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2009年12月

2009年12月31日 (木)

今年もお世話になりました

早いもので、今年も今日一日を残すのみですね。
お久しぶりです。長いことブログの更新が滞り、申し訳ありません。  
読書が好きな方は、当ブログを一読してお気づきかと思いますが、私の文章は物書きの文章ではありません。読ませる文章ではないのです。ブログや寺報をまめに続けていると、文章を書くのが上手な人と思われがちなのですが、私自身は、読書が苦手で(読むペースがとても遅いのです。で、読みかけと化した本が山のようにあります)、文章を書くのも億劫なのです(作文がまったく書けない人でした)。
そんな私が、親鸞聖人のおしえを、一人でも多くの人に知ってほしくて、寺報 そしてブログを始めました。ずっと伝えたい気持ちの勢いで書いてきましたが(その割にはよく続いてましたね)、いかんせん蓄積がないのと、自分の文章に対する嫌悪感から、ブログが遠のいてしまいました。
お寺参りにみえる門徒さんからは、「ブログ楽しみにしています」「孫が見ています」などと声をかけていただき、ありがたいことです。当ブログを楽しみにしてくださっているみなさん。しばらく留守にして失礼致しました。
書くに書けない時期だったんだなぁと思って、お許しください。
 
書くに書けないとはいえ、書きたいことは山ほどありました。ただ、やはりリアルタイムに書いていかないと、自分の中でも想いが薄れていくのですね。時間が経っても書けることは書いてきましたが、更新されなかった文章も多々あります。
寺で、パソコンの前に落ち着いて座っていられる時間がなく、「書きたい!!」と思ったときと、パソコンの前でゆっくり座っていられる時間とのズレが生じ、結果書かずに終わるということが続きました。時間そのものがないほど忙しいわけはなく、先ずこなさなければならない事務作業をしてしまうと、ブログに取り掛かる時間がなくなってしまうのです。
パソコンで書けないならと、移動の車中などで、携帯で文章を書いたこともありますが、やはり携帯。長文を書くには適しません。この文章、携帯で書いたなと思わせる文章が、いくつかありましたでしょ? ミニパソコンを買ってまで外で仕事をしなければいけないわけでもないので、外用のパソコンも持っていません。
余談ですが、キングジムから出ている「ポメラ」なるものを買いました。テキストをただ打ち込むだけのアイテムです。USBで接続して、書いたテキストをパソコンに送ることができます。まだそんなに使っていませんが、先日、秋田から東京に向かう新幹線こまちに乗りながら、4時間の道中、ポメラとにらめっこしてました。いくつか文章を書くことができました。なかなか優れものです。ミニパソコン買えよと突っ込まれそうですが。
  
言い訳が長くなりました。なんだ文章書けるじゃんって感じですね。
さて、今年一年を振り返り、折にふれ、いろいろなことを考えていました。
今年あった出来事をちょっと振り返ってみます。
○日本で裁判員制度スタート
○臓器移植法案改正(改正といっていいのか?)
○実母による代理母出産
○二酸化炭素排出量をめぐる、国と国との駆け引き
 
 
○日本で裁判員制度スタート
人が人を裁くのは、正直困難なことです。誰もが罪を犯しうるのですから。
しかし、法治国家で生きる我々は、法という仮に定められた約束事の中で生きていかなければなりません。
制度が始まった以上、その制度がある中で、自分がやるべきことをしていかなければいけません。それができないならば、制度が始まる前に、反対なり抵抗をしなければいけませんでした。
いつの間にか決まってしまったという言い訳もできますが、もっと国の動きをチェックする義務も国民にはあります。民主党が政権をとり、今まで見えなかったもの(見ようとしなかったもの)が見えてきて、あらためて感じました。
個人の意見を書くのを忘れていました。制度そのものには、私は反対の立場でした(「反対」と言えるほどよく学んでいませんでした。「不安」といったほうが正しいかもしれません)
人が人を裁くの困難だと書きました。もうひとつ。人が人を許すことも困難なのです。日本の裁判員制度は量刑まで決めます。その責任の重さも感じますが、被告人が課された量刑を終えたとき、そこに許しがあるのが本来だと思うのです。しかし、果たして許すことができるのか(いや、できない)。
このことは、裁判員制度の範疇を越えたことではありますが、制度のことを少なからず学んだときに、そういえば、課された量刑を終えたら、そこには許しがあるべきじゃないのかな。もし許せないというのなら、それは課した方に罪が生じるのではないだろうか、と考えるようにもなりました。
「許さなければいけない」ということを言いたいのではありません。許せないという事実があんだなということを、あらためて思ったのです。
 
