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2010年6月

2010年6月28日 (月)

親鸞さまがおわします⑥

【第6回 六角堂参籠】
範宴(親鸞)が、磯長で「余命十余年」という夢告を受けてから十年が経とうとしています。
いのち尽きるまでに、衆生救済のさとりを得ようと修行をしてきた範宴でしたが、さとりを得られずにいました。範宴はあせります。
「私のいのちは、間もなく尽きてしまう。吐く息吸う息の、一息一息が寿命だと仏陀は説かれたが、今まさにそれが実感できる。残された時間は少ない」
想いを成し遂げることができずに、いのちを終えていくことにあせりを感じ、修行にも迷いが生じます。範宴の頭の中を、さまざまな想いが駆け巡ります。
「私は何を悩み、何をあせっているのだ。いくら寿命が迫っているとはいえ、この比叡の山においてすることはひとつ。仏陀のおしえをいただき、その実践に努めるのみ」
  
 衆生救済の願い
 想いを成就したいという欲求
 想いを成し遂げることができない焦り
 いのち尽きることへの恐れ
   
誰もが認めるほどに、真摯に修行に励んできた範宴ですが、励めば励むほど、自らの想いに縛られていくことも感じていました。
29歳を迎えた範宴は、今まで歩んできた道を振り返り、今感じている自縛のこころを問い、これから歩むべき道を求めるために、洛中にある六角堂へ百日間参籠することを発願します。
六角堂は、聖徳太子の建立と伝えられています。

2010年6月 1日 (火)

2010年6月のことば

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生死(しょうじ)を忘れるとき生活は浮き、
生死におびえるとき生活は沈み、
生死を凝視(みつめ)るとき
 生活は一期一会に輝く。

    
一期一会…人生において、この人と会うことはこれで最後かもしれない。そのようなつもりで人と接し、出会いに感謝しましょうということばです。
   
親鸞聖人のおしえに触れた者は、「会う」を「遇う」と表現することがあります。「会う」は、既に知った者との出会いを意味します。「待ち合わせて会う」など、予期できる出会いです。それに対して「遇う」は、予期せぬ出遇いを意味します。私を導く師・教え・出来事との出遇いを「遇う」と表現します。
しかし、「遇う」には「遭う」という意味も含まれてもいます。「遭う」は、「遭難」「災難に遭う」など、災いに巻き込まれることを意味します。大切な師や教えに「遇う」ということに、どうして「遭う」という意味が内包されるのでしょうか。
この寺報を読み続けてくださる方はお気付きかと思いますが、親鸞聖人のおしえは、おしえに触れてハッピーになるとか、清い人間になれるなどというおしえではありません。生きるということの現実を、真正面から見つめなさいというおしえです。見つめることによって、自分の立つ場・歩む道がハッキリしたという人もいるかもしれませんが、多くの人は辛く感じることでしょう。災難・苦悩から逃れるためにおしえを求めるのに、「現実を見つめなさい」「物事は縁によって起こります」「自分の想いが、自分を苦しめているのです」などと言われては、暗くなり、腹も立つことでしょう。
しかし、果たして苦悩がなくなったり、私が清い人間になれるでしょうか。仮に、望み通り苦悩なき世界が開けたとしても、この私ひとり加われば、そこはたちまち苦悩の世界に戻ってしまうのではないでしょうか。
   
「生死」は、一般的に「せいし」と読まれます。その場合、「生死の境」「生死の分かれ目」などと言うように、「生」と「死」を分断しています。その奥には「生」は良いこと、「死」は悪いことという意識があります。現代社会は、死を遠ざけています。病院の部屋番号や駐車場の番号などに見られるように、「死」を連想させる「4」が抜けていたりします。生まれるときは病院、死ぬときは病院や施設という社会では、家で生き死にと向き合うことも稀なことです。死が見えない人生を送っています。
  
「生死」は、本来は「しょうじ」と読みます。仏教では「生死一如」といい、「生も死もひとつのこと」なのです。生と死に境はありません。死があることも含めての生なのです。それなのに、「死」を遠ざけて「生」を謳歌しようとする。その結果、「生」が輝くどころか、人生が浮き沈みしています。己の欲望に振り回され、思い通りになっているときは有頂天になり、思い通りにならないときはふさぎこみます。
   
思い通りにならないことの最たるものが「死」。「しょうじ」ではなく、「せいし」の人生を歩む者にとって、「死」は終わりを意味します。今まで積み上げてきたものが崩れ去り、今まで一緒にいた者とも別れねばなりません。恐いのです。淋しいのです。日々の生活が沈み込みます。
しかし、私や身近な者に、いよいよ死が迫ってくると、いのちや生きるということについて真剣に考えます。後悔・反省もあるでしょう。残りの人生を一生懸命に生きようと思う人もいることでしょう。自暴自棄になる人もいることでしょう。どのような想いになるにしても、初めていのちと向き合うことになります。「死」は、遠ざけたいものかもしれません。しかし、「死」ということが人生の中に見えてきたとき、今まで見えなかったものが見えてきます。「死」の縁によって、いのちに光が射します。「死」は、災難かもしれないけれど、その災難によって、私の人生に、今まで見えなかったものが見えてくる。今まで悪いものとしか考えられなかったことの中に、私を歩かせる力があることに気付く。そういったはたらきがあるからこそ、「遇う」には「遭う」という意味が内包されているのです。
  
「一期一会」とは、出会いに感謝などという生易しいものではありません。自分に都合の悪いことも含めてこその人生だったと凝視るとき、今生で出会うすべての人々・物事、そして自分自身との間に「一期一会」の輝きが生まれます。
   
   
 
今月のギャラリー
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西蓮寺 6月の予定
 聞法会
  6月9日(水) 13:30~
   
 コールリンデン(仏教讃歌を歌う会)
  6月24日(木) 13:30~
  
 白骨の会(仏教青年会)
  6月29日(火) 14:00~
   
西蓮寺 7月の予定
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  7月7日(水) 13:30~
  
 白骨の会(仏教青年会)
  7月20日(火) 14:00~

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