« 必要 不必要 で計る人生って… | トップページ | 2010年1月のことば »

2009年12月31日 (木)

今年もお世話になりました

早いもので、今年も今日一日を残すのみですね。
お久しぶりです。長いことブログの更新が滞り、申し訳ありません。  
読書が好きな方は、当ブログを一読してお気づきかと思いますが、私の文章は物書きの文章ではありません。読ませる文章ではないのです。ブログや寺報をまめに続けていると、文章を書くのが上手な人と思われがちなのですが、私自身は、読書が苦手で(読むペースがとても遅いのです。で、読みかけと化した本が山のようにあります)、文章を書くのも億劫なのです(作文がまったく書けない人でした)。
そんな私が、親鸞聖人のおしえを、一人でも多くの人に知ってほしくて、寺報 そしてブログを始めました。ずっと伝えたい気持ちの勢いで書いてきましたが(その割にはよく続いてましたね)、いかんせん蓄積がないのと、自分の文章に対する嫌悪感から、ブログが遠のいてしまいました。
お寺参りにみえる門徒さんからは、「ブログ楽しみにしています」「孫が見ています」などと声をかけていただき、ありがたいことです。当ブログを楽しみにしてくださっているみなさん。しばらく留守にして失礼致しました。
書くに書けない時期だったんだなぁと思って、お許しください。
 
書くに書けないとはいえ、書きたいことは山ほどありました。ただ、やはりリアルタイムに書いていかないと、自分の中でも想いが薄れていくのですね。時間が経っても書けることは書いてきましたが、更新されなかった文章も多々あります。
寺で、パソコンの前に落ち着いて座っていられる時間がなく、「書きたい!!」と思ったときと、パソコンの前でゆっくり座っていられる時間とのズレが生じ、結果書かずに終わるということが続きました。時間そのものがないほど忙しいわけはなく、先ずこなさなければならない事務作業をしてしまうと、ブログに取り掛かる時間がなくなってしまうのです。
パソコンで書けないならと、移動の車中などで、携帯で文章を書いたこともありますが、やはり携帯。長文を書くには適しません。この文章、携帯で書いたなと思わせる文章が、いくつかありましたでしょ? ミニパソコンを買ってまで外で仕事をしなければいけないわけでもないので、外用のパソコンも持っていません。
余談ですが、キングジムから出ている「ポメラ」なるものを買いました。テキストをただ打ち込むだけのアイテムです。USBで接続して、書いたテキストをパソコンに送ることができます。まだそんなに使っていませんが、先日、秋田から東京に向かう新幹線こまちに乗りながら、4時間の道中、ポメラとにらめっこしてました。いくつか文章を書くことができました。なかなか優れものです。ミニパソコン買えよと突っ込まれそうですが。
  
言い訳が長くなりました。なんだ文章書けるじゃんって感じですね。
さて、今年一年を振り返り、折にふれ、いろいろなことを考えていました。
今年あった出来事をちょっと振り返ってみます。
○日本で裁判員制度スタート
○臓器移植法案改正(改正といっていいのか?)
○実母による代理母出産
○二酸化炭素排出量をめぐる、国と国との駆け引き
 
 
○日本で裁判員制度スタート
人が人を裁くのは、正直困難なことです。誰もが罪を犯しうるのですから。
しかし、法治国家で生きる我々は、法という仮に定められた約束事の中で生きていかなければなりません。
制度が始まった以上、その制度がある中で、自分がやるべきことをしていかなければいけません。それができないならば、制度が始まる前に、反対なり抵抗をしなければいけませんでした。
いつの間にか決まってしまったという言い訳もできますが、もっと国の動きをチェックする義務も国民にはあります。民主党が政権をとり、今まで見えなかったもの(見ようとしなかったもの)が見えてきて、あらためて感じました。
個人の意見を書くのを忘れていました。制度そのものには、私は反対の立場でした(「反対」と言えるほどよく学んでいませんでした。「不安」といったほうが正しいかもしれません)
人が人を裁くの困難だと書きました。もうひとつ。人が人を許すことも困難なのです。日本の裁判員制度は量刑まで決めます。その責任の重さも感じますが、被告人が課された量刑を終えたとき、そこに許しがあるのが本来だと思うのです。しかし、果たして許すことができるのか(いや、できない)。
このことは、裁判員制度の範疇を越えたことではありますが、制度のことを少なからず学んだときに、そういえば、課された量刑を終えたら、そこには許しがあるべきじゃないのかな。もし許せないというのなら、それは課した方に罪が生じるのではないだろうか、と考えるようにもなりました。
「許さなければいけない」ということを言いたいのではありません。許せないという事実があんだなということを、あらためて思ったのです。
 