山本周五郎さんの「ちくしょう谷」の中の文章が思い起こされます。 
ゆるすということはむずかしいが、
もしゆるすとなったら限度はない
ここまではゆるすが、ここから先はゆるせないということがあれば、
それは初めからゆるしてはいないのだ

  
  
○臓器移植法案改正(改正といっていいのか?)
臓器移植そのものには、私は反対しています。
そのようなことを言うと、「臓器移植によって助かるいのちを、見殺しにしろというのか!」と怒鳴られるのですが(経験あり)、そういう議論をしたいのではないのです。
反対しているけれど、実際に自分や家族が臓器移植が必要だということになったとき、絶対に動揺すると思うのです。悩むのです。苦しむのです。臓器移植に賛成している人だって、やはり悩み苦しむのです。
また、臓器ではないけれど、火傷などを負った場合に皮膚の移植をすることがある。腎臓は一対あるからと、脳死判定に関係なく腎臓の移植は行われる。さて、臓器移植に反対しているといいながら、皮膚や腎臓の移植は、抵抗なく受け入れるのだろうか。脳死判定の後に移植される臓器の移植は反対で、皮膚や腎臓はいいのか。そういうことも、自身に問いました。
夏ごろでしたか、臓器移植法案改正について国会で議論されていたのは。その報道を見ていて感じたのは、「報道する人たちは、みんな移植賛成なんだなぁ」と思ったのです。ニュースで伝わってくるのは、賛成の前提に立った報道。今現に移植を待つ家族を映し出し、日本国内で子どもが臓器移植できるようにと訴えかける報道。あの映像を見れば、助けてあげたいと思うものです。しかし、脳死判定をされる子を持つ親もいるのです。脳死判定されても、体は成長していくのです。つまり、やっぱり死んではいないのです。移植を待つ家族の映像は、テレビでたくさん見せられましたが、臓器提供を願われる側の家族の映像は、私は一度しか見ることがありませんでした。
「いのちを大切にする」って、どういうことでしょう。
  
今、臓器移植法案改正について書いたのは、多くの問題提起がなされていると思ったからです。
臓器移植そのものの賛否についてもそうですが、脳死を人の死とすることについての問題もあります。もっと突き詰めると、今、死と判定される 心停止・自発呼吸停止・瞳孔散大も、約束事として通っているから、そこで死の線引きができるけれども、やはり、そこをもって死といえるのだろうか。という問題も、あらためて浮き彫りになってきました。さて、死とはなんでしょう。どこまでが生で、どこからが死なのでしょう。
それから、報道のあり方の恐ろしさを、あらためて感じました。テレビ局によって立ち居地が違うならば、各局の報道を見比べて、自分で考えることができますが、みんな同じ方を向いている。報道によって、国民の意思の操作が為されうる事実を表わしています。今現に、気づかないうちに、「これが正しいんだ」って植えつけられているかもしれません。
   
   
○実母による代理母出産
「人間が頭で考えることは、実現可能である」と、聞いたことがあります。臓器移植にしても代理母出産にしても、考え出された当時は夢物語だったことでしょう。それが今では、実際に行われています。クローンについても、規制はされていますが、人間、それが可能だとなったら、研究を続けるものです。研究を続けていたら、実際にやってみたくなるものです。また、それが実際に行うことができるのは、需要があるからです。
人間の欲望にブレーキはかけられないのかもしれません。
  
