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2010年3月 9日 (火)

普く諸々の衆生と共に

古典落語『松山鏡』に歌が出てくる。
〈子は親に似たるものぞよ 
亡き人の恋しきときは鏡をぞ見よ〉。
亡き父母に逢いたいときは鏡をごらん。そこにいるだろう、と

 (3月5日 読売新聞 編集手帳より)
  
「夫婦仲が悪く、子どもが夫に似ていることが腹が立った」と、我が子を餓死させた母は言います。その夫は、妻の、子への虐待を見て見ぬふりをしていました(それも虐待ですが)。
親が子を殺す事件が続いています。こころが痛みます。
でも、この手の事件を聞いて、「どうして?」と思いますし、憎くも思いますが、親を責める気だけにもなりません。親にも、こころの中で葛藤があったはずだから(葛藤があったから許されると言っているのではありません)。
           
行政・警察・施設・親族が気づいていれば、もっと見ていれば、もっと踏み込んでいけばなどと言う人もいますが、実際無理だと思います。確固たる証拠もなく、なかなか家庭の中まで入れるものではありませんし、家裁の決定に法的拘束力はないので、断られてしまえば、それ以上の強制はなかなか難しいものです。それに、哀しいことに、どんなに虐待を受けていても、小さい人たちにとっては、親が自分を守ってくれる存在なのです。知らない人が助けに来ても、恐いのです。親を頼りとするのです。
     
思うことは、選択肢はいくつもあるのに、ということです。子どもを養えない、憎いのであれば、いくらでも方法はあります。親族・友人・行政に相談する/親族・施設に預ける/顔が夫に似ていて憎いのであれば、離婚して子どもを夫に託すということも考えられたはずです。
直接に問題の解決につながらないこともあるでしょう。施設に預けたり、離婚が良い方法だとは思えないという人もいることでしょう。
でも、この親に、どれだけの選択肢があったことでしょう。
ネットが普及して便利になったといいますが、自分で調べ始めれば選択肢が広がるということもあるでしょうが、それほど使いこなせている人は、少ないことでしょう。それに、誰もがネットを利用しているわけではありません(話は違いますが、誰もがネットを利用しているという前提に立ったサービスが増えているような気がします。それも恐いし、孤独を生むだろうなと考えています)。
    
どんな事件でもそうですが、第三者が、客観的に報道を見聞きして、ただ犯人を責めるというのが、つらいのです。報道に表われない現実があったり、報道によって歪められている事実というものもあるのですから。
      
どんなに子どもがかわいくても、子どもと一緒にいると腹が立つこともあります。泣き続けたり、駄々をこねたりすると、カッとなるものです。自分の思い通りにならないと、腹が立つものです。
今日の文脈だと、「子ども」といった場合、幼い子どもをイメージされたかもしれませんね。でも、子どもは、親から見ればいくつになっても子ども。幼くても、たとえ50、60を越えても、自分の思い通りにならない“子ども”は腹が立つものです。  
   
もうすぐ3学期も終わり。通知表をもらう頃ですね。
小学校の先生をしている友人が言いました。
「通知表の成績は、親の成績でもあるんだよ」
名言だと思いました。
相田みつをさんのことばも思い出しました。
「育てたように子は育つ」
決して、成績の良し悪しが、親の良し悪しという意味ではないと思います。子と親との関係が反映されているのが、通知表なのではないでしょうか。成績が悪いからと子どもを叱ったり、落胆する必要はありません。通知表を囲んで、食卓で、家族で話をする。それが大事なのだと思います。
矛盾したことを言うようですが、成績の良い人は、自分の部屋で勉強するのではなく、食卓で勉強をしている人が多いというデータを見たことがあります。親に質問もできるし(親が答えられるか否かはべつにして)、親だって自分の部屋で仕事をするのではなく、食卓で、子どもと一緒に仕事をするようになります。子と親、お互いが目につくところにいて、それぞれが自分のすべきことをして、それをお互いに知っている。
あらためて書いてみると、当然のことが、当然にできないことが、今の家庭なのかもしれないと思いました。
    
子どもを殺してしまった親だけの話ではありません。
私のところは どうだろうか。食卓で話ができているだろうか。
そういうことを見つめなおさせる出来事なのだと受け止めています。
 
ご本尊のある「本堂」に出入りするときは、頭を下げます。
「本堂」は、お寺だけにあるのではありません。各家庭にもあります。
台所と言ったり、ダイニングルームと言ったり、リビングダイニングなんてつくりになっていて、ピンとこないかもしれませんが、台所は「食堂」と言います。「お堂」なのです。ご本尊は安置してないかもしれませんが、家族が、人と人が関係を持ち、語り合う尊い場なのです。台所に入るときは、大切な場に足を踏み入れるんだと思いたいものです。また、そういう場があるということ自体が幸せなことです。
「食堂」が、そういう場として復活すればいいなと思います。
 
子が親に似るのは、血のつながりということもありますが、一緒に暮らしている“共に生きている”からだと思います。
「似てる」と思えるのは、共に生きてきたからなのに。

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コメント

テレビのニュースでこどもが虐待されたという話を聞くたびにかわいそうにと泣いてしまいます。もちろん、こどもであっても人ですから、人の死は、他人がテレビでひとごととして見て、かわいそうになぁと思うようなこと、他人が何かしてあげていればというようなことではなく、もっと厳粛なものではあるべきなのですが、それでも、自然、かわいそうにと思ってしまう感情(あたかも自分が何かできたかのような傲慢さがそこにあったとしても)は、止められないので、泣いてしまいます。