山本周五郎さんの「ちくしょう谷」の中の文章が思い起こされます。 
ゆるすということはむずかしいが、
もしゆるすとなったら限度はない
ここまではゆるすが、ここから先はゆるせないということがあれば、
それは初めからゆるしてはいないのだ

  
  
○臓器移植法案改正(改正といっていいのか?)
臓器移植そのものには、私は反対しています。
そのようなことを言うと、「臓器移植によって助かるいのちを、見殺しにしろというのか!」と怒鳴られるのですが(経験あり)、そういう議論をしたいのではないのです。
反対しているけれど、実際に自分や家族が臓器移植が必要だということになったとき、絶対に動揺すると思うのです。悩むのです。苦しむのです。臓器移植に賛成している人だって、やはり悩み苦しむのです。
また、臓器ではないけれど、火傷などを負った場合に皮膚の移植をすることがある。腎臓は一対あるからと、脳死判定に関係なく腎臓の移植は行われる。さて、臓器移植に反対しているといいながら、皮膚や腎臓の移植は、抵抗なく受け入れるのだろうか。脳死判定の後に移植される臓器の移植は反対で、皮膚や腎臓はいいのか。そういうことも、自身に問いました。
夏ごろでしたか、臓器移植法案改正について国会で議論されていたのは。その報道を見ていて感じたのは、「報道する人たちは、みんな移植賛成なんだなぁ」と思ったのです。ニュースで伝わってくるのは、賛成の前提に立った報道。今現に移植を待つ家族を映し出し、日本国内で子どもが臓器移植できるようにと訴えかける報道。あの映像を見れば、助けてあげたいと思うものです。しかし、脳死判定をされる子を持つ親もいるのです。脳死判定されても、体は成長していくのです。つまり、やっぱり死んではいないのです。移植を待つ家族の映像は、テレビでたくさん見せられましたが、臓器提供を願われる側の家族の映像は、私は一度しか見ることがありませんでした。
「いのちを大切にする」って、どういうことでしょう。
  
今、臓器移植法案改正について書いたのは、多くの問題提起がなされていると思ったからです。
臓器移植そのものの賛否についてもそうですが、脳死を人の死とすることについての問題もあります。もっと突き詰めると、今、死と判定される 心停止・自発呼吸停止・瞳孔散大も、約束事として通っているから、そこで死の線引きができるけれども、やはり、そこをもって死といえるのだろうか。という問題も、あらためて浮き彫りになってきました。さて、死とはなんでしょう。どこまでが生で、どこからが死なのでしょう。
それから、報道のあり方の恐ろしさを、あらためて感じました。テレビ局によって立ち居地が違うならば、各局の報道を見比べて、自分で考えることができますが、みんな同じ方を向いている。報道によって、国民の意思の操作が為されうる事実を表わしています。今現に、気づかないうちに、「これが正しいんだ」って植えつけられているかもしれません。
   
   
○実母による代理母出産
「人間が頭で考えることは、実現可能である」と、聞いたことがあります。臓器移植にしても代理母出産にしても、考え出された当時は夢物語だったことでしょう。それが今では、実際に行われています。クローンについても、規制はされていますが、人間、それが可能だとなったら、研究を続けるものです。研究を続けていたら、実際にやってみたくなるものです。また、それが実際に行うことができるのは、需要があるからです。
人間の欲望にブレーキはかけられないのかもしれません。
  
  
○二酸化炭素排出量をめぐる、国と国との駆け引き
二酸化炭素排出量をめぐって、国と国との議論が続いています。
話に決着がつかないのも当然です。先進国は、みんなで同じように抑えようと言うし、途上国は、先進国は今までさんざん二酸化炭素を排出してきて、今になってみんな同じように抑えようなんて勝手すぎる、と。
先ほどの臓器移植のこととも関係しますが、臓器提供が日本で進まない現状によって、途上国での臓器売買・子どもの売買が起こっています。それなら、日本で臓器提供が進むようにすればいいじゃないかといえば、それもまた危うい。
一方を立てれば、一方が不利になる。こっちが良かれと思って突き進めば、他方にとって悪い結果をもたらす。難しいものです。
  
