ミシッ ミシッ
スケートをしていたら、氷が割れて、落ちてしまいました
慌てふためき、深く深く沈み、水の冷たさが身に凍みる
苦しい 助かりたいぃぃぃ…遠のく意識
ふと感じる 光
あぁ あの光は、外からの光
あっちに行けば、助かる…
残っている力を振り絞り、光の射す方へ泳ぎはじめる
もう少し もう少しで 外に出られる 息ができる 助かる…
手が光に届く瞬間 そこに遮るものが
遮っていたものは 厚い氷
力を出し切ってしまった私は、水中に沈みゆく。。。
たまに呑みに行くバーで、調理担当の子が話してくれました。
「私は長野の出身で、小学校のとき、校庭にある池でスケートができました。
先生からは、氷の色によって、氷の厚いところ 薄いところを見分けることを教えてもらいました。
万が一氷が割れて落ちてしまったときのことも教えてもらいました。実際に落ちた子はいなかったけど。
水の中で、光る方に泳いではいけないの。光っているのは、氷があるから。外に出ようと思って、光っている方にいくと、氷にぶつかってしまって、出られないの。
落っこちてしまったら、真っ黒な方に行きなさいって教えられました。黒いところは、氷が割れたところなんだって。だから、氷が割れてそこから落ちてしまった場合、光の射す方ではなくて、真っ黒い方に泳いでいかなければいけないのよ。
わかった?」
「はい」
そんな状況に陥ることは、おそらくないとは思いますが、興味深いことを聞きました。
逃れたい状況にあるとき、光の射す方に逃げ場を求める。けれど、誘われるようにそっちに行っても、待っているのは厚い壁。残っているわずかな望みも絶たれてしまう。
逃れたい状況にあるとき、暗い方(逃れたい状況に陥った源)を探せばいい。苦しいけれど、恐いけれど、暗い方に向かえば、そこには助かるための出口がある。
真っ暗な闇の向こうには、光がある。遮られることなく光を浴びる。
私は、その暗い方(逃れたい状況に陥った源)から、冷たい冷たい水の中に落ちた。
逃れたい状況は、私に関係ない方からやってきたのではない。私の足下にあったんだ。
足下のヒビに気づかずに、スケートを楽しむ私。
いや、スケートを楽しむ私が、足下にヒビを入れているのだ。
ヒビが入る音に気づきもしないで。
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幼い頃から漠然と思っていることがあります。
1年365日ずっと思っているわけではなく、また、意識的に言語化して、徹底的に考え抜いた…ということでもありません。
うまく言えないのですが…
たとえば、内村鑑三さんはキリスト者にはなりたくなかったという話を聞いたことがあるように思います。
イエスさまのように生きよう(私の間違いかも知れませんが、キリスト教ではイエスさまは、神様ではなくて、真の人間なのだと思います)と思った場合、たとえば、家を捨て、お金や持ち物を捨て、家族を捨て…というのは、普通の世間一般の常識では(←というよりも、むしろよくよく考えてみれば、なのかも知れませんが…)、本来は(←真理としては)嬉しかるべきこと、楽しかるべきこと、幸せなこと、自由で楽なこと、であるべきなのかもしれませんが、俗世間的にはイヤなことだと思います。
内村鑑三さんは、自分は、キリスト者になることは、言い換えると、真の人間になることは、イヤなヤツである、つまり、ある意味、自分はだめなヤツであるという罪の意識を、子どもの頃から、心の中で持っていたのだと思うのです。
人間失格。
人間の意識は罪の意識である…と言えるかと思いますが、すると、人間は、一人一人それぞれに皆、自分は人間失格であると思っている…という、人間とは不思議な生き物であることになりますが…。
あるいは、逆転して、愛らしい生き物と考えることもできるのかも知れませんが、さすがに、自分で自分を愛らしいとは思いにくいので、そういう逆転を可能にしつつ思考するためには、自分とは別の主語、つまり、人間世界の外部に絶対的他者を立てないといけなくなり、通常の主語-述語の構文では考えられなくなります。
仮に人は言語で考えると定義した場合には、主語-述語構造に閉じこめられることとなりますので、その場合は、愛らしい生き物であるという考え方は、思考不可能までは大袈裟としても思考困難となると思われます。
英語の場合は無生物主語(←人間世界の外部を主語の位置におく)を立てたIt構文を取るしかないわけですが、特殊な構文となります。
