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2010年4月 1日 (木)

2010年4月のことば

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よう生まれてきたねぇ
            
おかしなことを言うなぁと思われるかもしれませんが、私は、人間は、自分で生まれたいと思って生まれてくるのだと固く信じています。
生まれたいと思って生まれたものの、そのことを受け入れてもらえないと、つらいものです。自分のしたことは、誰かに認められたいものです。
「よう生まれてきたねぇ」
誰もが、このことばをかけられて生きているのだと思います。このことばが背景にあるからこそ、生きていけるのだと思います。生きているといっても、実体があるという意味ではありません。たとえ生まれえぬいのちでも、たとえ寿命を終えたいのちでも、「よう生まれてきたねぇ」という声と共に、いのちは、よう生きています。
生まれてきたことを認められる世界がある。生まれてきたことを受け止めてくれる人がいる。だからこそ私は生きていける。
誰にだって、生まれてきたことを認められる世界があり、生まれてきたことを受け止めてくれる存在がいます。それが阿弥陀如来です。
   
4月8日はお釈迦さまのお誕生日。「花まつり」はお釈迦さまのお誕生会です。
お釈迦さまは今からおよそ2500年前、北インド・カピラ城のスッドーダナ王を父、王妃マーヤを母として生まれました。
王妃マーヤが、出産のため実家に帰る途中、ルンビニー園という花園で、美しいアショーカという木に右手を伸ばされた時、右脇からお釈迦さまは生まれました。
お釈迦さまは誕生してすぐに七歩 歩まれ、右手は天を指し、左手は地を指して言われました。
「天上天下唯我独尊」(「天にも地にも、ただ我ひとりにして尊し」)と。
   
「私(お釈迦さま)こそが尊い」と言われているのではありません。
誰もが、他の誰とも代わることのできない いのちを生きています。それぞれが さまざまないのちを生きていますが、尊さに変わりはありません。みんな「天にも地にも、ただ我ひとりにして尊い」いのちを生きています。お釈迦さまの言葉は、いのちの事実に目覚めてほしいという願いの言葉です。
「よう生まれてきたねぇ」という声と共に、私は生きています。誰とも代わることのできない、ただ一人のいのちを生きていますが、孤独ではありません。
   
続きは、若坊守(妻)の文章です。
   
「あじじゃじょ」   白山 美晴
3月28日(日) 1歳2ヵ月になる娘が、初めて「ありがとう」を言いました。
ご法事が終わり、片づけも終わり、みんなでお茶をしていました。
娘は ジィジ(住職)とバァバ(坊守)と、みかんを渡したり受け取ったりしていました。ジィジ・バァバは、みかんを渡すときは「どうぞ」と言い、受け取るときは「ありがとう」と言います。何回か繰り返し、娘がみかんを受け取った時、「あじじゃじょ」と言いました。
みんなで顔を見合わせ、「今、『ありがとう』って言ったよね!?」と驚きました。子どもが言葉をとらえ、そして言葉を発する瞬間を、みんなで迎えることができました。
約1年前、ヒトとして生まれてきた娘が、どんどん人間になっていっています。体が大きくなったのはもちろんですが、表情や行動や言葉が豊かになってきました。すべて、周りの人や物事とのかかわり合いが基となっています。「よう生まれてきたねぇ」と受け入れてくれた世界は、いろいろな人や物事と関わりあうことで幾重にも広がっていくように感じられます。
   
   
      
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コメント

> 「あじじゃじょ」

これからますますかわいいさかりですね(^o^;)。

子どもが、オウム返しではなく、この子は、生まれてこのかたこのフレーズは絶対に聞いたことはないはずというフレーズを初めて言う瞬間というのも、ものすごく感動します。

あとは、何と言いますか、造語でしょうか…。造語と呼んでよいのかどうかわかりませんが。

うちの子どもの場合は、たとえば、ある時間軸の中で、明滅、交代、代わる代わる現れる事象について「しましまになってるの」と発言し、我が家では受けまくりました。

時間の流れの中で、Aが起こり、Bが起こり、Aが起こりということは、たとえばシマウマの体の模様が白黒交互になっているということと似ているという考えからの比喩表現ですね。