        
 
今年一年(に限った話ではありませんが)の出来事から、感じたことを書かせてもらいました。
もっともっといろいろな事項があるのですが、リアルタイムで書かないから忘れてしまいました。
もしかしたら、私の文章によって傷ついた方もいるかもしれません。
もしかしたら、マスコミによる国民の意思の誘導だなんて言いながら、私自身も、意思の誘導をしているのかもしれません。
もしかしたら、誤解した知識で、自分の考えを持ち、文章を書いているかもしれません。
申し訳ありません。
  
今年最後に、ちょっと頑張って文章を書いているのは、それぞれの賛否を語ろうというのではありません。良い解決方法を探ろうというのでもありません。
今の私たちは、
○答を求めすぎている
○答をひとつだと思いこんでいる
○自分の考え方とは違う人がいることを忘れている
○今、私の前に人がいることが見えていない
そういうことを感じたのです。
  
すぐに答だけを求めるけれど、自分で考えるということが大事なこともあります。
答はひとつだけとは限りません。
答がない、という答だってあります。
自分の置かれている立場や境遇によって、考え方は変わるものです。
昨日まで自分の中での正義(悪)だったことも、ふとした瞬間に正義(悪)でなくなることがあります。
自分の考え方とは違う人がいる…だけではない。私自身の中にも、違う考え方をする私がいるものです。自分の中で、意見をぶつけ合うことも大切です。
時事問題を取り上げ、いのちが大事・いのちが大切・平和を願うなどというけれど、今、私の前に人がいることを忘れていませんか。
   
「今、私の前に人がいる」…今年一年 生かされてきて、親鸞聖人のおしえの醍醐味は、「今、私の前に人がいる」ことを気づかせるおしえだったんじゃないかなと、強く感じました。
そのようにいただけた喜びもありますが、ということは、そのことが見えていなかった事実があります。
人を人と見ない恐ろしさ 
自分さえよければいいという悲しさ
今年を振り返り、というか、今年の歩みの中で、そういうことを考えていました。

私が今年読んだ数少ない本の中で、素敵なことばと出会いました。
   
隣に誰かがいるだけで、〝憂い〟は〝優しさ〟に変わります。
   (斉藤里恵さん『筆談ホステス67の愛言葉』より)
 
人がいるという気付きが、憂う私のこころに、優しさを与えます。

○日本で裁判員制度スタート
○臓器移植法案改正(改正といっていいのか?)
○実母による代理母出産
○二酸化炭素排出量をめぐる、国と国との駆け引き 等々・・・

ハッキリ言って、解決策などありません。誰もが納得する答もありません。
しかし、だからといってあきらめたり投げ出したりするのではなく、今、私の前に人がいるということを忘れてほしくないのです。
それだけを言いたくて…長々と書いてしまいました。普段から書けばいいのにね。
  
 
 
O野さん、ブログを読んでくださっているそうですね。29日だったかな、お母様がお寺参りにみえて、「娘がブログを拝見してます」と仰ってました。ありがとうございます。寺報も、バックナンバーをとってあります。春のお彼岸のときにお渡しいたします。
 
theotherwindさん、ブログにコメントをいただいていたのに、返事もせず失礼しました。私のキャパオーバーで、コメントのお返しすら書けませんでした。いただいたコメントはちゃんと拝見しました。当ブログを訪ねてくださって、ありがとうございます。
 
小中学校の同窓生のS藤さん、無事出産されましたか? お寺の門前で掃除をしている私に声をかけてくださって、本当にありがとう。もしかしたら、20年ぶりくらいの再会になりますかね。お話ができて、とてもうれしかったです。出産されて、大阪に戻られたのでしょうか。里帰りで烏山に来ることがあったら、お寺へもお寄りください。待ってます。
 
ブログや寺報を読んでくださっているみなさん
白骨の会や聞法会に来てくださるみなさん
親鸞聖人に人生を学ぶ講座で出会ったみなさん
今年一年お世話になりました。ありがとうございます。
どうぞ良いお年をお迎えください。
                  南無阿弥陀仏

Dscf2833

« 必要 不必要 で計る人生って… | トップページ | 2010年1月のことば »

コメント

> theotherwindさん、ブログにコメントをいただいていたのに、返事もせず失礼しました。私のキャパオーバーで、コメントのお返しすら書けませんでした。いただいたコメントはちゃんと拝見しました。当ブログを訪ねてくださって、ありがとうございます。