日本語の場合は、たとえば「今、いのちがあなたを生きている」という文、まあ、浄土真宗の外から見たら、文として主語-述語が破綻しているとして、文として成り立っていない、と思われるのは分かりますが、一応、「今、いのちがあなたを生きている」というような表現。
話がわき道に逸れましたが、内村鑑三さんは、キリスト者にはなりたくなかったが、必然的になってしまった…ということなのだと思います。
うまく言えませんが、いわば、雷に打ち倒されたのだと思います。
たしか聖書に、キリスト教を迫害していた人(多分、人殺しとかしていたと思います)、つまり、自分ではキリスト者になりたくなかった人のところに、拒否しても、拒否しても、何度も何度も、向こうから、天使さまが来てしまい、キリスト者となり、後に、殉教する、つまり、堅い堅い信仰を持つ…というようなエピソードがあったように思います。
ものの喩えなのかもしれませんが、だとしても、長年、多くの人の心を打ってきた、喩えであるとすれば、真理を語っているはずです。
うまく言えないので、話が非常に回りくどく、長くなってしまっていますが、私が子どもの頃から、思っているのは、いかに信心が獲得される(与えられる)のか、ということです。
考えて分かることではないということをずっと考えているということになってしまうので、実に、言語化はしにくいのですが…。
信仰は向こうからやってくる。自分が打ち倒される。自分が壊される…と考えると、やってこなかったら、ある意味、俗世間的には、幸いなこと(宗教的には幸いでは全然ないでしょうが、それは何が幸いか、幸いという言葉の意味が、俗世間の虚偽意識と、真理とで逆だからでしょう)と考えることもできます。
この場合、そもそも氷が割れないですめば、何も悩まずに、スケートを楽しんで、氷にひびが入っていることに気づかず、そういう一生を、ある日突然、ポックリ逝って終わりという…。
実に言語化が難しいのですが、子どもの頃から、多分、今に至るまで、不思議です。
言い換えると、というか、うまく言語化できませんが、子どものときに思ったのは、そして、多分今でも本質的に同じことが疑問のままなのは、たとえば、信仰が、あるいは、信心、信楽は、向こう(世界の外部、どこでもない場所)からやってくるのだと思いますので、すると、神様、私に信仰を与えてくださいと”自分が”祈るというのは矛盾してしまうような気がするので、そうすると、自分ではどうにもできないことになり、偶然の出逢い(←雷に打ち倒される)が必然を作らないと、信仰心は与えられない…、では、こないこともあるよね…ということです。
↑ 我ながら、実に文章成り立っておりません(^o^;)。
投稿: theotherwind | 2010年1月30日 (土) 17:00
強迫神経症的(^o^;)補足(1)
> 英語の場合は無生物主語(←人間世界の外部を主語の位置におく)を立てたIt構文を取るしかないわけですが、特殊な構文となります。
「特殊」であっても、そういう構文は可能ではないか、と、言われてしまうことも可能なのですが…
この「It」ですが、フロイト精神分析の「エス」です。「エス」はドイツ語の「It」。無生物主語。フロイトはユダヤ系ですが、母国語はドイツ語。マルチリンガルではあったはずですが。
つまり、あたかも、宇宙の外部に超越的な絶対的他者が、実体として実在するかのような言い方というのを、言語の構造というものは、そういうものなので、せざるを得ないから、そうでないと話せない、思考できないから、仮置きで、「It」という語をおいているけれども、「It」という語の背後には、実際には何もない、ゼロ記号という言い方もありますが、そういう「It」を念頭に置いています。
カントの言う超越論的ですね。
超越的ではなく、超越論的。超越的というのは間違い。間違いであるのは確かなんだけれども、言語で思考する以上、ゼロ記号は置かざるを得ないという。
「今、いのちがあなたを生きている」で言うと、だったら、「いのち」というものが、実体として、世間の外部に、実体として実存するのか、というと、それはカントからすると、間違いでしょう。
これはどう言い換えるかの問題ではなく、たとえば、「いまここで、あなたは願われている」でも表現はなんでも良いわけで、表現の揚げ足を取って、喧嘩するまでいたると、つまらないことです。
