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2010年1月15日 (金)

ごめんなさい 悪気はなかったんです

公共の場所にある花壇を、毎日自主的に世話していらっしゃるご婦人がいます。想いを込めて、お花を、花壇を手入れされます。
ところが、その花壇を、毎晩犬の散歩で踏み荒らして行くヒトがいます。(踏み荒らしているのは散歩している犬ですが、その飼い主に責任があります)。
朝、ご婦人が花壇に行くと、犬が歩いた跡が残っているのです。
  
「犯人を見つけたいけど、何時頃通っているのか分からない人を、ずっと見張っているわけにもいかないし…」
 
そのご婦人は、嘆きつつも、今朝もまた花壇を手入れされています。
 
ある日、たまたまご婦人は目にします。
自分が連れている犬が、花壇を歩いても全然気にしないで通りすぎていく人を。
 
ご婦人は声をかけました。
「花壇に犬を歩かせるのをやめてもらえませんか。今、お宅のワンちゃんが荒らしたところを、一緒に元どおりにならしましょう」
 
犬の飼い主は、キョトンとしながら、ご婦人と一緒に花壇を手入れしなおしたそうです。
「どのように手入れをすればいいのでしょうか?」と尋ねられながら。
聞けば、毎日の散歩で、犬が花壇に入っているとのことでした。恐らく、毎日花壇を荒らしてきた犯人です。
  
毎日嘆き続けていたご婦人は、哀しそうに話してくれました。
「私は、花壇を踏み荒らしている犯人を恨んでいました。もし踏み荒らしている現場に遭遇したら、怒り、ののしり、謝らせてやろうと思っていました。そして、たまたま犯人を見つけることができて、おそるおそる声をかけました。
そしたら、犯人は全く悪気がないんです。悪意があって花壇を踏み荒らしていたんじゃないんです。日課として犬の散歩をして、いつもと同じコースを歩いていただけ。何か恨みや悪意があって花壇を踏み荒らしたのではなく、犬が花壇を踏み荒らしているという意識もない。ホント、ただ散歩をしているだけ、の意識なんです。
だから、私が花壇を直してくださいといっても、荒らした意識がないから、元の花壇の姿を見ていなければ、どのように直せば良いのかも分からないし、どうして私が直さなければいけないのだろうって感覚なんです。
私は、花壇を踏み荒らしていくヒトが、プライベートのストレスを、花壇を荒らすことにぶつけているんだと思っていました。あるいは、私に恨みを持つヒトが、私がこの花壇を大事にしていることを知っていて、悪意を持って荒らしているのだと思っていました。だからこそ、もし犯人を見つけることができたときには、怒り、ののしり、もしかしたら手を挙げるかもしれない。ずっとそう思っていました。
だけど、実際には、悪気も悪意もない人が、そこが花壇だという意識もなく、通りすぎているだけだった。
それを知ったときの、脱力感というか…いえ、哀しみというのでしょうか。涙が出てきました。
私に悪意を持った人が、私に対して攻撃をしかけてきたのなら、それに対抗することもできますが、悪意も何もない攻撃が、こんなにも人の心を苦しめるなんて…。
こんな哀しい気持ちがあるなんて、初めて知りました」
       
     
昨日は、タバコをポイ捨てした人の話を書きました。
私が注意した人も、「自分が何で怒られているのか分からない」というような顔をしていました。
怒って怒鳴った私でしたが、その人の顔(反応)を見た瞬間に、花壇を大事にされているご婦人のことばを思い出しました。
このタバコポイ捨ての人も、自分の行為にまったく悪気はなかったのでしょう。…哀しいことです。
怒鳴った後の後味の悪さは、怒鳴った先に人がいなかった哀しさだったのかもしれません。
悪気がないから、悪意がないから許されるというのではありません。悪気・悪意のない行為こそが、余計に他者を傷つけている現実があるものなのです。
    
戦争をなくすための戦争。
エコ商品をつくるために、今まで以上に二酸化炭素排出量が増えている現実。
不況の中、少しでも安いものを買い求めるけれど、安くものが買える背景には、ほとんど儲けなしで働いている(働かされている)人がいる現実。
 