唐突、突飛に書き込みましたのに、こちらこそ、大変有難うございます。

何で知ったのか、同朋新聞だったか、サンガだったか、あるいは真宗無関係な何かだったか忘れてしまいましたが、911で息子さんをなくされたお父様、なぜこのようなことが起こるのかを考えられて、アフガニスタン(←であったと思いますがうろ覚えです)に行かれ、まあ、どう言うか言葉の選択が難しいのですが、現地、一般的に経済的な意味では貧しいのですね。飲料に適した水を確保するのも難しいという話だったと思います。で、このお父様は、確か浄水装置だったと思いますが、そういうものを手配して、再度、現地に行かれた。そのときの写真があって、現地の子どもたちに囲まれて、子どもたちも笑顔、笑顔、有難うということなのでしょう。そして、このお父様も笑顔の写真を何かで見ました。

浄水装置を手配して現地に設置するというのは、そのこと自体は、言ってみれば、表面的には、先ずは、利他行のようなことですね。

けれども、私は、このお父様は、利他行というか、利他行と言ってしまうと、このお父様が実際にされたことの意味を狭く閉じ込めてしまう言葉かとも思いますので、言葉の選び方が難しいのですが、単純には他人を救う行為と取れますが、しかしながら、このお父様ご本人も、そういう行動を自然に理屈で考えるより前に体が突き動かされて必死にやった、実は、その行動を自然発生的に取ったその以前に(←論理的な時間順序として)、既に、ご本人が救われていたのだと思いました。

他人を救うという自然発生的な行動を取るとき、本人が既にあるいは同時に救われている。

もちろん普通の意味で、なくなった息子さんは帰ってはきません。

けれども、何かは決定的に変化している。

私の学部の専門(←たいして勉強していませんが)であった精神分析では、「精神分析は現実以外のすべてを変えることができる」と言いますが、なくなった息子さんは普通の意味では、物理的には復活はしないでしょう。それを現実は変化しないと言えますが、現実以外の全てを変えることができる…というのは、現実は変わらないから無駄なのではなくて、とても大きなことだと思います。

精神分析のモットー、目標(ただし一生到達しないことになっているので「終わりなき分析」と言われますが)は、「エスがあったところに自我をあらしめよ」ですが、これを言い換えて「人はもはやなにものでもなくなったときに、自分になる」とも言います。それは、「人はあるがままであることを許されてある」という、普通に考えたら、人間は自分を許すこと(この場合であれば息子さんがなくなったのは自分のせいであるとお父様が思ったであろうことに対してそういう自分を許すこと)は、近代哲学用語で言うと「不可能」、多分、仏教であれば「難の中の難」(←これは普通の近代哲学用語であれば、難しいのではなくて不可能という意味だと思います)ではあるが、実際には、人はみな不可能を可能にする働きの中で、毎日を生きているということなのでしょう。

人間にとって不可能なことは自分を許すということですが、実は人は、「いつでもつねにすでに」、許されてあるということだと思います。

と口で言うのは簡単ですが……(^0^;)。

ことしもすっかりお世話になり、ありがとうございました。12月の「白骨の会」欠席が残念でしたが、あの日の前後3日間はどういう訳か体が動きませんでした。その後は回復しております。

来年も宜しくお願い申し上げます。

> ○日本で裁判員制度スタート

難しい問題ですね。簡単に、私が何も行動しないで、頭で考えただけの言葉だけでは、答え、正解、には到らないと思いますが…

一つの可能性として、たまたま、偶然に、犯罪を犯してしまった人を、たまたま、これまで偶然に犯罪を犯さないですんでいる人々から、話を聞かないで、隔離して、忘れていると、犯罪を犯す人間は自分とは違うのだ、自分は善人、犯罪を犯す人間は普通ではない、最初から自分とは全く違った人間であって、自分とは何の関わりもない、自分は犯罪者とは違う、自分は犯罪を犯すことはない…、と思いがちかと思います。

実際に話を聞いてみれば、チャンスに恵まれなかっただけの人なのかなぁとか、境遇に恵まれておらず本人の努力不足だけとは言い切れないかとか、悪をもともと楽しむために悪をなす根っからの悪というわけではないとか、自分でも同じ境遇であれば……とか、普通の人だったとか……そういうことが分かるということが有り得るかも知れません。