「いま・ここ」はハイデガーですね。「今、」よりも「いま・ここ」の方が好きとか、「いのち」より「願い」だろうとか好みはあってよく、笑い話として、好みを楽しく語るのは結構なのですが、そういう問題ではカント的には、ないです。
精神分析でも、エス、ことばの蔵が、私の内部の外部、どこでもない場所に、精神分析の神話とフロイトは言っていますから架空ですね、架空ですが、大昔、私以前から、「いつでもつねにすでにそこに」あって、エスがあったでもあろうところに自我をあらしめよ、つまり、エスが私となって、もはや何者でもなくなったときに、人は自分になるけれども、私はエスではない(むしろ絶対的他者性を持つ)という…、もう考えたら頭が割れそうな物言い(^0^;)。
カントの「超越論的」だと、確かに「内部の外部」ではあるけれども「外部の内部」ではないですね。
実に分かりません(^o^;)。
ただし、前にも書きましたが、「霊はあるか―科学の視点から (ブルーバックス)」のアンケートに対し、浄土真宗のどこかの回答の「いかなる意味でも存在しない」を、別に浄土真宗に限らず、仏教の基本であるとしながらも、真言宗のどこかの回答である「実体として実在する」という、潔さには、その潔さには私は、一種、感動しました。
というのは、カントであれば、いわば、「内在即超越」は正しい、けれども、「超越即内在」はおかしい…となり、フロイトで言えば、「エスが私となる」は正しいが、「私はエスである」は間違い、と一方通行なわけです。
が、「実体として実在する」と、わざと、あえて言い切るという、その、言表行為、スピーチアクト、アンケートにそう書いて提出するという行為の潔さに、一種、感動したわけです。内在即超越、超越即内在。即身成仏。
回答しないという行為をもって回答とす、簡単に言えば、そんなことには興味ない、ないし、知りません、分かりません、そんなことよりいまここで大事なことがあるだろうとか、そんなアンケート用紙に記入する時間があったら洗濯とか炊事とかする、というのは普通なので、「おー」とは思えないですから(^0^;)。
投稿: theotherwind | 2010年1月30日 (土) 18:06
強迫神経症的(^o^;)補足(2)
プロテスタントの方が、カトリックのマリアさま崇敬は崇敬であって信仰ではないと言うけれども、形としては信仰に見えてしまうのでちょっと躊躇してしまうものがある、けれども、頭を垂れているその後ろ姿はとても美しいと思う…というようなことを言われることがあるように思います。私の真言宗ってすごいなぁという気持ちは、もしかするとちょっと近いのかも知れないとも思っています。
儀礼は、仮に自分の信仰に疑念が自分としてはあったとしても、形としては、誰でも参加できることに価値があるとも思います。
投稿: theotherwind | 2010年1月30日 (土) 22:55
強迫神経症的(^o^;)補足(3)
> そもそも氷が割れないですめば、何も悩まずに、スケートを楽しんで、氷にひびが入っていることに気づかず、そういう一生を、ある日突然、ポックリ逝って終わりという…。
私の子どもの頃からの不思議だなぁと思うことを別の観点から言い換えると、たとえば、恋愛、考えたら、できれば避けたいことではないかと思います。
自己愛という観点からすると、自分だけのナルシシズムに閉じこもっていられるなら、その方が、ある意味、幸せなのではなかろうかという意味です。
恋愛するということは、ナルシシズム破壊ですよね。破壊は大袈裟としても多少は、自分像にヒビが入るわけです。
しかしながら、一目惚れというようなこと、どこからか、来てしまうという、交通事故みたいなものでしょうか、そういうことは人には起きてしまうことがあり得るわけです。
なぜなのか…。
仮に、人間の本質が、自己保存、自己愛であれば、人は恋愛しないはずです。
これが謎。つまり、次の世代とか、他人とか、人間が、自己中心的なのであれば、理屈としては、知ったことではないはずなのに、実態としては、そうでもないという不思議。
いや、考えるから謎なので、人は、自然に恋愛するでしょう、と言われればそれまでなのですが…(^o^;)。
投稿: theotherwind | 2010年1月30日 (土) 23:03
強迫神経症的(^o^;)補足(4)
あり得る考え方:
( a) 一闡提はいるが仕方なし。まあこれはないんじゃないかと思いますが、一応…。
