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2010年3月21日 (日)

おしえの大地に生きる

3月21日(日) お彼岸4日目
前の晩から強い風が吹いています。
夜中3時半、強風の轟音で目が覚めました。
強い風をまともに受けてしまうと、山門が壊れてしまう恐れがあるため、山門を開けるために起きました。
外に出ると、夜の暗さ・飛ばされそうな強い風・夜の静けさの中に響く凄まじい轟音が、身に迫ります。正直恐かったです。心臓をドキドキさせながら、山門を開けに行きました。
  
山門を開き、冷静に外の様子を見回しました。ビニールや落ち葉が飛ばされ、どこかのお宅の壁らしきものが壊れ、道路に飛び散っていました。
そのとき気付いたのが、お彼岸中に休憩のために張ってあるテント。風に煽られ、バタバタうなりをあげています。
「しまった、帆を外しておくのを忘れてた。テント、飛ばされないだろうな」。強風の中、今から帆を外すこともできず、飛ばされないことを願うしかできません。結局飛ばされずにすんだのでよかったです。
墓地に周り、手桶を確認に行きました。案の定、倒されたボーリングのピン状態でした。倒れた手桶を集めて、一ヵ所にまとめておきました。
  
とりあえずやらなければならないことを済ませ、もう一度冷静になると、本堂の高さを越えるほど大きいイチョウやヒマラヤ杉の木が、大きく揺さぶられている姿が目に入りました。大きな木が激しく揺れ動く姿に、風の強さと恐怖をあらためて感じました。
   
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昨日のブログで、物事に対して強く突っ張るよりも、しなやかに身を任せたほうがいいと書きました。
が、イチョウやヒマラヤ杉の大木が揺れる姿を見ていて、それは違うなと感じました。
大木のように、大きく構えて強く突っ張るのもいい。結果折れてしまったとしても、それは、その人の生き方・個性。コデマリや柳のように、風に吹かれるままに身を任せるもよし。それもその人の生き方。 
大事なのは、根っこを張っていることだと思いました。
突っ張るにも、流れに身を任せるにも、“わたし”という根が張ってなければできません。根が弱いと、簡単に倒れてしまいます。“わたし”という根を、しっかり張らなければ、生きていけません(けっして、自己中心になろうとか、自分さえよければいい的な意味ではありません)。
そして、根が張るには大地が必要です。根が張る大地こそが、親鸞聖人のおしえなのだと感じました。思わず 本堂に向かい、手を合わせ、南無阿弥陀仏と念仏申しました。
   
おしえに触れ、問題が解決するわけでも、こころが強くなるわけでもありません。でも、おしえに触れていると、そこに道が開かれるのです。いや、既に開かれている道に気付くことができるのです。
環境・状況は何も変わらない。でも、なにかが変わるのです。おしえに出遇えたことに感謝です。
昨日「つらいことが続く」と言われた方に、「聞法会にいらっしゃい」と言おうと思いました。しかし、「聞いて解決するんですか!?」なんて言われてしまうだろうなと思ってしまい、誘わずにいました。申し訳ないことをしました。
 

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コメント

> 昨日「つらいことが続く」と言われた方に、「聞法会にいらっしゃい」と言おうと思いました。しかし、「聞いて解決するんですか!?」なんて言われてしまうだろうなと思ってしまい、誘わずにいました。申し訳ないことをしました。


チベットには、弟子の心の準備ができたら師が現れるとかなんとかいう、言い回しがあるようです…。

東京練馬の真宗会館の彼岸会法要兼永代経法要にお参りさせていただきました。ご法話は、正直、私には、????でした。あくまで私にとっては…なのですが、全然ピンとこなかったので、誤解しているのだとは思いますが、「愚者になれ」というお話だったような……

けれども、

「念仏申す機は、むまれつぎのまゝにて申す也。さきの世の業によりて、今生の身をばうける事なれば、この世にてはえなをしあらためぬ事也。[...]智者は智者にて申し、愚者は愚者にて申し、[...]一切の人みなかくのごとし。さればこそ阿弥陀ほとけは十方衆生とて、ひろく願をばをこしましませ。」

という法然上人のお言葉もございますし……。

ちょっと考えすぎなんじゃないかと思いました。

愚者になれ、というのを考えすぎたら、不可能事になってしまいます。易行がかえって難行になってしまうと思います。

知識をききかじってひけらかしたい気持ちというのが、人間、なくなることはないわけで、それは駄目と思ったら、人間業ではできない難行です。

その昔、法然聖人のおことばを直に聞いて、涙して感動した一般庶民は、そんなに考え過ぎていなかったのではないかと思います。みんながそこまで考えすぎていたら、教えを担う担い手がいないはずで、教えが真理であっても担い手が実際の人々としていなければ、教えは顕在化しません。真理であっても担い手がいなければ顕現しないです。なのでそんなに考えすぎずに素直に感動した人々が普通に一般庶民としていたはずです。

