« 親鸞さまがおわします① | トップページ | 雪景色 »

2010年2月 1日 (月)

2010年2月のことば

 Dscf2842
 求めたものが得られなくて苦しいのではない。
 すでに得ているのに求めるから苦しい。

       
「南無阿弥陀仏」と念仏を称えたら、どうなるの(どんなご利益があるの)?と尋ねられることがあります。
そのとき私は、「お念仏できたことがご利益です」と応えます。
たいていキョトンとされます。それはそうでしょうね。念仏を称えることによって、なにか(良い)結果を求めている人に、念仏そのものがご利益と言っても、噛み合わないはずです。
私は思うのです。念仏に限らなくても、私がする日々の行いのすべては、いただきものではないかって。
自分の行いによって、その結果が生じる。いや、良い結果を求めて、自分の行いを決めていく。そのようなつも
りで、誰もが生きていることでしょう。
自分で決め、自分で成しているつもりでいるけれど、「自分がしている」のではなく、それを「させていただく」縁というものが、私に成就している。そういうことの積み重ねによって、今、私がある。
   
良い結果を求めて、生きる私。ご利益を求めて、念仏を称える私。
良い結果を求めて、なにか行為を成すけれど、行為を成すということは、数え切れないほどの縁をいただいたうえでのこと。つまり、数え切れないほどの縁を、いただいて生きているということ。
人間の苦しみ(四苦八苦)に、「求不得苦(ぐふとくく)」というものがあります。「求めたものが得られない苦しみ」という意味です。でも思うのです。「求めたものが得られない苦しみ」の根底には、「既に得ているのに、求め続ける苦しみ」があるのではないかって。
いただいてばかりで、自主性がないことを言っているように聞こえるかもしれませんが、自主的に生きているのならば、なぜ「幸せ」や「安心」を求めるのでしょう。求めるということは、そうはなってないということの裏返し。そのような状況を、他者のせいにしていませんか? 私もその構成者だと、自分で言っているのに。
手にしていない「幸せ」や「安心」。でも、実はすでに私の手の中に。その「幸せ」や「安心」とは、私が求めるような「私さえよければ」的なものではなく、支えられながら生きているという真実。
「信じてからでなければ、念仏を称えられない」「信じているから、念仏を称えます」などと言うけれど、私は何を「信じる」と言うのでしょう。念仏によって良い結果が生じることを「信じる」のでしょうか。
「南無阿弥陀仏」の念仏が口から出る・・・そこに、阿弥陀如来に信じられ、支えられながら生きてきた私が、すでにいます。
南無阿弥陀仏
    
   
    
今月のギャラリー
Dscf2840_2

« 親鸞さまがおわします① | トップページ | 雪景色 »

コメント

ふと、テレビを見たところ、NHKで名古屋の禅宗のお寺の元ご住職さんで西川玄苔さんという方のインタビュー番組をやっておりました。

この方、何十年も座禅を続けてこられて無思量を求め、我執を捨てようとしておられたとか。それが自分の思ったようにはいかず、悩んでおられたそうです。

暁烏敏先生の講演に行かれて、雨が降っていたと仰っておられたように思いますが、それでも満員で、会場になったお寺に人が入りきれなくて、欄干(?)につかまって伸び上がって遠くから聞いたというようなことを仰っておられたように思いますが、暁烏敏先生が開口一番「あなたは今ここで死ねますか」とかなんとか言われたそうで、それにはガツーンと頭を殴られたように思ったというようなことを言われてました。

それから、曽我量深先生、金子大栄先生の本などを読んだけれども、白井成允先生の本を読んで感動して、手紙を出した、三ヶ月くらいしたら返事が来て、

我執をなくそうというのも我執

というようなことが書いてあったらしいです。

何十年も禅をやってきたことが全否定されたように思って、ものすごくがっかりされたようです。何をする気も起きなくなって、プチ鬱(?)のようになっていたら、あるとき、突然、自分では全く気がつかない間に、勝手に、自分の口が「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ…」と称えていたとか…。

その後の、「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、わーーーーっと、全宇宙がなむあみだぶつ、なむあみだぶつがわたし」でしたか、この方の表現はよく分からなかったところもありましたが、我執を捨てることなく、あるがままのこの、ほかのだれでもないこの私になむあみだぶつ…というようなご経験をされたとか…。

この番組では、簡単に「なむあみだぶつというのが移っていたんでしょうね」と言われてましたが、この方、甲斐和里子先生から移ったんですよね。

この方、求道者というか、悩みまくった方で、いろいろな先生に、どうしても逢いたいというので、いろいろなところに行かれておられるはずなんですが、甲斐和里子先生と、耳が遠いということで筆談されたときに、話はあまり通じなかったというか、話の内容はあまり大きな影響はなかったというか、しみこんだということはあっても、特に、その後、大きな契機として意識はされてはいないようですが、耳が遠いので、合間合間に入る、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」というのが大きな声だったらしいです。

なので、「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」という称名それ自体、その物理的な音、空気の振動、が、移ったらしいいんですね。

いずれにせよ、如来より賜る信心ということが、頭ではなく、全身で体験できて分かったらしいです。

☆theotherwindさんへ
「称」は御なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころなり、はかりといふはもののほどを定むることなり。(『一念多念文意』)
私は、この一文をいただいて、弥陀の本願は、信心は、念仏を称えるところに既にいらっしゃるんだなぁと感じました。
「はかり」とは、天秤秤のこと。
念仏称える私と、弥陀の本願が、釣り合いがとれている。そこに、信心の浅い深いがありましょうか。
南無阿弥陀仏

> 念仏称える私と、弥陀の本願が、釣り合いがとれている。そこに、信心の浅い深いがありましょうか。

曇鸞大師の函蓋相称の喩えは、仏法と仏法を頂く人間がぴったり相応するというようにもいただけるわけですね……

南無阿弥陀佛

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 親鸞さまがおわします① | トップページ | 雪景色 »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