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2010年6月 1日 (火)

2010年6月のことば

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生死(しょうじ)を忘れるとき生活は浮き、
生死におびえるとき生活は沈み、
生死を凝視(みつめ)るとき
 生活は一期一会に輝く。

    
一期一会…人生において、この人と会うことはこれで最後かもしれない。そのようなつもりで人と接し、出会いに感謝しましょうということばです。
   
親鸞聖人のおしえに触れた者は、「会う」を「遇う」と表現することがあります。「会う」は、既に知った者との出会いを意味します。「待ち合わせて会う」など、予期できる出会いです。それに対して「遇う」は、予期せぬ出遇いを意味します。私を導く師・教え・出来事との出遇いを「遇う」と表現します。
しかし、「遇う」には「遭う」という意味も含まれてもいます。「遭う」は、「遭難」「災難に遭う」など、災いに巻き込まれることを意味します。大切な師や教えに「遇う」ということに、どうして「遭う」という意味が内包されるのでしょうか。
この寺報を読み続けてくださる方はお気付きかと思いますが、親鸞聖人のおしえは、おしえに触れてハッピーになるとか、清い人間になれるなどというおしえではありません。生きるということの現実を、真正面から見つめなさいというおしえです。見つめることによって、自分の立つ場・歩む道がハッキリしたという人もいるかもしれませんが、多くの人は辛く感じることでしょう。災難・苦悩から逃れるためにおしえを求めるのに、「現実を見つめなさい」「物事は縁によって起こります」「自分の想いが、自分を苦しめているのです」などと言われては、暗くなり、腹も立つことでしょう。
しかし、果たして苦悩がなくなったり、私が清い人間になれるでしょうか。仮に、望み通り苦悩なき世界が開けたとしても、この私ひとり加われば、そこはたちまち苦悩の世界に戻ってしまうのではないでしょうか。
   
「生死」は、一般的に「せいし」と読まれます。その場合、「生死の境」「生死の分かれ目」などと言うように、「生」と「死」を分断しています。その奥には「生」は良いこと、「死」は悪いことという意識があります。現代社会は、死を遠ざけています。病院の部屋番号や駐車場の番号などに見られるように、「死」を連想させる「4」が抜けていたりします。生まれるときは病院、死ぬときは病院や施設という社会では、家で生き死にと向き合うことも稀なことです。死が見えない人生を送っています。
  
「生死」は、本来は「しょうじ」と読みます。仏教では「生死一如」といい、「生も死もひとつのこと」なのです。生と死に境はありません。死があることも含めての生なのです。それなのに、「死」を遠ざけて「生」を謳歌しようとする。その結果、「生」が輝くどころか、人生が浮き沈みしています。己の欲望に振り回され、思い通りになっているときは有頂天になり、思い通りにならないときはふさぎこみます。
   
思い通りにならないことの最たるものが「死」。「しょうじ」ではなく、「せいし」の人生を歩む者にとって、「死」は終わりを意味します。今まで積み上げてきたものが崩れ去り、今まで一緒にいた者とも別れねばなりません。恐いのです。淋しいのです。日々の生活が沈み込みます。
しかし、私や身近な者に、いよいよ死が迫ってくると、いのちや生きるということについて真剣に考えます。後悔・反省もあるでしょう。残りの人生を一生懸命に生きようと思う人もいることでしょう。自暴自棄になる人もいることでしょう。どのような想いになるにしても、初めていのちと向き合うことになります。「死」は、遠ざけたいものかもしれません。しかし、「死」ということが人生の中に見えてきたとき、今まで見えなかったものが見えてきます。「死」の縁によって、いのちに光が射します。「死」は、災難かもしれないけれど、その災難によって、私の人生に、今まで見えなかったものが見えてくる。今まで悪いものとしか考えられなかったことの中に、私を歩かせる力があることに気付く。そういったはたらきがあるからこそ、「遇う」には「遭う」という意味が内包されているのです。
  