( b) 一闡提はただテキストにそう書いてあるだけで、実際に一生懸命生きている人の中にいない。(あるいは、人はみな自分は一闡提ではないのかという疑いを持っている。)
( c) 一闡提という概念は、真宗・念仏に必須の概念である。一闡提という概念なくして真宗・念仏はない。一闡提あってこそ真宗・念仏あり。→これは、理屈として自動的・機械的にそういうロジックになるのではなかろうかと考えられるので書きましたが、中身は全然思いついていません。論理というのは、中身なくても自動的・機械的に立てることはできるので、立ててみた命題。でも中身は考えついていません。
一応、実践的には、他人を一闡提じゃないのかと思う人(自分)だけが一闡提なのであるとかは一応ロジックとしては可能かとは思います。
投稿: theotherwind | 2010年1月31日 (日) 14:25
> 自己愛という観点からすると、自分だけのナルシシズムに閉じこもっていられるなら、その方が、ある意味、幸せなのではなかろうかという意味です。
恋愛という極端な例を考えるから不思議なのかも知れません。師、先達、友人、全知識と思えば、やはり当たり前なのかも……。
投稿: theotherwind | 2010年1月31日 (日) 22:49
> 全知識
誤変換でした。
善知識です。
投稿: theotherwind | 2010年1月31日 (日) 22:51
☆theotherwindさんへ
信心を賜ることについて、そこまで考えたこともありませんでした。賜るものなので。かといって、阿弥陀さんは衆生を選り好みしていません。一切衆生悉有仏性です。
「今、いのちがあなたを生きている」は、そういうことも表わしているのだと、私はいただいています。
なので、言語が破綻しているだなんて、テーマをいただいてから思ったこともありませんでした。
投稿: かつ | 2010年2月 2日 (火) 22:15
今朝投稿したつもりが送信をきちっとしなかったようです…
その後、大学生くらいのときでしたか、あるフレーズに出逢って感動しました。不思議なことに、いつどこで読んだのかは覚えていません。
「全ての祝福は既になされている」
たとえば、生まれたことが既に奇跡であると取っても良いでしょうし、イエスは本当に真の人間として生きたのだなぁと思った時でもよいでしょうし、法蔵菩薩が誓願を建てた、昔、昔、大昔、思考不可能な昔、論理的に、先験的に、完全に利他的であるということが人間に可能なのだという証が本当に既にあるのだなぁと思ったときでも良いのでしょうが、奇跡は、「この私」、他の誰でもない、「この性」を持った、固有のこの私に既に起きている…と取って良いと思います。
よって、今、世の習い、習慣、癖として、たとえば大仏に、商売繁盛、家内安全、五穀豊穣、必勝祈願……祈ってはいけないとは思いませんし、人は必ず祈ると思いますが、全ての祝福は、昔、昔、大昔、思考不可能な昔、起源神話としての昔に既に一回だけなされており、今から追加で新たには起きないので、そういう、商売繁盛、家内安全、五穀豊穣、必勝祈願……祈っても、そのことによって、新たに追加でそういうことは起きない、ということになりますね。
もう既に、考えたら不可能なことが可能になって生きています。
投稿: theotherwind | 2010年2月 7日 (日) 00:24
その後、会社員となり、アメリカ合衆国に駐在したところ、現地法人の社員の中に非常にまじめなプロテスタントの人がいて、イエス様にtotally submit yourselfすること云々という話を聞いたのも、多分、一生、心に残る言葉でした。
totally submit yourselfというのは、訳せないので、今、そのまんま英語で書いてしまいましたが、強いて、訳すと、「帰命」と言っても良いかもしれません。
礼拝しても帰命していないということはあり得ますね。帰命していて礼拝しないということはあり得ないですが。
そーーしーーーてーーーーーーー、思うに、実は、いや、この米国人の同僚が言いたかったことはそうではなかったとは思いますが、私が思うに、だーーーかーーーらーーー、大事なのは、実は、礼拝だと思っている私なのでした…。
精神分析で言うと、帰命は、「絶対的他者からの呼びかけ」に当たるので、これはいつでもつねにすでにそこにある、根本であると考えられるわけですが、それでも、にもかかわらず、しかーーーし、礼拝が実は大事なのだと。
投稿: theotherwind | 2010年2月11日 (木) 20:00