「悪気はなかったんです」…言い訳のように使われるけど、実はもっと罪深いことです。

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コメント

いろいろなお話、参考にさせていただきました。
ありがとうございます。

ところでこの文章を読ませていただいて、悪意を認識していない害について問題提起されている点についてはわかりました。

しかし、このご婦人に対して、仏教者としてどのように接するべきだとお考えなのかが、私にはよく読み取れませんでした。

>それを知ったときの、脱力感というか…いえ、哀しみというのでしょうか。涙が出てきました。

このような哀しみに対しては、どのように考えて接しておられるのでしょうか。

また「怒鳴った先に人がいなかった哀しさ」とはどのようなものなのでしょうか。

この話では、怒鳴った舟に人が乗っていなかったという荘子の話を思いだしましたが、「哀しさ」と表現されているのは、どのようなことを言われておられるのでしょうか。

よろしければ、お話お聞かせいただくとありがたいです。


☆paoさんへ
はじめまして。コメントをありがとうございます。
 
接し方についてですが、ご指摘されるまで考えてもいませんでした。
どなたに対しても、どのような内容に対しても、接し方を変える(合わせる)ということは考えていませんので。傍から見ていると、接し方を変えているように思われることもあるかとは思いますが。
   
それから、まったく見ず知らずの人が「ちょっと聞いてください」と言ってきた場合と、普段から話している人が「こないだこんなことがあったの」と言って話す場合とでは、違いますよね(接し方は変わらないというのと矛盾するようですが)。
このご婦人は後者の場合なので、接し方について考えていなかったのかもしれません。
なんの参考にもならず、申し訳ありません。
   
    
「哀しさ」と表現した内容は…
相手に、自分のしたことについての意識(「悪いことをした」でも、「これくらいのことで怒るなよ」でも、どちらでもいいのですが)があるならば、謝られるなり、喧嘩になるなり、なんらかのやり取りができます。
しかし、相手に、自分のしたことについての意識がまったくなく、つまり、会話もなにも成り立たないことについて、「哀しみ」を感じたと表現したつもりです。
それから、私の場合、「哀しみ」と書く場合、人としての感情を失うことに対する「かなしみ」を「哀しみ」と表現しています。
「私の目の前に、感情をもった人間がいなかった」という意味も、内包していたのかもしれません。
 
このような気持ちです。

精神分析には「もしも神がいなければ、すべてが許されない」という言い方があったかと思います。

この文、かなり長い間、私は意味が全く分からなかったのですが、あるとき、気がつきました。

この文は、ちょっと変な文なのですが、思うに、オリジナルと言いますか、本歌取りの元といいますか、おそらく元があるのですね。

元のバージョンはきっと「もしも神がいなければすべてが許される」だったのだと思います。

こちらが先ず、きっと欧米(?)では常識としてあって、精神分析バージョンは、非常識というか、常識を覆したバージョンなので、「もしも神がいなければ何も許されない」ではなくて、「もしも神がいなければすべてが許されない」というちょっと不思議な文になっているのであろうと推測します。

元(と思われる)の、「もしも神がいなければすべてが許される」ですが、私が、想像するに、まあ、本当にそういうことがあったのか、あるのかは、疑問はあるのですが、よくある話として、外国に居住しようとして、入国するときの書類の宗教の欄に「なし」と書いたら、ものすごく驚かれて、あなた、それでは信頼されませんよ、どうしてそんな人を信用できますか?と、あなたは人間ではないという顔で、言われたという話がありますよね。要するに、そうは言わなくても、嘘ついても平気なんだなと。嘘つきは人間ではないと。つまり、私が想像するに、常識的な(?)オリジナルな(?)バージョンでは、神様がいないと思っている人は平気で嘘をつく。嘘をつくという人間としてあり得ないことをやるやつだと。なんでもありだと。

で、精神分析というのは常識に異議を申し立てると言いますか、常識を覆す物言いをしますので、逆だと、そうではなくて、「もしも神がいなかったらすべてが許されない」と、こう言ったのではなかろうかと思います。

これは、神様がもしもいないとすると、なんでもかんでも自分の意図の結果になってしまうということでしょう。たとえば、自分の親が死んだときに誰でもちょっと鬱っぽくなるかと思います。それは、なぜかを考えてみますと、親が死んだのは自分のせいであるという罪の意識を持っているからと考えられます。たとえば、自分が子どもの頃、親に怒られて、親なんていなければよいのにと思った、そういう自分の念力(?)で親が死んだと無意識に思っているからと考えられます。すべては自分の意図の通り、自分の思うとおりになるという全能感を人はみな無意識に持っているからだと考えられます。

