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2009年12月 1日 (火)

2009年12月のことば

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身、自らこれを当くるに、有も代わる者なし。
               『仏説無量寿経』下巻
      

人、世間の愛欲の中にありて、独り生じ 独り死し 独り去り 独り来りて、行に当り苦楽の地に至り趣く。
身、自らこれを当(う)くるに、有(たれ)も代わる者なし。
『仏説無量寿経』下巻
 
〔文意〕
人は世間の愛欲(執着心・煩悩)の中にあって、独り生まれ、独り死に、独り去り、独り来り、自己のなす行いによって果を受け、苦や楽の境界をえるのである。
自らの行為の結果は自身で受けるのであり、誰も代わってくれる人はいない。
  
   
 独り生じ 独り死す
  生まれるのも独り
  死ぬのも独り
  
しかし、生まれ、生き、死ぬまでの間、本当に独りならば、どうして「独り」ということに気付けるだろう。
人は、関係の中を生きている。だからこそ、助け合うこともあれば、傷つけ合うこともある。
星の数ほどの人々と出会い、お互いに影響し合う。
    
一緒に過ごしていて楽しい人たちがいる。家族・友人・恋人…
この世にいることすら許せない人たちがいる。意見や考え方の合わない人・昨日まで仲良しだった友…
関係はさまざま。「出会えてよかった」と言える出会いもあれば、「出会いたくなかった」と涙こぼれる出会いもある。しかし、それらすべての出会いの縁により、今の私がいる。
関係の中を生きている現実があるからこそ、「独り」の事実が際立つ。
    
私の人生は、誰も代わる者がいない。私だけのもの。どんなに楽しいことも、たとえどんなに苦しいことも、誰も代わる者はいない。
家族・友人・恋人の笑顔に支えられ、私は生きる力をいただく。だからといって、その人たちの苦しみを、私が代わって受けることはできない。できるとすれば、共に苦しむこと。でも、その苦しみは、似て非なるもの。まったく同じ苦しみを感じることは、できない。その「できない」という苦しみを、私は感じ続ける。
   
意見や考え方の合わない人のせいで、私はこんなにも苦しめられている。こいつらさえいなければ、私の人生はもっと楽しかったのに。この苦しみを、こいつらにぶつけてやりたい。でも、苦しみは伝わらない。人を傷つけている自覚がないのだから。
その自覚がない人とは、私。知らないうちに、人を傷つけて生きてきた。昨日まで仲良しだった友を、いや、仲良しだからだからこそ、傷つけてしまうことがある。自覚ないままに友を傷つけている現実を、私は見つめ続ける。
    
自己のなす行いによって果を受ける。果を受けるのは私。果を作り出しているのも…私。
関係を生きているからこそ、そのような私が見えてくる。そんな私だからこそ、すくいの手がさしのべられている。この私「一人」のために。
「独り」とは、「孤独」ということではない。「独り」とは、「ただ私一人」ということ。
阿弥陀如来の悲願は、ただ私一人のためにある。
一人ひとり、誰もが、代わる者のいない いのちを生きている。阿弥陀の悲願に包まれながら。
   
   
 
西蓮寺門前の掲示板に月替わりで人形を飾っています。
12月の人形は、雪だるまの 親子です。
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コメント

今月もこころに響く、そして私自身のことをずばり言い当てられていることばを頂戴いたしました。今年はこれまでにも増していろいろな気付きを与えられました。骨折の治療に当たっていただいた医師から「私は治る手助けをしたまでです」ということばを戴きました。これから医師になろうとする者として、このことばは私自身にも跳ね返ってくることばだと思いました。私には患者さんの病や外傷を治すことなどできない、患者さんに寄り添っていくことができるだけだということを思いました。ずいぶん思い上がっていました。このことはこれから患者さんへの施術や診療に生かしてまいりたいと思います。また、自分以外の人と自分を比べて今の自分を卑下し現状を嘆くことが少なくなってきました。私という人間を演じられるのは他の誰でもなく私だけだということに思いをいたしたときから、肩の力が少しずつ抜けてきたような気がします。私はありのままの私でいい、そして、周りの人のこともその人のありのままでいいと思うようになってきました。だんだん少しずつですが、気持ちが楽になってきた気がします。自分が父親から受けてきた仕打ちについてこれまで抱いてきた憎しみや恨みは全く消えませんが、無理に消そうとも思わなくなってきました。やっぱり最後に行き着くところは、仏様阿弥陀様ご先祖様に全部お任せして、自分の今居るところで精一杯生きる、これしかないと思います。