よくよく考えたら、私はきっと、人間は、みな、自分は信心が不足なのではないかという疑念を持っている、のではないかと思っている、だけのこと、ということに気がつきました(^0^;)。すみませんでした。
投稿: theotherwind | 2010年2月14日 (日) 12:15
☆theotherwindさんへ
なにも謝ることはございません。
「私は信心深いから」とか
「なんで悪人が救われるんですか?」
などと言えてしまうことと比べれば、信心の不足を悩むことの方が必然だと思います。
投稿: かつ | 2010年2月16日 (火) 01:35
> 一切衆生悉有仏性
人間以外の動植物は仏性を有すというより、仏であるように思うのですが…
人間は1歳半くらいから母国語がインストールされて分別が生じてしまうので人間だけは仏ではないように思ったりしてしまうわけです。
人間だけはというのは、裏返せば傲慢な考えではあるのですが…。
アメリカの人だったと思いますが、確か脳腫瘍で言語野を切除、言語が脳から取り除かれたので、「我」というものが無くなって、たとえばシャワーを浴びたら、えーと、大人の人間の場合、失語症でもなければ、皮膚の内側が私、皮膚の外側は私ではないという分別があるわけですが、それがなくなって、赤ちゃんに還って、水と自分との境がないという、実際の感覚ですね、これがあった。
なぜ、この人が今、その経験、実感、感覚を語れるかというと、お母さんが、飛んで来て、ベットに寝ているこの人(娘さん)、確か30最代だか40最代だかだったと思うのですが、一目見て赤ちゃんだと直感して、すぐに横に寝て、抱っこしてあげたところから始まって、リハビリしたら、脳の他の部分が言語野になって、今は大学教授になっているからなんですが、で、この感覚を、多分この人アメリカ人だったと思うのですが、私はニルヴァーナにいましたと言ってました。我執がなかったからですね。
人は人であるだけで罪深いと言いますか、フロイト精神分析で言うところの絶対的他者からの呼びかけを、無視するのが自我の機能(防衛機制)である…という、呼びかけはいつでもつねにそこにあるのに、フロイトの言う「否定」があるわけです。拒否、無視、見たくない…
まだ言葉が話せない赤ちゃんや、動物の気持ちは分からない(忘れてしまっている、無意識になっている)わけですが、もちろん、5秒後に死ぬかもしれないという現実に直面しているとすると、いつもビクビクしているという想像もあり得ますので、そう思えば、大人の人間のように、自分だけは大丈夫という無根拠な、現実否認があるからこそ、人間は諦めが悪いことで、しぶといという利点はあったので、世界制覇(?)した、心優しいネアンデルタール人は滅んだが、ホモサピエンスは栄えているという解釈は可能なのではあるでしょうが……。
栄えるということが本当に本当にそんなに大事かと言うとかえって傲慢ですが。(生まれてすみませんと人間が勝手に言うことが傲慢なため。)
それでも、全ての人は既にあるがままであることを許されてあるのですね。(もっともその真理を知ることを人はその傲慢さから拒否するものでもあるようにはどうしても思ってしまいます…。人間という病なのではと。)
投稿: theotherwind | 2010年2月17日 (水) 11:44
まあ、そんなことはどうでもいいから、いま・ここでの人間関係を生き抜きなさい…と言われれば、それまでではあります(^o^;)。
投稿: theotherwind | 2010年2月17日 (水) 21:33
> 一切衆生悉有仏性
自分以外の家族ですとか、友人ですとか…、他の人は、私がアホなので、そんな私を助けるために、この世にいてくださる仏様…というのは、人間は、普通に素直に思えるとは思います。ただ、自分は仏様とはなかなか思いにくいようには思います。
投稿: theotherwind | 2010年2月23日 (火) 21:37
> 信心の不足を悩むことの方が必然だと思います。
前々回と前回の東京の求道会館親鸞講座で、それぞれ別の方(どちらの方も真宗大谷派の僧侶の方ではなかろうかと思います)が、私の受け止め方からすると、信心決定できないんですが…というご質問をされていたように思いました(そういう趣旨のご質問ではなかったが、私がそう誤解したのかもしれません)。
応えは、これも私の誤解かもしれませんが、ある意味、定義によるけれども、ある意味、誰もできません、と言われていたのだと受け取りました。