  
○二酸化炭素排出量をめぐる、国と国との駆け引き
二酸化炭素排出量をめぐって、国と国との議論が続いています。
話に決着がつかないのも当然です。先進国は、みんなで同じように抑えようと言うし、途上国は、先進国は今までさんざん二酸化炭素を排出してきて、今になってみんな同じように抑えようなんて勝手すぎる、と。
先ほどの臓器移植のこととも関係しますが、臓器提供が日本で進まない現状によって、途上国での臓器売買・子どもの売買が起こっています。それなら、日本で臓器提供が進むようにすればいいじゃないかといえば、それもまた危うい。
一方を立てれば、一方が不利になる。こっちが良かれと思って突き進めば、他方にとって悪い結果をもたらす。難しいものです。
  
        
 
今年一年(に限った話ではありませんが)の出来事から、感じたことを書かせてもらいました。
もっともっといろいろな事項があるのですが、リアルタイムで書かないから忘れてしまいました。
もしかしたら、私の文章によって傷ついた方もいるかもしれません。
もしかしたら、マスコミによる国民の意思の誘導だなんて言いながら、私自身も、意思の誘導をしているのかもしれません。
もしかしたら、誤解した知識で、自分の考えを持ち、文章を書いているかもしれません。
申し訳ありません。
  
今年最後に、ちょっと頑張って文章を書いているのは、それぞれの賛否を語ろうというのではありません。良い解決方法を探ろうというのでもありません。
今の私たちは、
○答を求めすぎている
○答をひとつだと思いこんでいる
○自分の考え方とは違う人がいることを忘れている
○今、私の前に人がいることが見えていない
そういうことを感じたのです。
  
すぐに答だけを求めるけれど、自分で考えるということが大事なこともあります。
答はひとつだけとは限りません。
答がない、という答だってあります。
自分の置かれている立場や境遇によって、考え方は変わるものです。
昨日まで自分の中での正義(悪)だったことも、ふとした瞬間に正義(悪)でなくなることがあります。
自分の考え方とは違う人がいる…だけではない。私自身の中にも、違う考え方をする私がいるものです。自分の中で、意見をぶつけ合うことも大切です。
時事問題を取り上げ、いのちが大事・いのちが大切・平和を願うなどというけれど、今、私の前に人がいることを忘れていませんか。
   
「今、私の前に人がいる」…今年一年 生かされてきて、親鸞聖人のおしえの醍醐味は、「今、私の前に人がいる」ことを気づかせるおしえだったんじゃないかなと、強く感じました。
そのようにいただけた喜びもありますが、ということは、そのことが見えていなかった事実があります。
人を人と見ない恐ろしさ 
自分さえよければいいという悲しさ
今年を振り返り、というか、今年の歩みの中で、そういうことを考えていました。

私が今年読んだ数少ない本の中で、素敵なことばと出会いました。
   
隣に誰かがいるだけで、〝憂い〟は〝優しさ〟に変わります。
   (斉藤里恵さん『筆談ホステス67の愛言葉』より)
 
人がいるという気付きが、憂う私のこころに、優しさを与えます。

○日本で裁判員制度スタート
○臓器移植法案改正(改正といっていいのか?)
○実母による代理母出産
○二酸化炭素排出量をめぐる、国と国との駆け引き 等々・・・

ハッキリ言って、解決策などありません。誰もが納得する答もありません。
しかし、だからといってあきらめたり投げ出したりするのではなく、今、私の前に人がいるということを忘れてほしくないのです。
それだけを言いたくて…長々と書いてしまいました。普段から書けばいいのにね。
  
 
 
O野さん、ブログを読んでくださっているそうですね。29日だったかな、お母様がお寺参りにみえて、「娘がブログを拝見してます」と仰ってました。ありがとうございます。寺報も、バックナンバーをとってあります。春のお彼岸のときにお渡しいたします。
 
theotherwindさん、ブログにコメントをいただいていたのに、返事もせず失礼しました。私のキャパオーバーで、コメントのお返しすら書けませんでした。いただいたコメントはちゃんと拝見しました。当ブログを訪ねてくださって、ありがとうございます。
 
小中学校の同窓生のS藤さん、無事出産されましたか? お寺の門前で掃除をしている私に声をかけてくださって、本当にありがとう。もしかしたら、20年ぶりくらいの再会になりますかね。お話ができて、とてもうれしかったです。出産されて、大阪に戻られたのでしょうか。里帰りで烏山に来ることがあったら、お寺へもお寄りください。待ってます。
 