昨日はお寺で組の同朋会を開催していただき、ご苦労様でした。準備・後片付け等、大変だったでしょう。昨日の先生の法話はテーマが多岐に亘っていたので、何を聞かせていただいたのか後から整理するのが大変です。

今読んでいる安田先生の講録が、ちょうど「一人」ということを説かれている箇所でして、各人が一人にならないと本当に遇えずに、対象として利用しようとするだけというようなことが説かれていて、かつさんの記事と合わせて色々と考えさせられます。

ふと、安斎育郎『霊はあるか―科学の視点から』講談社ブルーバックス(2002/09)ISBN-10: 4062573822 ISBN-13: 978-4062573825を思い出しました。

5分、立ち読みしただけなので、うろ覚えですが。

霊はありますか?というアンケート調査が載っていて、

(浄土)真宗のどこかの宗派の回答は

「いかなる意味でも存在しない」。

これはきっぱりしていて良いですね。一字一句用語も練られています。

他は、もちろん5分立ち読みしただけですが、なんだかはっきりしなくて(※1)、あまり感心しなかったのですが、

私が、おおーこれはこれできっぱりしていてすばらしいなぁと思ったのは、真言宗のどこかの宗派の回答で、

「実体として実在する」。

おー、これはこれでカッコ良い!と思いました。

※1 「輪廻」ということばが、意味は吟味されていなくても言葉は、意味不明でなんとなく、昔から今まであるときに、今「輪廻」概念を考えるなら、今ここの定義で「輪廻」という用語の意味は何なのか、「輪廻の主体」はなんなのかという問題というのは多分、永遠不滅の問題になるかとも思います。禅宗は確か「未回答」だったような記憶。禅の場合、回答しないということが回答なんでしょう。あとは、なにがなんだか難しい文章が回答。無責任な読者(立ち読みですが…)からするとちょっとつまらなかった。

もう一つふと思い出したことばは、私の母方の祖父が浄土往生の素懐を遂げたときのことば:

「それではみなさん、また、お会いしましょう」

母方の祖父は北陸の人間なので、北陸では、それはメジャーというか普通ですよ…というご意見はあるかと思いますが…。

theotherwindさん

初めまして。このお寺の門徒です。勝手にコメントを書くのは失礼かとも思いましたが・・・

>「輪廻の主体」はなんなのかという問題というのは多分、永遠不滅の問題になるかとも思います。

ということについて、仏教では唯識派とお東の近代真宗教学が回答しています。

余計な一言だったかも知れず、済みませんでした。

☆ガクさんへ
「自分が父親から受けてきた仕打ちについてこれまで抱いてきた憎しみや恨みは全く消えませんが、無理に消そうとも思わなくなってきました。」
大切な気付きだと思います。
ガクさんは今まで、憎しみや恨みを忘れないというところで立ち止まられているように感じていました。
「憎しみや恨みを忘れましょう」などと言う気も、私にはありません。でも、憎しみや恨みを抱えてでも生き抜いていける道があるのだと、私は感じています。そういう道があることを、ガクさんにも感じてほしかった。
「無理に消そうとも思わなくなってきました。」
…消すこと、忘れることが目的になっては、結局、そこで人生堂々巡りです。逃げたい事実(過去)から、実は自ら深みにはまっているようなものです。
消す必要がない、忘れる必要がないという気付きによって、逃げたかった事実が、逃げる必要のないものだと、こころが落ち着く。ガクさんは、そういう想いに至られたのだと、嬉しく思います。
 
白骨の会、いつも参加できない日程を組んでしまって、申し訳ありません。でも、いただいたコメントを読んで、ホッとしました。


☆やすさんへ
天気が悪い中、「親鸞聖人に人生を学ぶ講座」にご出席いただき、ありがとうございます。
私も講座で話すご縁をいただき、自分の生涯と照らし合わせて、正直いろいろな想いが駆け巡っています。
系統立てて、きれいにお話することはできますが、若手(という年でもないのですが)が講師陣に選ばれ、話す縁をいただいたというのは、そういういろいろな想いを思いっきりさらけ出して来い!!ということだと思うのです。
そういう話は聞きたくないと思われる方もいらっしゃることと思います。でも、親鸞聖人に出遇ったものが、おしえを後に伝えていくイニシエーションだと思うのです。この思索の時期を越えたとき(御遠忌をきっかけとして)、きっと大きな力が動き出すものと思います。
どうぞ、講座に足を運び続けていただきたく、よろしくお願いいたします。

