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2010年2月28日 (日)

親鸞さまがおわします②

【第2回 比叡山への道】
父は出家し、母とは死別したと伝えられる親鸞聖人と4人の弟たちは、伯父の日野範綱 (のりつな)の屋敷で幼少期を過ごします。貴族とはいえ、自分たちの生活だけでも苦しい時代です。甥を五人も預かるほどの余裕もありません。ある日、範綱は妻に詰め寄られます。
「弟の子を五人も養うなんて、今のうちには無理な話です。うちの生活だけでも、ままならないのに。先ずは長兄を出家させましょう」
「あの子はまだ九歳だぞ。そんなに幼くして出家など、させてもらえるはずもない。それに、家が落ちぶれたとはいえ、跡取りである長兄を出家させるなど、聞いたこともない」
「そのようなことは関係ありません。とにかく、みんな出家させますからね」
「って、お前。そんなに焦らなくても…」
とはいえ、甥たちを出家でもさせなければ、暮らしていけないのが実情でした。範綱は頭を抱えます。
   
   
幼い親鸞は、もう一人の伯父 宗業(むねなり)に漢籍と今様を教わっていました。
「今日もありがとうございました」
「うむ、気をつけてお帰りなさい」
「はい」
勉強を終え、宗業の屋敷を出る幼い親鸞の後姿を見ながら、宗業はつぶやきました。
「あの子には、人のこころの機微に触れる才能がある。もっと整った環境で、漢籍や今様を学ばせてあげたい。そのためには、出家し、比叡山に入ることが望ましいのだが。しかし、そのようなことを、兄の範綱や、本人が納得するだろうか…」
宗業は悩みます。
  
  
当時、京の町には、戦乱や飢饉によって死に絶えた人々の亡骸が、いたるところに横たわっていました。その亡骸の着ているものやお供え物を奪って生きのびる者もいます。
幼い親鸞は、宗業の屋敷からの帰り道、範綱の屋敷にまっすぐは帰らず、鴨川の河原に腰を下ろしました。
「目の前には苦しみながら死んでいった者や、亡き人から物を奪わなければ生きていけない者がたくさんいる。私は、伯父や伯母のおかげで、食べるものに困らないようにお育ていただいている。同じ人間に生まれてきたのに、なぜこんなに違う道を歩まなければならないのだろうか。どうして生まれてきたのだろう。どうしてこんなにも苦しみながら生きなければならないのだろう。あの、はるか向こうに見える比叡のお山に、その答があるのだろうか。その答が得られるのなら、行きたい。出家して、比叡のお山に入りたい。そんなことが許されるのだろうか。それに、もし許されたとしても、弟たちを置いていくことが心残りだ。弟たちは私のことを頼りにしている。兄の私が、勝手な想いで出家していいものだろうか。いや、つらい想いをする者がいると分かっていながらする出家に、どういう意味があるのだろうか。
このままいつまでも伯父に世話になるわけにはいかない。しかし、比叡のお山に入ることが許されるのだろうか。留まることも、進むこともできない。あぁ、どうしたらいいのだろう」
幼い親鸞に、さまざまな想いが襲い掛かります。
  
  
京の町を覆い包む時代の波が、幼い親鸞の将来に、ひとつの道すじを開きつつあります。
範綱・宗業、そして親鸞。三者三様、想いはそれぞれですが、幼い親鸞の足は、比叡の山に続いているのでした。

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コメント

うちの母親のレシピの一つに、カボチャと小豆の煮物があります。カボチャと小豆は、兄弟とか親子ではないが、なんとなく似ている、いとこくらいには似ているというので「いとこ煮」らしいのですが、なんでも「親鸞聖人は小豆がお好きだった」ということになっていて、もともとは、母の実家(富山県)では、報恩講料理の定番らしいです。

「親鸞聖人は小豆がお好きだった」

典拠があるのかないのか知りませんが、仮にないとしても、何百年、人々がそう思って、親鸞聖人と一緒に食卓を囲んでいるような気持ちで頂いてきた料理なのですね……

ただし、富山の報恩講の場合は、大人数分作るから煮物はずっとおいしいそうで、各家族分よりおいしいそうではあります。

☆theotherwindさんへ
私も、典拠があるのかどうかは知りませんが、親鸞聖人が小豆をお好きだったということは、今に伝わっていますね。
小豆の料理も、地域によって違うようですが、報恩講には、聖人を想って小豆を使った料理を作る。そこに聖人がおわしますね。
東京ではあまりそういう話は聞かないので(うちでも作っていません)、淋しいですね。