ブログや寺報を読んでくださっているみなさん
白骨の会や聞法会に来てくださるみなさん
親鸞聖人に人生を学ぶ講座で出会ったみなさん
今年一年お世話になりました。ありがとうございます。
どうぞ良いお年をお迎えください。
                  南無阿弥陀仏

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2009年12月 8日 (火)

必要 不必要 で計る人生って…

「結婚したら、子どもを必要と思いますか?」

内閣府のアンケートの設問、冷たいなぁ。
アンケートの性質上、そういう設問になるのかもしれないけれど、せめてその次に「子どもがいる生活はいいなぁと思いますか」というような設問も設けてほしかったなぁ。
(その設問もどうなの?という声もあるかもしれませんが)

似たような設問だけど、きっとまったく違った回答結果になると思います(と、信じています)。

2009年12月 1日 (火)

2009年12月のことば

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身、自らこれを当くるに、有も代わる者なし。
               『仏説無量寿経』下巻
      

人、世間の愛欲の中にありて、独り生じ 独り死し 独り去り 独り来りて、行に当り苦楽の地に至り趣く。
身、自らこれを当(う)くるに、有(たれ)も代わる者なし。
『仏説無量寿経』下巻
 
〔文意〕
人は世間の愛欲(執着心・煩悩)の中にあって、独り生まれ、独り死に、独り去り、独り来り、自己のなす行いによって果を受け、苦や楽の境界をえるのである。
自らの行為の結果は自身で受けるのであり、誰も代わってくれる人はいない。
  
   
 独り生じ 独り死す
  生まれるのも独り
  死ぬのも独り
  
しかし、生まれ、生き、死ぬまでの間、本当に独りならば、どうして「独り」ということに気付けるだろう。
人は、関係の中を生きている。だからこそ、助け合うこともあれば、傷つけ合うこともある。
星の数ほどの人々と出会い、お互いに影響し合う。
    
一緒に過ごしていて楽しい人たちがいる。家族・友人・恋人…
この世にいることすら許せない人たちがいる。意見や考え方の合わない人・昨日まで仲良しだった友…
関係はさまざま。「出会えてよかった」と言える出会いもあれば、「出会いたくなかった」と涙こぼれる出会いもある。しかし、それらすべての出会いの縁により、今の私がいる。
関係の中を生きている現実があるからこそ、「独り」の事実が際立つ。
    
私の人生は、誰も代わる者がいない。私だけのもの。どんなに楽しいことも、たとえどんなに苦しいことも、誰も代わる者はいない。
家族・友人・恋人の笑顔に支えられ、私は生きる力をいただく。だからといって、その人たちの苦しみを、私が代わって受けることはできない。できるとすれば、共に苦しむこと。でも、その苦しみは、似て非なるもの。まったく同じ苦しみを感じることは、できない。その「できない」という苦しみを、私は感じ続ける。
   
意見や考え方の合わない人のせいで、私はこんなにも苦しめられている。こいつらさえいなければ、私の人生はもっと楽しかったのに。この苦しみを、こいつらにぶつけてやりたい。でも、苦しみは伝わらない。人を傷つけている自覚がないのだから。
その自覚がない人とは、私。知らないうちに、人を傷つけて生きてきた。昨日まで仲良しだった友を、いや、仲良しだからだからこそ、傷つけてしまうことがある。自覚ないままに友を傷つけている現実を、私は見つめ続ける。
    
自己のなす行いによって果を受ける。果を受けるのは私。果を作り出しているのも…私。
関係を生きているからこそ、そのような私が見えてくる。そんな私だからこそ、すくいの手がさしのべられている。この私「一人」のために。
「独り」とは、「孤独」ということではない。「独り」とは、「ただ私一人」ということ。
阿弥陀如来の悲願は、ただ私一人のためにある。
一人ひとり、誰もが、代わる者のいない いのちを生きている。阿弥陀の悲願に包まれながら。
   
   
 
西蓮寺門前の掲示板に月替わりで人形を飾っています。
12月の人形は、雪だるまの 親子です。
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