> 私は、人間は、自分で生まれたいと思って生まれてくるのだと固く信じています。

私もそう思っています。

一方で、表面的には真逆で矛盾しているかのように見えるのですが…

妻が流産したときに「そういうことはあるんだ、誰が悪いとかいうことではない…」というような空虚な言葉を言い、妻が泣き疲れて寝た後、深夜(あるいは早朝)に、自分一人でWebサイトをぼんやりと色々見ていたら「赤ちゃんが天国に忘れ物をしたので、ちょっと取りに帰っているだけで、また必ず会える」とあり、こぶしを噛んで、声を殺して、ぼろぼろ泣きました…

その後、また生まれてきてくれました。

これは、たとえば、法然上人800年大遠忌とポスターを見ると、法然上人は880年くらい前にお生まれになったのだなぁとか、親鸞聖人七百五十回御遠忌と聞くと、親鸞聖人は840年くらい前にお生まれになったのだなぁとか、先ずは、最初の数秒は思いがち。実際にはもちろん、そうではなくて、法然上人や親鸞聖人は生まれていないわけで、生まれてきたのは赤ちゃん。赤ちゃんが法然上人や親鸞聖人になっていただいたわけで、何故、なっていただいたかというと、みんながそう願ったからなわけですが…。

赤ちゃんは、「すでにそこにある」願いの中、たとえば、赤ちゃんが生まれてくる前にすでに家族の間で交わされていた赤ちゃんについての会話の中に生まれてくるわけで、家族が赤ちゃんについて家族同士で語っている言葉の中に育っていくわけで、その家族の子どもになってくれるわけです(元来は無意味な音の羅列に過ぎない日本語の中に、自分のことを話しているんだと思って、自分の意味、使命、価値を、聞き取るという人間の力というのは実に不思議…)

なので、願われて生まれてきた…ということも、同様に真理と思います。

> 私は、人間は、自分で生まれたいと思って生まれてくるのだと固く信じています。

さらにまた表面的には矛盾しているかのように聞こえるかと思いますが…

イエスさまが、難行苦行はできない人たちのために(実際にはつまり全ての人のために)、易行として、これだけ称えればいいんです、という、「主の祈り」というものがありますね、その中に…

訳がいろいろありますが、

「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、
わたしたちの負債をもおゆるしください。」

「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」

「わたしたちの負い目をおゆるし下さい。わたしたちも負い目をゆるし合います。」

というのがありますね。

自分で自分を赦すというのはできないので神様を媒介として口称する。自分には自分を赦す力はないので神様にお祈りする。祈るというのは祈りですから、日頃、実践はできていなくても祈る。

この「負い目」、debt、つまり、「借金」ですが、これは、生まれたことが既に「借金」。人生いきなり借金経営でスタート。先ず投資してもらって、人生スタート。

つまり、自分のいのちは、与えられたものなので、自分勝手はできないという、考えたら、きびしーーーーーい、ものの考え方ですね。

(宗教というもの、どんな宗教でも厳しいので、この本を買って読めばすぐに「癒し」が得られます…みたいなものとは真逆だったりすると考えることもできますが。)

自分で自分にいのちを与えたわけではなく、自分のいのちは賜ったものである、なので、それが借金。

すると、一生かけて、懸命に、毎日こつこつ、不断に、ちびちび、返していかないといけないことになります。

(全力投球で生き抜いた前提で、最後の最後に、娑婆の縁が尽きて、そのときはじめて、お浄土にお参りさせていただくときには、一人残らず必ず誰でも、この借金は、まったく問題なく、全額返済できるので、娑婆世界であまり悩みすぎても意味がないというか、あまりにも悩みすぎて苦しみの人生を送ってしまうことは、かえっておそらくイエスさまの教えの誤解というか正反対の行動にはなってしまうようには思います。もちろん死が厳粛なものであれば生は厳粛なものなので、悲劇的人生を送った人がいても、端からとやかく言うべきものではないですが…)