☆やすさんへ
毎年、自分の中でテーマになることが自然と沸き起こるのですが、今年のテーマは「一人の自覚」でした。
一人の自覚は、他者の自覚
他者の自覚あるところにこそ、一人の目覚めあり。
というようなことを考えるに至りました(結論というわけではありません)。
12月、現時点で、大経下巻のことばが身に響き、表記の文章を書くにいたりました。
今年も一年、いろいろな刺激を賜りまして、ありがとうございます。感謝です。
 
安田先生の講録、興味深いです。 

☆theotherwindさんへ
「霊はあるか」…何回か口にすると、とても矛盾に満ちたことばだと思いました。いろいろな本があるものです。 
   
「それではみなさん、また、お会いしましょう」
そう言って行かれた方のお話、聞いたことがあります。
そのことばに、輪廻を超えた思想を感じます。

☆やすさんへ
一言、ありがとうございます。
『霊はあるか―科学の視点から』を書かれた安斎育郎さんが、真宗門徒だったら…おそらく、この本は存在しませんでしたね

> 仏教では唯識派とお東の近代真宗教学が回答しています。

大変有難うございます。

仏教は全く不勉強なのですが、学部の専門は一応、精神分析でした(こちらも、ほとんど勉強してませんでしが…)。

精神分析ですと、フロイトが「大洋感情」を否定していますので、「輪廻の主体」とは言いません。

が、いわゆる「輪廻の主体」として考えられるものは、精神分析的には、超自我とエスとの関係にあたると思います。

「超自我(※ 死の欲動ですとか涅槃原則とかと関係の深い概念です)が超自我に伝わる」だったか、そういう言い方をフロイトはしていたと思いますが、家族とか、友人とか、(あるいは書物でも良いのかもしれませんが、精神分析では書き物よりも耳で聞くということが圧倒的に優位にあります。フロイトが描いた図にも耳が描いてあります。)が語った言葉が、超自我→エスに蓄えられる…というイメージでしょうか。

精神分析では、ユング心理学のように「集合無意識」とは言いません。

なぜならば、フロイトが言っているように、「集合無意識ということばは間違いで、なぜならば、集合無意識と言ってしまうと、集合無意識というものの他に、別途、個人的無意識というものがあるかのようになってしまう。けれども無意識はいつでもつねに集合的だから」です。

無意識は、トレゾール・ド・シニフィアンと言い換えられたりします。「言葉の蔵」というような意味でしょうか。巨大なテキスト、今までに聞いたことばが一つも忘れられずに、置いてある蔵というようなイメージ。

日本人であれば、全部の日本語が載っている辞書のようなイメージでしょうか。あるいは経堂?

このお蔵、どこにあるのかというと、どこでもない場所にある、というような言い方、あるいは、「ある」と一旦書いて、「ある」に斜線を引いて見え消しするというような表記をしたり、外部の内部、内部の外部と言ったりしてややこしいのですが、イメージとしては、人間はネットワークにつながった端末であって、別途、巨大な外部記憶装置があるという感じですね。

言ってみると(こう言うといいすぎなのですが)、本当の私、エスというのは、自分の外部にあるわけです。「エスのあるところに自我をあらしめよ」、というのが、治療方針というか、永遠の精神分析というか、治療は終わらないのですが、一応モットーになっています。

フロイトにおいて、「防衛機制」(防衛メカニズム)という用語はもちろん、もうちょっと広い範囲を表しますが、「防衛機制」のもっとも代表なのは「自我」です。「自我」は「防衛機制」なんです。言ってみると本当の私ではありません。意識は虚偽意識です。

未来は予測不可能ですから、実際には、突飛にいろいろなことが突発的におきています。フロイトは「驚愕」と言っています。

「事後性」と言いますが、人間は、後から、「いや、それは、織り込み済みだった。わざとだ。自分がそうしようと思ったからおきたのだ。」と自分の記憶を改変します。

この防衛によって、「私は昔からこういう人間である(明日も今日と同じ日々が続く。自分は大丈夫)」という自我の一貫性の虚構が保たれています。

しかしながら、たとえば、自分の親が死んでしまうというような「突然の出来事」、これを現実との出会い損ね※と言いますが

※ カントでもそうですが、「現実」は不可能の領域、認識不可能とされているので、「出遭う」とは言いません。自我がなくなれば出遭えるのかもしれませんが、それですと失語症とかになっていると思います。