だから一生聞法と。
なんとなく、ほんのちょっと分かったような気がしました。
いや、誤解かも知れませんが…
投稿: theotherwind | 2010年3月 7日 (日) 16:05
http://homepage.mac.com/hon1/sukanen/honkojinote/note2/note1.htm
「真宗のご門徒というのは身を運んで聴聞するという、仏法はただ聴聞にきわまる、といわれます。聴聞ということをはずして仏法はないわけですね。聞即信と、こういいます。聞くことの他に、何か信心という特別なものがあるわけではない。本当に我が身というものがお聞かせにあずかる、お知らせをいただく、そういう人間としての営みを生涯かけて全うしていくということが、そのまま信心の歩みであると思っております。」
とありました…。
投稿: theotherwind | 2010年3月 7日 (日) 20:26
☆theotherwindさんへ
「私は信心決定しました」
なんて言えてしまったら、それこそ誤解ですね。
しかし、誰もがすでに信を得ているのです。
なんて言うから「真宗はややこしい」なんて言われてしまうのでしょうね。
松本梶丸先生のおことば、聴聞させていただきます。
ご紹介くださり、ありがとうございます。
投稿: かつ | 2010年3月 9日 (火) 02:02
> 松本梶丸先生のおことば
有森選手のところは、ちょっと…ですが…。
有森選手が「自分をほめてあげたい」と言ったとき、みんながなんとさわやかな言葉だろうと全員思いましたとありますが、そんなことはなくて、ほとんどの人が違和感をもったはず。でチベット文化研究所の方でしたか、そんなことを言うなんて!とショックを受けましたという取り方の方が、常識とは異なって、深いというようなお話になっていますが、逆で、ショックだった人がほとんどのはず。
で、有森選手の「自分をほめてあげたい」というのは、実は、仏教なんですよね……
多分、松本梶丸先生は、有森選手の「自分をほめてあげたい」というのは、実は、仏教というのを知らなくて、有森選手は年齢もお若かったし、仏教の知識があまりない人であろうと、人生経験もあんまりない人なんだろう、いまどきの若い人なんだろう、という偏見がちょっと入っていたんではないかと思います。
ただし、松本梶丸先生が例外なのではなくて、私も当時、何を言ってるんだろうこの人と違和感を持ちました。
当時はみんな誤解していたのだと思います。
投稿: theotherwind | 2010年3月13日 (土) 21:33
> 「私は信心決定しました」
> なんて言えてしまったら、それこそ誤解ですね。
> しかし、誰もがすでに信を得ているのです。
> なんて言うから「真宗はややこしい」なんて
> 言われてしまうのでしょうね。
おそらく、100人、人がいたら、正直に言えば、99人は、自分には「信」が不足なんじゃないかなぁという疑念を持っているのではないかという気がします。
それは何故かというと、何かちょっとは「証」的なことが意識されても良いんじゃないかなぁということがあるのではなかろうかと思います。
八地以上の上地の菩薩の境地にジャンプして、見返りを求めることなく、自在に、自然に、遊戯として、利他行ができている、且つ、それが自分でも自我の変容として意識できる…であれば、それは証です。
大乗仏教なら利他ははずせないはず…。
できれば臨終を待つことなく、利他行したいですね。
且つ、自分でも自分の自我の変容が多少なりとも意識したい。
上地の菩薩の境地にいきなりジャンプは大袈裟としても、何か、ちょっとは、自分の人格が円満になるとか、いつもにこにこしているようになったとか、端的に、多少、人格が円満になった、品格が与えられたとか、そういうことが自分でも意識されれば、一種、ちょっと証になるわけで、で、あれば、自分には信が与えられているということが証明されます。
がっ、なかなかそういうことはないですね。性格は治りません(^0^;)。
ただし、そうは言っても、親鸞聖人からごらんになられたら、法然上人は、勢至菩薩という働きの顕現だった…ということは真実だとは思います。
投稿: therotherwind | 2010年3月22日 (月) 12:52
☆therotherwindさんへ
