだろうか、自分なんて生きていても仕方ないんじゃないだろうか……

とあったときに、確かに、「誰でもそう思うときもあるよね」みたいなことは言いにくいですが…。

「人は誰でも自ら欲して生まれてくる」という物語、ナラティブに、自分はコミットしますという宣言をした場合でも、

それは「そういうナラティブに対するコミットですよね」、分かります、とか、先ず言えばよいのですが、「それは分かる」という大前提があるからこそ、分かりますということを、かえって省略してしまい、「でも…」と別の考え方もありますよね…と、すぐに、言ってしまいがちですね。

「信じる」という動詞の言葉の選択ですとか、「人は誰でも」という主語の選択、言葉をそれだけ選択するのには、10年とか、今語っている人が、考えに考えに考えたから、言葉がすごく考えられて選択されているわけじゃないですか。

言葉が選択してあるというのは、考えに考えたからですよね。

選択された言葉で話している人には、必死に考えに考えたという背景が見えるわけです。

では、なぜ、考えに考えて言葉を選択した上で、あるナラティブにコミットする宣言をするのか?

それは、悩んでいる、迷っているからと考えることができます。

断言しきれないことだから、「信じています」という動詞が選択されているわけです。

単純な事実(正確さの領域)だったら「信」という言葉は出てきません。

真理の領域だから「信」という言葉が選択されているわけです。

なお、しばらくコメントが止まってしまっていた理由、わかりました。実はちょっと悩んでましたは大袈裟ですが、どうしたのかなぁと思ってました…。単なるテクニカルな問題とわかり、ほっとしました。

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