これが起きた場合、人は皆プチ鬱になります。

なぜなるかというと、カントも同じことを言っているように思いますが、人はみなだれでもなんでも自分の意図が先にあって、結果が出てきている、自分は世界の支配者であるという全能感を持っているわけですが(端的に、気がついていないが、人は皆、傲慢なんですが)、自分の親が死ぬというような事態に対して、子供の頃に、親がうるさいからいなければ良いと心の中で一回思ったから、その念力で親が死んだというような、人が意識しないで通常行っている操作では、耐えられない事件というものが起きてしまうわけです。

親が死んだのは自分の意図によると自分で自分を洗脳するという操作には無理があるんですね。罪悪感にうちひしがれてしまいます。(もともと、カントでも、意識=自我=罪の意識です。それは人間が、自分の思うように世の中を動かしているという傲慢さから全て来ています)。

が、人は必ずしも、自我と他我(あなたはわたしをこういう人間だと思っているだろうがそれは違う、わたしはあなたより偉いというお互いの勝手な想像の無限のあわせ鏡)という関係だけではなく(←これを想像的軸と言います。なぜなら言っていることではなくて、言わんとすることを想像しているからです)、経典とか、聖徳太子のことばとか、七高僧とかでも良いでしょうし、がばいばあちゃんの言葉とか、テクストそれ自体の力、どこかで聞いたことばが、一言も忘れることなく蓄えられている蔵との関係(これを象徴的軸と言います)があり、これによって、あるていど、折り合いをつけて生きていける可能性があります。

精神分析治療はですから、お医者さんは、患者さんの話を聞く、ふーん、で、あなたはどう思いましたか…、程度ですませる、技術の訓練が必要になります。

いずれにせよ、フロイトは「回答」とは言っていません。死の欲動であれば「形而上学」と言っています。

永遠の問いだと思います。

> いろいろな本があるものです。

この新書は、科学者の立場から、という啓蒙書であって、仏教書ではないですが、トンデモ本というわけでもなく、ふつーの本です。

仏教界にアンケートを出してみました…という章があるのですが、その章では、アンケート結果に入る前に…

先ず、もっとも明確にはっきりしているのは浄土真宗であるとして、単に何か教科書的なものに書いてあるだけではないということで、(西)本願寺(だったと思いました)が定期的に出していて門徒の方が普通に読んでいる新聞(?)のなんというのか天声人語みたいなところ(?)からの引用があったはずです。

ホテルニュージャパンの火災の跡地に入札した人がいなかった、理由は祟りが嫌だから…、それはどうかとか、他のエピソードも交えた所感が2ページくらい引用してあったと思いました。

続けてこの本の著者の、これは浄土真宗独自ではなく本来仏教ではこういうもので…と地の文が続き、お釈迦様でも無記うんぬんと文章がやはり数段落あったと思います。

その上で、しかしながら、浄土真宗の門徒であっても、とあって、どこかで何かの講座があったあと、講座を聞いていた老齢の女性から、霊はないなんていうさびしいことは言わないでくれ、今、嫁にいじめられているから、死んだら祟りたいのだから…と言われた例があるというエピソード、なんでもかんでも霊のたたりにする別の老齢の女性が、除霊(?)の方法について、お手次のお寺の若い僧侶に質問したところ、懇切丁寧に話してもらったにもかかわらず、「これだから最近の若い坊さんはだめだ、なんもわかっとらん」と怒られたエピソードが紹介してあって、

なんというのか、日本の民間信仰(?)として、祖霊崇敬のようなものがあると考えられる…となって、アンケート調査の結果につながっていたと思います。

私の父も、先にお彼岸と書いてしまいましたが、よく考えたらお盆でしたが、お墓の掃除だけ行って、帰ってきているように思います…。直、民間信仰(?)としての祖霊崇敬かどうかは言い切れませんが…。最近気がついたのですが、どうも、略肩衣、いくつも、豪華な刺繍が入ったりしているのを持っているらしいのですが、見たことありません。仏壇にしまいこんでいるらしいです…。普段使えばよいのに使わないのは、きっと、どこかで門徒失格とか思っているのかも知れません…。

>もう一つふと思い出したことばは、私の母方の祖父が浄土往生の素懐を遂げたときのことば:
「それではみなさん、また、お会いしましょう」
母方の祖父は北陸の人間なので、北陸では、それはメジャーというか普通ですよ…というご意見はあるかと思いますが…。