コメントを拝見していると、「信」を得ることに苦心されているご様子。信心獲得というくらいですから、獲得するのは、労力がいりますよね。
曽我量深先生が、「真宗は他力のおしえだから、自分から信心を得ようとしなくてもいいと言う人もいますが、信心は獲得するものです」と言って立ち上がり、獲物を獲るようなポーズをされたというエピソードを聞いたことがあります。
ライオンが、どんなに弱小な獲物にも全力で向かうように、我々もそれほど全力で信心を得ようとしなければいけないのでしょう。
反面、私は、おしえに出遇い、聞法の場に身をおくことができること自体が喜びなので、「信心を得る」ということについて、考えたことも求めたこともありませんでした。マイノリティですけどね。信心がないと悩む方が健全なのかもしれません。
投稿: かつ | 2010年3月23日 (火) 23:52
> 私は、おしえに出遇い、聞法の場に身をおくことができること自体が喜びなので、
小賢しいことを考えすぎずに、そうではなくて、毎日、人との出会いを大切に、こつこつ、地道に、いま・ここでの一期一会を大切に、生きていけば、それが、既に、修行なのでしょうね……。
既に修行と言いますか、それ以外に修行はないのでしょう。
それしかできないわけですし、それを本当にやることは、小賢しく考えすぎたら難しく思えてしまうことかもしれませんが、考えすぎずに、体でやっていたら、だれでもできることなのかも知れません。
そういうことから逃げているから、私の屁理屈があるのだと思います。
投稿: therotherwind | 2010年3月27日 (土) 09:19
> コメントを拝見していると、「信」を得ることに苦心されているご様子
苦心というよりも、幼い頃から、漠然と思っている…というのが近いです。
たとえていうなら、人間は皆、「赤ちゃんはどこからくるの?」という疑問、即ち、「私のはじまりは?」という疑問(さすがに赤ちゃん一般については誰も興味はないのであって、本当に興味があるのは「私のはじまり」でしょう)は、多分1歳半から、一生涯持ち続けると思いますが、そういう疑問に近いです。
小学生の理科で、「地球上の生命の始まりは何でしょう?」というのがあり、正解は、「宇宙のどこかで昔、惑星が爆発して、粉々になり、その一部が、隕石となって地球に落ちた。その隕石に生命がくっついていて、それが地球上で栄えた」なんですが、気が遠くなるような回答ですね(^o^;)。
爆発して滅んでしまった世界ですが、そのときに、生命が死滅しなかったのが、先ずほとんど不可能に思えますが、四方八方、十方に破片が飛び散るわけで、地球の方向に飛び散った破片というのは極々一部でしょう。それから、途方もない距離を真空で極寒の虚空を放射線などにさらされながら旅して来たわけで、途中で、他の恒星の重力場に引き込まれて落下するなどで、生命が死滅しなかったというのもほぼ不可能。地球にうまい具合にたどり着くのがほぼ不可能に思えますが、隕石と言ってもほとんど燃え尽きるわけです。ちょうどそこに地球があって、突入角度も速度も完璧であって、ようやっと、地球上で栄えているわけですね…。(その後、地球の歴史上、全生物の99%死滅という危機は何度もあるわけですが…)
気が遠くなるような回答。
ただ、この最新の西欧近代科学の回答ですが、子どもの、つまり、人間の、根本的な疑問である、「始まりが知りたい!」という疑問には答えてはくれていません。無記です。
最新の西欧近代科学の回答は、簡単に言ったら、「無始説」ですから。
三千大千世界全体を考えたら、いつでもつねにすでにそこに、命はある、という説明。ある仏国土から、別の仏国土に生まれ変わっているだけです、始まりはありません、という説明…。
本当の始まりは無始であるという、論理的には真理以外のなにものでもないので、反論のしようがありません(※)が、なんか、がっかり(^0^;)。
知りたいのは始まりなのに…
※ 神様は暇だったので、あるいは寂しかったので、命を作りました…という説明の場合、神様が原因ではなく、神様の暇が原因、また、神様はある時点まで暇だなぁと意識していなかったことになるので、ある時点で、突然、暇を意識させた原因がさらに考えられる……と無限後退の誤謬に陥るので、唯一、論理的な始まりの説明は、無始である、という論理なので反論のしようがありません。真理以外のなにものでもないため。
投稿: therotherwind | 2010年3月28日 (日) 12:07