日本真言宗の開祖、弘法大師 空海さんのご命日に、アズキの料理をお供えし、頂く(地域によっては親鸞聖人と空海さんと同じ家庭で両方に…という地域もあるらしいです)習慣もあるらしいです。

また、ハレのときにはアズキ(特にお赤飯)というのは全国的な習慣。

すると、稲作以前に食べていたアズキを大根など他の稲作以前からある食べ物と一緒に煮て…という習慣は、もともと昔からあって、ひょっとかしてひょっとかすると、縄文時代は大袈裟としても、かなり昔からあって……ということなのかも知れません…。

いずれにせよ、何か、報恩ということに結びついている行為だと思います。

もしかすると「歴史的事実」としては、元々アズキは邪気を祓うとか、別の意味があって、元々アズキを食べる習慣があったのかも知れませんが、親鸞聖人と共に食卓を囲むというのは「真理」なのでしょう…

と考えていたところで、そうだ、そう言えば、お経に由来する(?)食べ物があるなぁと思いつき、さだまさしの「生きる理由」のCDを駅前に買いに行って、甘味処へ立ち寄りました。

そう、「よきかな」とは読みませんね「善哉」と書いて呉音(?)で「ぜんざい」です。

室町時代からお餅も邪気を祓う、アズキも邪気を祓う、なので、お正月はアズキ+餅だっ!という文献もあるそうですが、「あわぜんざい」と「焼麩ぜんざい」の二種類。ダブル邪気祓いはないようです…。

どちらも大変おいしそうでしたが、きびもちのあわぜんざいにしました。美味。

と、書いていて、今、気がつきましたが、ぜんざい、という食べ物、関西ではお汁粉のことをぜんざいと言っていますね。すると、お坊さんがあまりのおいしさに「ぜんざい!」と叫んだというのは、関東のぜんざいではなく、関東で言うところのお汁粉だったのか……。

関係ないですが、私の会社の同僚はお家のご宗旨が真言宗、おぼうさんが「せんざーーーーい、せんざーーーい」と言うお経があって大好きなんですが、泡で汚れが落ちる石鹸のわけはないよなぁ、なんだろうと思っていたという話が前にありました。それは空海さんが、天才なので、北方官話が発音できたんでしょうね。多分、「お釈迦様、ふと思ったのですが、ひょっとかして、お友達を作って、お友達の話をよく聞くということは、大事なことの一つだったりするのではないでしょうか?」「よきかな、よきかな、良いこと言うねぇ、アーナンダくん。お友達を作って、お友達の話を良く聞く、ということは、大事なことの一つではなく、この道の全てです」とかいう場合の、善哉を漢音で読んでいるのだと思いました。

母の実家のある町では、報恩講のときに、アズキ粥が回るらしいです。家庭A製アズキ粥が家庭Bに純粋贈与(見返りを求めないふるまい)され、家庭B製アズキ粥が家庭Cに純粋贈与…と、町の各家庭で作られたアズキ粥が、他家にふるまわれるという形で、町全体としては、ぐるぐる回っているという形の模様。

そういうお念仏をしている社会があってこそのアズキ粥ということなのでしょうね。

東京ですと、お寺にお参りしたらアズキ料理がボランティアでふるまわれている、報恩講の季節というと寒い日ということがありえますから、暖まって良かったなということはあっても、一種の理想としては、お寺がということではなく、先ず、お念仏している人々の共同体があって、純粋贈与で回っている…というのが、本当は先なのでしょう。

(何故、「贈与」というのは、ぐるぐる回っているかというと、回さないで家庭A製アズキ粥と家庭B製アズキ粥とが「交換」されているだけというのですと「贈与」ではなく「交換」になってしまうからです。A、B間の交換ですと、回りません。AとBの間だけ、二者間で閉じてしまいます。すると、人間同士の水平のかんけいだけになってしまうからです。どうしても、うちではせっかくおいしく作ったのに、あっちの家から来たのはまずかった、なんか損したとなってしまいます。あるいは、おいしく作る競争ですとか。回すことで、いわば、捨てている、捨てているというと語弊はありますが、なるだけ見返りを求める気持ちや、投資と回収等の考えが入らないようにできているわけです。まあ、お寺に御布施持っていったが、庭でボランティアの人たちが作っていたお汁粉がまずかったまでは、さすがに誰も思わないでしょうが、理屈としては、回すことで純粋贈与に近い形にしているわけですね。)

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