現実には、人は誰でも1秒先のことは分かりません。しかしながら、その現実に人は直面できないわけです。仮に直面していたらいつもビクビクおびえていないといけないです。現実には1秒後に自分は死ぬかもしれませんが、それは意識はされません。つまり、あたかも自分だけは死なない、大丈夫という現実の否認があります。(精神分析ではこれを「自我」と言います。)

折り込み済み、想定の範囲内、自分が意図したとおりと、自分で自分を騙せないような出来事、たとえば親が死んでしまうという事態が発生したときに、自我というメカニズムは、破綻します。

親が死んだのは自分のせいである、意図した通り、最初から望んだ通りなんだよ、という後付のへりくつは、自分を楽にしないで、苦しめてしまいます。

そのときに、もしも神様がいないとすると、すべてが許されません=なんでもかんでも自分のせいになってしまいます。

西欧近代以降、神は死んだということで、そのような機能は、どんどん弱くなってきていると思われますので、花壇に犬を散歩させて何が悪いのか分からない…つまり、ある共同体で、共通の価値観がない、そういう現実の砂漠に、我々は、どんどん向かっていると思われます。

たとえば、誰がみてもそこは花壇だったのか?花壇は荒らさずに綺麗に手入れされているのを眺めるのが本当に誰がみても真なのか?等々、伝統的な社会ではあり得ない問題がどんどん起きていく、そうした神のない時代、共同体の共通の価値観、誰もがいちいち言葉にしなくても、暗黙の裡に共有している当たり前な土台は崩れていて、しかも、どんどん毎日崩れていると思われます。

共同体というのは、イコール閉鎖的とも言えなくもないので、たとえば、日本人に生まれて良かったぁということがなくなっていくというのは、たとえば、アフリカでは人が餓死しているのに、われわれ日本人はこうやって、のほほんと暮らしていて良いのかという新たな問題を突きつけられるということでもありますね。そう思うと、こうした、不可逆的な流れに対して単純に昔に帰ろうというのは無理でもありますし、良いことなのかも分かりません。

きわめて難しい問題ですね……。

一気に解決策、正解を出すということは多分できないですね…。

共同体に共通の価値観

ご実家のご近所に世界最大の大仏があるという方と話す機会がありました。その方は浄土真宗本願寺派とのこと。

大仏はなにしろ大きいのでいつも見えているとのことですが行かれたことはないとのことでした。

大仏は阿弥陀仏の立像なんですよね。

うーーーん。ああ、言われてみたら、確かにそうですね、気がつきませんでした、とのこと。

あの大仏は…という話をしたところ、え、そうなんですかと先ず絶句。大仏というコンセプトが先ず頭に入らなかった模様。

私も行ったことはないですが、聞くところによると…、あちらさまのご本山さま直営のおみやげもの屋さん(?)にて、お守りをおわけしておられるらしいですね…

うーーん、懐中本尊ですか

いや、「大仏お守」と明記しておられるらしいですよ。見た目も神社に売っているものと同じらしいです。別の名称らしいですが、見た目、絵馬もあって願いごとを書いてかけるとか、般若心経を販売しておられて、お胎内で写経ができるらしいですね。ご朱印帳もあるとか。

……。

参道を歩いていくと、大きな池があって、その名は「群生海」。そこに、登りのスロープがあって、足跡が6個書いてあり、左足から、な、む、あ、み、と4歩歩いて、だーー、ぶーーで、両足を揃えると、スロープがそこで終わっていて崖になっているのですが、そこで、横に、えいっとジャンプするらしいです。

……。

横超と説明書きの立て札があるとか。

オーチョー、って、オーチョーですか?

横超でしょうねぇ…。多分、肉体的に、そこで、自分で、横っ飛びにジャンプすると、お墓があるんじゃないかと思います。

うーーーーーん…………。頭がクラクラしてきました。ちょっと気持ち悪いです…。

おー、すみません。ごめんなさい。

何が本当に普遍的な真ということではなく、ある共同体に共通の価値観(何が真で何が偽か)は、別の共同体では必ずしも成り立たない、ただただ絶句ということは、あり得るわけです。

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