そうすると、言ってみると、お浄土で、「阿弥陀さま、ご指導有り難うございました。私は菩薩となって、娑婆世界に戻りたいと思いますっ」と、誓った人というのが居て、そうして、人は生まれてきている、つまり、使命を帯びて生まれている……と考えることもできるのかなぁ、とも思います。

そうすると、目的論になりがちなので、自分は、使命を果たしていないのではないか…、自分は自分に予め与えられた価値を実現していないのではないか…という苦は発生してしまいますので、そういう、目的論的な出生概念を持つから、死ぬときに、まだ使命が果たせていない(T_T)、死ぬこと自体は平気だけれども、まだ人類社会に貢献していない(T_T)という、今は死にたくないっという無念さが残る可能性があるので、誤解したら駄目、正しく考えよう(目的論に陥るな)、ということはあり得ますが…

(ただし、これは私の誤解なのでしょうが、イエスさまはそうは仰ってはおられないような気もしますが、一般的な漠然とした俗流キリスト教理解(誤解)からすると、キリスト教では、なくなった人たちは天国で暇なんじゃないかという気はしています…。最後の審判まで何にも出番がないというか、役割、はたらき、がない気がするんです。ただ寝てるだけ?お亡くなりになられた方々にもう少しなにか、日頃、不断に、普通に、われわれの生活に対する、はたらき、機能があっても良いような気がします…。そうでないと天国がえらい縁遠いものになってしまう気がしますね…。くどいですが、それでは2000年、成り立たないはずなので、さすがに私の誤解なのでしょうが…)

☆theotherwindさんへ
「人生いきなり借金経営でスタート」
 
七転び八起き ということばがあります。
七回転んだのに、なんで八回起きるの?という疑問も湧くことばなのですが、それは起きていることがスタートの考え方。
初めは転んでいる。だから、起きるのは8回。(意味分かります? 書き方が下手でごめんなさい)
 
と、いうことを聞いたことがあります。
「人生いきなり借金経営」は、まさにこのことと思いました。

> 初めは転んでいる。だから、起きるのは8回。(意味分かります? 書き方が下手でごめんなさい)

先ず起きているところからスタートしたら、そこから7回転んだら、7回起きたら、元と同じ起きている状態に戻る。

7回しか転んでいないのに8回は起きられないじゃないか。

起きる回数が1回多いじゃないか、間違いじゃないのか。

そうじゃないです。

7回転んで7回起きる前に、”いつでもつねにすでに”1回もう起きているということですね。

分かります。

”いつでもつねにすでに”というのは、哲学・思想で、1を表すときに使われる言い回しだと思います。

1の前の0は、表現は難しいですね。

起きることに論理的時間として先行するものとして既に転んでいることが権利的に要請される、起源神話として転んでいる…というような言い方かも知れません。

始まりは言葉にするのは難しいですね。

0状態、既定値、スタートは転んでいるというか、寝ている、ずりばい、たかばい、よちよち歩き、まだ立っていない状態なのだから、転んでも別に単に元に戻っているだけ、元々そういう状態だったわけで、何も基準値よりマイナスになっているわけではない、ころんでもいい、また、立ち上がれば良いだけ。

大人になって何かイヤなこと、苦労はあっても、それでも、考えようによっては、大人になってからの試練よりも、言葉が話せなかった乳児時代の状況の方が、大変だったと考えることも可能なので、それを乗り越えて大丈夫だったのだから、今、多少のことは大丈夫。(言葉が話せなかった時代の自分は何を考えていたのかは思い出せないので起源神話)

とこう考えることができますね。

すると、年取ってくると、腰痛ですとか、ほんの少しの段差(「畳のへり」と表現しますね。実際には和室のないお宅もあるでしょうが)でこけるとか、あるわけですが、まあ「おもしろいなぁ…」とか…

☆theotherwindさんへ
年とると、体にガタがきますね。
ギックリ腰を患って一ヶ月近く。まだしっかり治ってません
おもしろいなぁ

> ギックリ腰を患って一ヶ月

いやあ、それは痛いですよね(^o^;)。

会社で腰痛はおじさんの共通の話題です(^0^;)。みんなやってます。パソコンに向かっていることが多い職場なので…。仕事でのパソコンは神経つかいますからストレスも高い。