「一期一会」とは、出会いに感謝などという生易しいものではありません。自分に都合の悪いことも含めてこその人生だったと凝視るとき、今生で出会うすべての人々・物事、そして自分自身との間に「一期一会」の輝きが生まれます。
   
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コメント

 私にとってとても厳しいことを言われた気がいたします。
 一期一会と一言で片付けられないですね。都合の良い事柄や間柄だけ取り上げている自分に気がつきます。

☆がくさんへ
厳しかったですか。
美晴に読んでもらい、ちょっと厳しいと指摘を受けたので、これでも柔らかくしましたcoldsweats01
あっ、でも、都合悪い人々・出来事も含めて、今の私がいるという事実があるということは、強く思っています。

さだまさしさんの曲にそのものずばりのタイトルの曲がありますね…

巡り会い 愛し合い
時として憎み合いながら
大切に 出会っては
別れてゆく 一期一会

『大切に[…]分かれてゆく』というところが巧いと思います。なのでこの後、

いつか又 会えるでしょう
その時まで いざさらばさらば

と続き、一期一会なんだから、一生涯に一回しか会わないんじゃないのか、どちらかが、今日別れた後に車に跳ねられるかも知れないし…と、一瞬、矛盾してるんじゃないかとも思うわけですが…

多分、あと五十六億五千万年、生死を繰り返し、且つ、毎回、リセットされずに、同じ、人間関係、同じ、職業、同じ、親子等々を繰り返しても、後悔なし、という覚悟で生きろという、きびしーーーーい、考えがさだまさしさんにあるんじゃなかろうか…と勝手に思っています。

またあえるでしょ

というのは、考えようによっては厳しいです。

リセットなし。

だいぶ昔に、ある一回性のご縁で、肩を抱き合って喜んだ相手の人と別れるときに「いつかまた…」と言ったら「ほんとだね、きっとだよ!」と言われ、なんとかわいらしい人だろうと大変好感を持ったことがありました。

もうお互いに社会人だったか、少なくとも大学生だったかと思うのですが、なんと素直な人だろうと思いました。

普通は「いつかまた…」というのは、まあもちろんご縁があれば…なのですが、実際にはもう今生で会うことはないでしょうが…という意味ですよね…。

限界概念というか。

さだまさしさんの、一期一会という曲が入っているCDアルバムの最後の曲は…

私が生まれてきた訳は
何処かの誰かに救われて
私が生まれてきた訳は
何処かの誰かを救うため

夜が来て 闇自ずから染みるよう
朝が来て 光自ずから照らすよう
しあわせになるために 誰もが生まれてきたんだよ
悲しみの海の向こうから 喜びが満ちて来るように

という、浄土宗さんの、法然上人800年大遠忌イメージソングなんですが、これは、さすがにしみますね。

「いやー、今日はひどい目に遭ったよ」
何気なく使っていますが、「あう」のは誰かがいてくれて、自分という存在が有るから。ブログを見て思いました。
とかく自分の都合で良し悪しを判断してしまいがちですが、それも生きているからこそたんのう出来るもの。ちょっと、このところ落ち込み気味でしたが、何れも「遇う」というワクワク感でしっかり眼前の事柄を受けてとめていこう。って勇気付けられました。

☆たかさんへ
遇うということ、嬉しいことばかりではなく、しんどいものだと思います。
でも、その中にこそ、大切なことがある。
たかさんの「遇うというワクワク感」という表現、いいなぁ。

☆theotherwindさんへ
宗派内で、いくつかのインタビューものがあるけれど、さだまさしさんにインタビューしたことって、あるのかなぁ。読んだ記憶がないです。
NHKの朝までさだまさしを、大谷大学の講堂を使って放送したときは、これからいろいろご協力いただけるのかな?なんて期待したのですが、そういうわけではなかったようです。