そういう経験がだんだんに多くの人に積まれていくと、もともと、裁判以前に、犯罪に人を追い込まない日本社会を作る方向に向かうという可能性もあるのではないかとも考えられるかなとも思いました。

☆やすさんへ
お体回復されたようでよかったです。
本日(元日)はお寺へお参りくださいまして、ありがとうございます。
私は留守にしていまして、失礼致しました。 
   
白骨の会、とりあえず半年間 先に日を決めることにしました。そして、昼からの会にしました。
今日お渡しした寺報に日程を書いてありますので、今
からご予定ください。
 
本年もよろしくお願いいたします。

☆theotherwindさんへ
「911で息子さんをなくされたお父様」の行為は、慈悲行でしょう。いいことをした、という意味ではなく、「そうあるべくして、そうさせていただいた」阿弥陀の慈悲行であると思います。
行為としては、私たちは、どこまでいっても、なにをするにしても、自力です。
私たちの為すことは自力ですが、すべて他力の中。と、私は思っております。
 
その考え方でいうと、「犯罪を犯してしまった人」も他力の中の自力。
悪人正機が難しいという言われるところです。

「難の中の難」…私は「真実」と読んでいます。
今現に我が身に成就している。
不可能というよりも、可能の意味になりますが。
 
「いつでもつねにすでに許されてある」のです。今現に。その証明者が、なによりも自分です。

>「難の中の難」…私は「真実」と読んでいます。
今現に我が身に成就している。
不可能というよりも、可能の意味になりますが。

フロイト精神分析、あるいは、近代西欧哲学一般にそうかもしれませんが、「現実」と日本語訳されている言葉の原語は「リアル」であり、意味としては、目に見えないけれども「ほんとう」という意味になります。

新聞で「実質GDP」と出てくることがありますが、そこで「実質」と訳されている原語は「リアル」ですので「目には見えないがほんとうの」という意味になります。目に見える、普通に認識できるGDPは「名目GDP」ですが、そこから、先ずGDPデフレータというものを仮設して、その仮設したGDPデフレータを用いて出した仮設の値が実質GDPなので、完全に認識、了解できる領域の外部なのですが、「ほんとうの」と呼んでいることになります。

精神分析では、現実=不可能と言っていますが、その場合の不可能とは、普通の人間の認識(意識、自我)を超えた領域という意味で、自我による意識的な認識は完全には不可能とでもいった意味となり、そこから、けれども現実には人は毎日不可能を可能にして生きている…といった言い方になります。

自我、意識による完全な認識は不可能だが、現実には、つまり、ほんとうには、という言い方になるために、現実=不可能の領域となっているわけですが、これは、自我による認識、意識というのは、虚偽意識であるとされているために、意識=虚偽に対して、ほんとうの…という意味になっているからです。

仏教用語ですと、多分、「実際」という漢語が、精神分析の日本語訳語としての「現実」に近いのではないかと思います。

> ○臓器移植法案改正(改正といっていいのか?)

これも、確かに非常に難しい問題ですね。誤解を招く惧れのある書き方になってしまうかもしれず、書き方が本当に難しいのですが…

戦争に負けるということは、もちろん、多くの方がお亡くなりになるですとか、焼け野原ですとか、はあるのですが、倫理観、それまで、自分たちが正しい、善であると信じていたことがそうではなかったと、倫理観が粉々に砕けるということがあるのではなかろうかと思います。

敗戦はなかったことにして、敗戦を忘れて、いま、宗教教育をしようですとか、軍事教練をしようですとか、徴兵制をしこうですとか、お上からということは、本質的な問題の解決には何もならないわけですが。

臓器移植以前に、たとえば、輸血を考えても、おそらく、どんな宗教でも原理的な立場からは反対ではあるが、にもかかわらず…と、議論を尽くして…宗教界を含め、多数の人々が考えに考えて、また、いまでも日々悩んで、毎日、議論百出しながら、迷いながら、行われている国というのも世界にはありそうな気がします。

敗戦後の日本では、いわば宗教的な感受性といったものが失われ、そのことは決して後戻りできることではないでしょうし、今徴兵制をしこうということにはならないと思いますが、新たな価値観、戦争を忘れるのではなく、戦争という過ちを踏まえた、いまから、未来に向けて、前向きな、価値観というものは、まだ、人々の中から起きてきていないのかもしれません。