たとえば、現代に生きる我々にとっては、たとえば唯識なんていうものは、激烈に難しいわけですが、当時のインドには、かなりの人数でヨガをやっていた人間集団がいて、ヨガをやっていると、ある境地に到るよね、という、それはインドの全人口とは言いませんが、ある程度の人数の人々が、実際に体験した体験、実感というのがあって、あくまでもヨガの実践、まあ、生活と言って良いかどうかは分かりませんが、ヨガの実践、毎日の暮らしと結びついた、体験、実感があって、それと、絶対に切り離せないものとして、唯識があったのであって、ヨガと切り離した抽象的な理論だけの唯識だから、分からないだけな気がします。唯識からヨガを切り離して頭だけの理論にしているから分からないだけなのだと思うのです。実際に体験している、実感を持った担い手がある程度の人数いなかったらどんな真理でも、埋もれてしまっているはずです。

実感、生活実践、体験と切り離された抽象的理論だけになってしまうと、易行がかえって、難行というか、不可能になってしまう、かえって、全然無理に思えてしまうというのはあると思いました。

ヨガというのは単なる一例であって、至誠心、深心、回向発願心でも、現代の我々が考えると、そもそも無理と思っても、昔、おーそーだなぁーと思った人々は多分、たくさん、居て、素直に、その通りと思い、感動していたはずと思います。つまりその時代には、そんなに難しいこととは思われていなかったはずです。とてつもない難しいバーがあったなら、いかに真理であっても担い手がいなかったはずです。現代に伝わっていないはず。至誠心、深心、回向発願心かぁ、それならできるや、と思った人々がたくさんいたはず。というか、それなら、既にあるなと思った人々がたくさんいたはず。そうでないと、もしも、それは無理だなぁといきなり全員思っていたら、誰も感動していないで、埋もれたはずです。


☆therotherwindさんへ
「愚者になれ」
ではなく、
「愚者である」
のだと、私はいただいています。

> 「愚者になれ」
> ではなく、
> 「愚者である」
> のだと、私はいただいています。

おっしゃるとおりですね……。有り難うございます。真宗会館でのご法話も、実は、そう言われていたのでしょうが……。

まあ「なる(生成、あるいは、時間)」と「ある(存在)」は難しいは難しいですね。精神分析でも「エスがあったところに自我をあらしめよ」というモットーですが、言い換えると「もはや何者でもなくなったときに人は自分になる」となり、文字面からは真逆なことを言ったりしますし。「無意識の主体の想定は絶対的他者からの呼びかけがあったことを権利的に要請する」と先ず絶対的他者があって、後から無意識の主体があるようにも言いますし、真逆でも言いますし。

無意識の主体についても「言語がその周囲を旋回する」と、先ず、言葉で言えない無意識の主体が中心にあって、その周りを、隔靴掻痒でいろいろな、当たらずともいえども遠からずな言語表現がぐるぐる縁取っているようにも言いますし、真逆に、「言語の壁は実は何も隠していない。言語の壁の向こうには何もない。」(精神分析では「穴」と言いますが、まあ言ってみれば「空」としての自分はあると言えばあるんですが。「空」というものが「ある」というのは変と言えば変。)とも言いますし…。

仏教で考えますと、もしかすると浄土真宗の教学では全然間違いとされるのかも知れませんが、ごく普通に、常識的に考えて、菩薩が誓願を先ず建てて、それを支えに、気の遠くなるような途轍もない修行をしていくのであれば、そもそも、”正しい”誓願を建てる智慧を、誓願を建てる前に持っていないといけないことになります(精神分析などの用語で言うと「権利的に要請する」ないし「論理的時間の中で先行する」等々)。

すると、菩薩は予め如来です。

如来が菩薩になって、如来になることになります…(^o^;)。

少なくとも精神分析的な論理(「論理的時間」の論理)からすると、そういう、どっちが先なの??になります…。

(但し、精神分析では無意識はいつでもつねに原理的に集合的であって、個人的ではないので、まあ、誰か一人で、である必要はないと言えばないです。人類全体で…で精神分析の場合はかまいません。なので「無意識には時間はない」と言います。が、「無意識は生命誕生以来の記憶を有す」とも言いますので、切り無くややこしい…)

真宗から言えば、大間違いかも知れません。

> おしえに触れ、問題が解決するわけでも、こころが強くなるわけでもありません。でも、おしえに触れていると、そこに道が開かれるのです。いや、既に開かれている道に気付くことができるのです。
環境・状況は何も変わらない。でも、なにかが変わるのです。おしえに出遇えたことに感謝です。


仰るとおりですね…。

南無阿弥陀仏

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