自宅で、座っていて、ある姿勢で固まった場合、そのまんま横になって寝れないかなぁと思い、そのまんま横に90度体を倒してみる……。

が、痛い!!!!、
いーーーーたーーーーーいーーーー。
腰の筋肉がびくびく痙攣したりしますね。1度角度がずれただけで痛い。

寝ることも立つこともできません。固まったまんま…。(というわけにもいかないのでそろそろ体勢を変えるしかないわけではあるのですが…)

満員の通勤電車、別にわざとではないし、どうしようもないし、仕方ないんですが、押されると(T_T)。もちろん誰にも怒れません。仕方ないんで。が、(T_T)。

自宅でもダイニングで椅子が引いてあったりして避けるだけで、びくびくびくびく恐怖。が、流石に、普通のことなので家族を怒れない。我慢するしかないですが、実は、内心は苦痛。なんで、椅子を通り道に出して置くんだよぅという心の中で魂の叫び(大袈裟)。体をちょっとひねって通る、そのちょっとが、物凄く怖い。ぐきっとくる可能性が怖い。

トイレに行くのも、四つんばいにもなれないし、中途半端…。人類直立歩行への道のりみたいな…。

歯の根っこが腐って激痛も実にイヤですが、通り過ぎれば、人間、忘れます。歯痛の最中は自分の全存在が歯痛に凝縮されますが。極太文字のフォントサイズ120で「痛」という一文字に自分の全存在、世界の全てが凝縮。けれどものど元過ぎれば熱さ忘れる…。

食あたりであまりのお腹の痛さにトイレで失神しそう、脂汗一リットルとかもイヤはイヤですね。波があるだけに…。一個前の波を生き残ったのだから、自分は大丈夫だとどれだけ言い聞かせていても、次の波が来たら、そんな自我は、津波に翻弄される爪楊枝のように消し飛びます。

あれで説法できるお釈迦様はさすがに偉大。滅するのは生じたから、それだけ、みたいな。普通、言えないと思います。

だいたい、スジャータさんと同じくらい功徳がありますとか、他人のことを心配できるのがすばらしい。

普通はそれどこじゃないです。

が、腰痛、いつくるか、いつくるか、だんだん腰が重くなり……実に辛いです。低気圧になるとそれだけで腰が重い気がしますし…

むち打ちとか肩こりとかでも同じでしょうが、近代医学の場合、なんか自動車の調子が悪いなぁと思っていても、壊れないと直せない式。壊れていると思われる部品の周り全部を取りましょうみたいな…、すると、本人が辛いだけに近い腰痛の場合、なんか冷たい感じ……(うまく言えません)。

民間療法の場合、実際にMRIとかレントゲンとかで見たらというのではなくて、世界観が違いますね、主観的な物の見方が違う。あなたの場合、腰骨がこっちにずれてます、という見立ては、一つの世界認識、説明なんですが、そのときにMRIとかレントゲンとかで客観的なデータでずれているということではないでしょう。

が、存外、楽になったりします。思うに、「辛いですよねぇ」と言ってもらえる、そして、マッサージ等、長い間、人の手が触れる…というだけで、多分、既に楽になっている気がします。病は気から(?)。

私が行った民間療法では、口の中に指を突っ込んで、上あごの奥の方を押したりするんですよ(^o^;)。いってーーーーー、というツボ(?)みたいなものがあり、涙だだもれ。

そして、腰痛が軽くなる。実感として。

気のせいなのかも知れませんが。

お大事に…。

忘れていた身体性の再発見とかいうことは確かにあるような気はします。しますが、辛いですね…

なお、

玄侑 宗久、樺島 勝徳 『実践!「元気禅」のすすめ』

という本は、私の腰痛には効きました。

但し、民間療法で、腰の片一方をがんがん叩いてもらって、おー楽になった!という体験をしてから、この本を買って、次に腰痛が来たときに、一回、実際、プロにやってもらってますから、この本の言っていることが分かった、という順序です。

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