臓器移植もおっしゃるとおり、賛成・反対と、一概に単純な結論というのは出せない難しい問題だと思います。そのことは、議論を尽くすということなのかとも思いますが…、それはそれで難しい問題ですね。

真宗会館の修正会にお参りさせていただきました。懇親会に参加させていただいたところ、真宗会館20周年だそうでした。たまたま隣に座らせて頂いた方に伺いましたが、限られた予算で広い土地を確保しようとしていたら今の場所が見つかったということのようです。同朋会運動で井波別院瑞泉寺にだと思うのですがピケをはりにいかないといけないかもしれない、背広を着て行ったりするな…というような話があって、悲しいことになってしまったなぁ…という悲しい時代だったようです(実際にはこの方が動員される前に収束したらしく行かなくてすんだらしいです。にらみ合いだけでなく暴力行為に発展することもおそらく当時は想像されて悲しかったのではなかろうかと思います)。そんな中、別の方が、浅草で修正会をやっていたときには、この倍以上の人数がいた…ともありましたが、浅草というのは浅草寺ですかぁ~と質問された方があり、その話はそこで終わりました…。

☆theotherwindさんへ
可能不可能は、衆生の都合にすぎません。
弥陀の本願不思議でございます。
 
「議論を尽くす」…
「話し合わなければ分からない」「議論を尽くして~」とは、よく言いますが、話し合えば話し合うほど、議論を尽くせば尽くすほど、分かり合えなくなるのも、人間の悲しさですね。
 
真宗会館の修正会、お参りご苦労様です。
実は私は、一度も真宗会館の修正会にお参りしたことがないので、一度は行ってみたいなと思っております。
「浅草寺ですかぁ~」…だとしたら、この倍程度の参詣者数ではすまないでしょうね。
隔世の感といいますが、たった20年のことでも、ことの経緯を知る人は減り、昔のことを知らない方々が大勢を占めるようになる。
真宗会館の歴史だけの話ではなく、まさに戦争がそうですよね。60年70年経つと、戦争を知る人が減っていく。それは仕方ないこととしても、戦争を起こそうとする人間が出てくるというのは、人間の業の深さを感じます。

 

> 可能不可能は、衆生の都合にすぎません。
> 弥陀の本願不思議でございます。
 
>「話し合わなければ分からない」「議論を尽くして~」とは、
> よく言いますが、
> 話し合えば話し合うほど、議論を尽くせば尽くすほど、
> 分かり合えなくなるのも、人間の悲しさですね。

本当におっしゃるとおりですね。

> 隔世の感といいますが、

あまりにも悲しい思い出というのは、消化できない、受け入れられない、語れない…ということもあるかとも思います。

逆に、その後、いまでは、繁盛している場合は、歴史として語りやすいということがあるかと思います。

たとえば、三大将軍家光が葬式を寛永寺でやれと遺言し寛永寺が将軍家の菩提寺になったときに、増上寺はえー、うちじゃないのぉ~と言ったか言わないか分かりませんが、じゃ、かわりばんこ、というので、50%のバックアップはゲットできたものの、浅草寺の場合は、増上寺の権力拡大に伴い地位が下降、あげくは、綱吉の時代に境内で犬が殺された(でっちあげ?)ということでいきなり別当が追放され寛永寺に従属。明治維新では、これは増上寺だろうが寛永寺だろうが同じですが、境内没収され、長い長い裁判でやっと境内の所有権を取り戻しても、占有権、使用権は取られっぱなし、しかも、地代が無料……という窮乏化の歴史は、いまは、繁盛しているので、語りやすいということはあるかと思います。

> 実は私は、一度も真宗会館の修正会にお参りしたことがないので、一度は行ってみたいなと思っております。

鏡餅が紅白2段でした。秘密のケンミンSHOWで、金沢周辺だけという回があったので注目したということがありまして、今まで鏡餅の色とか2段か3段か、気にしたことがなかったのですが、おお、金沢だけじゃないじゃんと思いました。

実は前にも見ていたのかも……。ただ、色とか何段かとか普段、気にしませんよね。

☆theotherwindさんへ
真宗会館の鏡餅は紅白2段でしたか。
お寺によって、荘厳(お飾り)も微妙に違うものです。荘厳の決まりはありますが、それを故意に破っているのではなく、地域性とか、そのお寺独自の歴史が、自然と荘厳に表われるものです。
普段気にしないようなところを見るのも、楽しいものです。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 必要 不必要 で計る人生って… | トップページ | 2010年1月のことば »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