「夫に似ているから憎い」という日本語、日本語、ことばというのは、一般的な言い方しかできませんから、話者の本当の心は、いつでもつねに、絶対に表現はできません。意図と表現はいつでもずれています。「夫に似ているから憎い」という日本語が、そう話した人の中でどういう意味を持っていたのか…。われわれ、他人は、こういう日本語を聞くと、何を言っているのかまったく分からない=分かりたくない=聞きたくない…となってしまうのも自然なのですが、この日本語に表現されている(されきれていない)、話した人の気持ち、話した人の状況はどういうものだったのか…。人の生も人の死と同じく厳粛なものなので、他人が分かるものではないのでしょうが…。

人は何を願っているのか。人は自分が本当に願っていることを知りません。人は他人から願われたいということを願っているだけです。今回の事件とは違いますが、夫が妻に長年暴力をふるっているというような事件、それでも別れないで、長年、虐待され続けているというような事件の場合では、相互依存、二人しての病であることは、見えやすいと思います。大人同士ですら、人は他人から愛されたいということだけになりがちなのですから、ましてや、こどもであれば……。

こどもが、夫と同じように、自分の顔色をうかがうのがイヤだった、なぜならば、自分が他人の顔色をうかがうのがイヤだから、ということではないか…と思うのですが、人はみな、他人の顔色をうかがう生き物です。

どれだけ虐待してみても、もうイヤだ、もう我慢しない、自分が本当にしたいことは、これこれだ、という反抗には至らないわけで、反抗を心の底で期待して、自分が本当に願っていることは何かという問いにそういう形で答えを出そうとすることには、無理があります。

親が、こどもに、子どもの誕生日に、イチゴのショートケーキを買って与える。そうすると、こどもは、親が、それをおいしそうに、こどもらしく、喜んで食べる姿を見たいのだなと察知して、こどもらしくおいしく食べるということを演ずるわけです。特にこどもだからこそ、親の期待に応えようとする度合いが高いのです。

それをイヤだと思うようになってしまった状況、経験…。

それは人間の悲しさであり、愛らしさである、人間というものは、悲しくて愛らしいものだなぁと思えなかった。

自分も愛らしいと思えなかった…ということだと思いますが……

> 人は他人から願われたいということを願っているだけです。

人と人とのかんけいは、水平なかんけいです。人は、自分が本当に願っていることを知りませんから、お互いに、相手から本当に願われたい(愛されたい、尊敬されたい、畏怖されたい、認められたい、無視されたくない…)という人間の欲望には切りがありません。限界がありません。

人間の欲望は満足されない正にそのことによってのみ一時的に解消されます。他人は分かってくれないという正にそのことが、やはり、本当の自分(の意図)は、どこでもない場所、表現されない場所、目に見える形で現象しない場所にある…という仮説、疑いの証明になっています。

これは切りがありません。

人と人との水平のかんけいだけでは、合わせ鏡の、無限の地獄になってしまいます。

そうではなくて、絶対的他者が不可称、不可思議という特殊なありかたではあるが、ある(実体としてあるのではない)。

「ある」は言い過ぎですが、そもそも人と人との関係(俗世間)があるのであれば、そういう人と人とのかんけいを支えている絶対的他者が権利的に要請されるのであって、すべての人は、いつでもつねにすでに、願われて生きている、絶対的他者からの呼びかけがあるからこそ、その呼びかけを無視した、俗世間があるわけです。

人と人とのかんけいは、それ自体を支えられません。

それを支えている底のものには、それ自身ではなり得ないです。

ひととひととの関係を支えている、自分ではないものの代表として、母国語、たとえば日本語であっても、一個人が勝手に新たな新語を造語できません。したとしても、他人に意味が分からないわけで一瞬で消え去ってしまいます(幼児がよほどおもしろい造語をすれば、親はしばらくは覚えていられるかもしれませんが、世間には流通しません)。いわば、みんなの多数決で世界はできています。先人のことばが、蓄積されて、お蔵にしまわれていて、みんなで使っているわけです。日本語であれば、漢文から来ているコトバもあるでしょうし、中国で、インドのコトバから、中国語に翻訳されたコトバが日本語になっているコトバもあるでしょうし、歴史というものがあります。

自分が話しているコトバも、他人の耳には入っていますから、コピペされて、何かのときに、思い出してもらって、よみがえってきて、他人の人生の役にたっている可能性があります。(みんなでつくるので)どこのだれが最初に発明したコトバとは言えませんから、自分の特許、自分の発明とは言えませんが、誰もがみんなで、支え合っているわけです。

母国語は生まれる前からいつでもつねにすでにそこにあって、自分一人では変えられない、自分は母国語に住まわれている、コトバが私になってしまう、そのときに、自分固有の、自分だけの、他のだれでもない「この」私の願いは失われてしまう、母国語で、自分の本当の願いは表現できないからイヤというのは、誰でもわがままなので思いますが、逆に、自分も今の日本語をみんなで作っているその一員なわけです。将来、自分が一員としてみんなで作ったコトバで、未来の誰かが困ったときに救われることもあるかも知れません。

ですから、全ての人は、願われて生まれてきていることになります。

本当に、善導大師の「願共諸衆生 往生安楽国」というコトバが、正に、願われるわけですが…、

想像ですから違うかも知れませんが、核家族で、毎日忙しく働いていて、何か、コミュニティに参加せず、孤立していたご家族だったのかと思います。

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