母方も父方も真宗大谷派です。

父方の祖父は「死にたくない」と泣きました。最後の最後はそれでも「ありがとう」と言ったから、不思議だなぁと思ったから…ということはもしかするとあるのかも知れませんが、日本語表現はすごく難しく、適切な表現はできないのですが、感動しました。

人間の唯一にして最大のわがままとは…

自分が死にたいときに、自分が死にたい仕方で、死にたい

ということでしょう。

人は、自分が欲していることを知りません。自分にとって何が「よきもの」であるかを知りません。ですから人間は、そういう意味では自己中心的になることは、残念ながらできません。なにしろ自分が欲していることを知りませんから、その意味では、利己的には、なりたくてもなることはできません。

その意味では人間は、根本的、本質的に、利他的です。

人類社会に貢献したいというのが人の欲していることです。人は自分のしたいことは知りませんので、他人から認められたい、愛されたいということだけしかありません。

すると、人は、他人のために、自分の命を投げ出したいと思っていることになります。

It is a good day to die. 今日は死ぬのに良い日だと、決死の覚悟で戦いに向かう戦士が言うというのは人類の伝統にあることはあります。お父さんの名前、おじいさんの名前……、と並んで、自分の名前も、殿堂入り…という言説。そういう言説は、確かに、あることはあります。

ですが、実際には、

自分が死にたいとき=今日は死にたくない
自分が死にたい仕方=この死に方では死にたくない

つまり、死ぬのに良い日、今日は死ねない理由があって仕方ないから死ぬ日を後倒しするが、よし、本日は死ぬのに良い日だ、というそういう日、それは、いつか来るのか???というと、実は来ません。いつまでたっても、今日はやだなぁ。今日は無理だろう。と何か、今日は死ねませんという理由はいつでもあるはず。まだやらなくてはいけないことがあるので、今日死ぬことは簡単だが、死なない。恥をしのんで、臥薪嘗胆、やるべきことをやり終えたら死にます…となるはずです。

同様に、どんな死に方でも、人類に貢献しているとは言い切れません。断言できません。どんな死に方でも、犬死なんじゃあないかなあと、実は、誰でも思うはずです。ですから実際にはどんな死に方もイヤということになります。

今日は死ぬのに良い日だという日は実はいつまでたっても来ない、この死に方だったら人類に貢献して死ぬのだから満足であるという死に方は実はないわけです。

それを、教えてもらったと思います。

うまく表現できませんが。

自分が死ぬときには、死にたくないと泣きわめいて死ぬというところを、自分の子どもに見せてあげるというのは、物凄く大事なことなんじゃあないかと思いました。

若い人が自死されたりするニュースは本当に傷ましいことです。文字面の上からは、矛盾しますが、死というものは厳粛なもので、他人が、何か言ってあげていたら…というものではないということは同時に思いますが。

父方の祖父が亡くなるとき、途中で呂律が回らなくて、何を言っているのか分からないときがありました。そのときに、叔母が、(なんでもいいから)「うんうんと頷いてあげなさい」と言ったのですが、私は、それはちょっと違うと心の中では思いました。意味が分からなくても一生懸命聞くということが大事。死はもっと厳粛なものだと思ったわけです。既に高校生でしたので、大人ですから、そんなときに、いちいち反論しませんでしたが…。

それでも最後の最後は、はっきり「ありがとう」と安らかな顔で言ったのは不思議ではあります。

>「それではみなさん、また、お会いしましょう」
そう言って行かれた方のお話、聞いたことがあります。そのことばに、輪廻を超えた思想を感じます。

====

逆に言ったら(同じことを、言語の操作、論理の操作により、ひっくりかえして表現すると)、

未来永劫、無限回、輪廻し、永遠に解脱しないで、今生とまったく同じ人間関係を生きたとしても満足という覚悟で、いまここの人間関係を生きよ…

となりますね。

論理的には。

実際、それだけの覚悟はなかなかできないわけで、まじめに考えたら、うーーーん、何か他の人生はないのかなぁ~という迷いというのが、ゼロとは、誰も言い切れないとは思いますけれども(^0^;)。

☆theotherwindさんへ
ご親族のお話を丁寧にお話くださいまして、ありがとうございます。
 
「今日は死ぬのにもってこいの日」という本があります。本棚にあるのですが、まだ読んでいませんでした。

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