全くの単なる想像にすぎませんが、さだまさしさんという方は、自分にできることできないこと、向いていること向いていないこと、キャラづくり、売り方、プロデュースが巧い方なんじゃなかろうかと、勝手に思います。

なので、歌を作ってくださいねとお願いして、それが、たまたま、その年のアルバムの流れに合っている場合、効率が良いので受けてくれるんじゃないかと…。

つまりアルバムを見ると、CMソングだったり、TVのイメージソングだったり、浄土宗のイメージソングだったり……、スポンサーがついているわけですね。

そうするとてんでんばらばらなのかというと、アルバム1枚で統一が取れています。つまり需要と供給が合っているのではないでしょうか。

全然別のジャンルですが、江原啓之さんという方、元々、利他行、他人を幸せにすることが本当の自分の幸せですみたいなことを、処女作から言われているらしいですね。

が、それを全面に押し出していた初期の著作は、まったく売れず。

後に、利他行を背景にして、表立って言わないようにして、そうではなくて、あなた一人が、自分だけがお金が儲かりますとか、自分だけが素敵な彼氏をゲット、その影で泣いている人がいても知りません、講演会に行っても自分一人と江原啓之さんとの一対一の関係だけ、新たな友人ができるわけでもなんでもない、というのに迎合して、やっと売れたわけです。

もちろん、迎合であって、江原啓之さんは、お金が儲かりますとは言ってませんね。

お金を儲けることそれ自体は特に悪いということはないでしょうが、お金が入ったら他の人に回しましょうということは、デビュー以来一貫してますが、全面に押し出さなくしたわけです。

ちょろっと書いてあっても、無視されるようになって売れたわけです。

その後、靖国公式参拝反対ですとか、戦争反対ですとか、発言してますが、基本的には無視されていると思います。

そんなことはどうでも良いですから、私のお金、私の彼氏はどうですか…しか、聞かれていないと思いますね。

仕方がないので、江原啓之さんは自分で、NGOに寄付とかされてますが…。

というわけで、売れている人というのは、なんというのか、まあ、江原啓之さんは、流石に、あらゆる人から、利他とかどうでも良いので、私は素敵な彼氏がゲットできますか?と聞かれ続けて、もしかするとちょっとやんなっちゃってるのかも知れませんが、多かれ少なかれ、自分のキャラというものをプロデュースして売っているとは思います。

ちょっと例が極端かも知れませんが…

ただ、やはり、江原啓之さんの場合、最初から言っている利他を、前面に出すように戻したら、一気に売れなくなると思いますね。

そうではなくて、自分一人が、何の努力もなく、何の反省もなく、幸せになれますよ、あなたは、あるがままのあなたで良いのですというのが需要。

唐突ですが、「と思うことでございます。」とgoogleで検索すると、かなりの割合で浄土真宗関係のWebサイトがヒットする気がしました。

大谷派、本願寺派の区別はない印象ですね。

うーん、「と思うことでございます。」と文を終える言い方、いつだれが始めたのでしょう…。

☆theotherwindさんへ
「と思うことでございます。」とgoogleで検索すると、かなりの割合で浄土真宗関係のWebサイトがヒットする気がしました。
   
面白い発見ですね。
お他宗の方のお話はあまり聞いたことはありませんが、自分のいただきを語れるのがお念仏の教えの特色なのでしょうか。
 
ちなみに、「思うことで」「ございます」という言い方もおかしいですよね。「思います」でいいのだけれど。
最近、テレビのアナウンサーが番組の冒頭で「お疲れ様でございます」と話し始めたのを聞いて、「あれ?」と思いました。 
  

> 自分のいただきを語れるのがお念仏の教えの特色なのでしょうか。

そうかも知れません。

> ちなみに、「思うことで」「ございます」という言い方もおかしいですよね。「思います」でいいのだけれど。


けれども、「思います」とまで言ってしまうと、自動的に「私はxxxと思います」と主語が「私は」になってしまう。それはちょっと話者の実感とは何か違和感があるのでしょうね。

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